Introduction

このサイトは、レイランダ―・セグンドとその友人達による、
かなり偏った趣味や思い入れに基づく文章などを中心に構成されています。
現代文明の危機に根ざす、新しい社会理念の構築を後押しする
メディアの一つとなることを、目標としています(ちょっとおおげさですが)。


la civilisation faible
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   サイト名の由来 〜 「弱い文明」 をめぐって   


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「弱い文明」という言葉から、さまざまな人がさまざまなイメージを思い起こすことでしょう。昔流行った「人にやさしく」「〜にやさしく」というスローガン同様、間口が広すぎて、わかったようなわからないような気分になるというか。
 ある人はこの言葉から江戸時代を思い浮かべ、ある人はもっと古い、ズバリ原始時代を連想するかもしれません。
 あるいは現代であっても、自然と共存する「田舎」の暮らしとか、環境保護の思想・運動、あるいは文明と自然という構図ではなく、弱者への目配りが行き届いている「福祉国家」を思い浮かべる人もいるかもしれません。
 またあるいは、絵本やおとぎ話の世界、あるいは「ナウシカ」に代表される宮崎駿のアニメの世界がそれだ、と思う人もいるかもしれません。

 僕はそれらのイメージについて、どれが正解でどれが間違いか、あるいはどれが僕のイメージに近くどれが遠いか、などを主張するつもりはありませんし、する権利もありません。
 何より僕は、この言葉の持つ、柔軟で広々とした包容力のようなものを気に入っているのです。また一見ネガティブな「弱い」という形容詞を冠していながら、逆説的ではあるかもしれませんが、人間にとっての本当の「可能性」や「希望」の存在を示唆してくれる言葉だというふうに、個人的には受け止めています。

 当サイトのトップページに使っている北米インディアンの写真*1についても、触れておきます。
 このトップページのデザインをもって、ならば僕は北米インディアンや中南米のインディオの文明を「弱い文明」だとみなしているか、と問われれば、それはうーん、・・・・・と悩むところです。どちらかと言えば、単純にこの人の写真が好きで、デザインとしてイイ感じだから選んだ、というのが本音だからです。

 それでも、同じ先住民文化の連関の中でも、いわゆる古代遺跡の写真の類を選ばなかったことについては、それなりに積極的な意義を感じています。
 たとえば、中南米に残るインディオの遺跡の数々は、西洋機械文明の中に生きる現代の我々から見れば、エコロジカルでロマンチックな「弱さ」を湛えているかもしれません。実際インカ帝国にしろアステカ帝国にしろ、スペインの軍勢に比べれば相対的に弱かった。だから滅ぼされたのですが、逆に言えばそれだけのことではないでしょうか。
 つまり、古代文明の神殿や宮殿の類は、「弱い文明」を象徴するものなんかではない。それは当時その地では「強い文明」を志向していたものの名残に過ぎない。それらは敗れた文明、滅ぼされた文明、せいぜい「相対的に弱かった文明」の象徴でしかないのでは、と思うのです。

 そういう遺跡の類とは別に、「弱い文明」は滅ぼされることなく、知らぬ間に人々の生活に溶け込み、人生を支えているもの。それは言語であり、音楽や踊りであり、衣服などのデザインであり、こまごまとした生活の知恵、自然との関わり方の知恵、人生の哲学、そして宗教・・・形のないものは易々とは滅ぼされない。さまざまに分岐し、融合や変成を経て、大河のように連綿と続いていく。死んだと思われながら復活を遂げるもの。それと気づかぬうちに、人間とその人間が属する共同体の活力になっているもの。また共同体の垣根を越えて、人類全体の普遍的な思考の拠りどころになりえるもの。
 インディオにしろインディアンにしろ、総じて僕が惹きつけられるものは、彼らの思想・知恵や、詩的感性の中にこそあります。それらは決して滅ぼされず、現代にあっても示唆するところは増すばかりです。簡単に“部分”と言い捨ててしまうには、あまりにも大きな思想がそこにはあるわけですが、ただ僕の中では、インディアン=弱い文明というふうに単線的に結ばれるわけではない、というあたりは断っておきたいのです。

 また、音楽は「弱い文明」であると言いながらも、音楽全般の中で特にロックにこだわるのも、単に僕がロック以外の音楽の知識に乏しいとか、歌詞がそれ風なことを歌っているとかいった、表面的理由からでは少なくともありません。別項にて詳しく論じますが(予定)、ロックの中には「強さ」を解体し、「弱さ」を自覚的に志向するラディカルな精神が息づいていて、それは上で触れた先住民の思想、詩的感性と、しばしば響き合うものだと思います。

 ですが結局は、僕自身「弱い文明」とは何か、はっきりした定義は持ち合わせていません。何しろ、それを追求する道具として、このサイトを立ち上げたのですから。



2

 といって、これだけでは手がかり不足だと感じる方もいると思うので、一つ種明かししてしまいます。
「弱い文明」という言葉は僕自身の思いつきではありません。僕がこの言葉を意識の中に刻むようになったのは、C・コスタ=ガブラス監督の映画『戒厳令』*2を観たのがきっかけです。
 実際に起きた事件に基づくこの映画は、いろいろな意味で21世紀初頭の現在の世界状況までをも見通す、鋭い切り口満載の作品ですが、その詳述は映画評に回すとして、サイト名の由来になった印象的なシーンを紹介したいと思います。

 ウルグアイの60〜70年代を席巻したアーバン・ゲリラ、トゥパマロスの一味に誘拐された米国国際開発局の職員フィリップ・M・サントーレが、地下のアジトで尋問を受けます。
 最初は「私は単なる技術者だ、政治とは関係ない」としらばっくれているサントーレですが、突きつけられる証拠の数々を前に、徐々にウルグアイ警察当局との関係を認めざるを得なくなります。そう、自分は体制側だ、何が悪い?と彼は開き直ります。
 トゥパマロスのリーダー格の男は、さらに冷静に追及を続けます。そしてとうとう、サントーレが最初から拷問と弾圧のプロフェッショナルとして米政府から派遣された大物インストラクターであることが明らかになります。
トゥパマロスの男
「あんたは一介の役人ではない。単なる技術者でもない。指導者なんだ。(中略)
あんたは自由と民主主義を守ると言っているが、
戦争、ファシズム、拷問の元凶だ。・・・否定しないね、サントーレさん?」

サントーレ
「君らは破壊者で共産主義者だ。社会の基盤を、キリスト教文明の根底を、
自由を転覆したいのだ。君らこそ倒すべき敵だ!」

トゥパマロスの男
「もう話はない−」

サントーレ
  「ああ私もない!
・・・教えてくれないか。君らの理想とする文明は?」

トゥパマロスの男
「知りたいか?」

サントーレ
   「(うなづく)」

トゥパマロスの男
弱い文明だよ、サントーレさん。
 ・・・あんたのような人間を必要としない文明だ」*3
 これはある種、特殊なシチュエーションの中で発せられた言葉ではあります。「あんたのような人を必要としない…」という言い方も、そこだけ切り取ると、ネガティブな表現という印象を持たれるのかもしれません。
 しかし僕はこの言葉を聞いた(というか字幕で“観た”)とき、本当に胸が高鳴りました。
 探し求めていたものにようやく出会った、という感じでしょうか。あるいは、ずっと前から自分の中に歴然としてあったのに、呼び名が見つからずにモヤモヤしていたある思念を、ついに対象化して捕まえた!てな感じかも知れません。
 ポイントは自分の中にもともとあった、ということです。僕は確かに、この映画を観る前から、「弱い文明」を信じていました。自分はそれによって生かされてきたし、そこでしか生きられない人間だ、という思い、いや実感とともに生きてきた。だから映画のこの場面に出くわした時、ちょうど自分という人間を竹に見立ててパーンと割ってみたら、そこにかぐや姫のように鎮座していたものが「弱い文明」、そんな具合に、自分の「中心」というものを自覚することになったのです。

 以来、僕の中ではこの言葉は一種の聖句であり、思考の拠り所となるキーワードなのです。読んでくださる方にも、この「聖句」を共有してもらえたらと考え、サイト名に選んだ次第です。
 長くなりましたが、以後、ご別懇に。

2004.8.15 レイランダー・セグンド (2007.1.3 改訂)



*1 エドワード・S・カーティスの写真は、以下から閲覧できる。
  http://memory.loc.gov/ammem/award98/ienhtml/curthome.html

 カーティスという人物およびその仕事について、僕の考えを述べておきたい。
 カーティスは白人のカメラマンで、写真を撮るためにインディアン諸部族の酋長たちと懇意の関係さえ作りながらも、 彼らの文明や生活の権利を根本的に擁護するために尽力したとは言い難い。 単に芸術的価値の高い素材として彼らを撮ったと言われても仕方のないところがある。 一連のシリーズを撮るために彼に出資したのが、当時(今もだが)屈指の大富豪J.P.モーガンであり、その出資の動機も「滅びゆく民族の資料を残さなければなるまい」といった「人類学的」見地からのものだった。そしてカーティスもまた、同じ発想を共有していた疑いは濃厚である。(「北米インディアン悲詩 エドワード・カーティス写真集」アボック社出版局 などを参考に)
 それでも彼の作品には、単なる希少性や学術性などを超えた、傑出した魅力がある。 とりわけ酋長たちのポートレイトは、かつて写真に撮られた「地球人」の最も荘厳な姿の一つである。それは、一人の貧乏な白人カメラマンの生きた時代の思考の限界をはるかに飛び越えて、現代の我々の内面に深く語りかけてくる。 結果として、彼の写真は、彼自身の目論見を超えた、独自の生命が宿るものになったのだと僕は思う。

*2 サイト内の拙文 →  映画紹介 コスタ・ガブラス 『戒厳令』

*3 映画の音声はフランス語で、この箇所では明らかに "faible" と言っていますが、
   「弱い文明」 の定義ということでは「軟弱な/女々しい」 というニュアンスの"efféminé"の方も
  暗示的で悪くないと、個人的には思っています。
  一応サイト名には、より一般的な"faible"の方を採用しました。


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