『トゥ・キル・ザ・チャイルド/リーヴィング・ベイルート』は2004年末に出た2曲入りのマキシ・シングル である。といっても、CD発売は日本のみで、本来は専用のWebサイトを通じてのダウンロード販売という形だった。その後フランス革命を題材にしたオペラ・アルバム『Ca Ira』(「サ・イラ〜希望あれ」)を手がけているが、ロックの作品としてはこのシングルが最新の仕事ということになるらしい。
なぜ日本のみでCD化なのか、洋楽情報の類にすっかり疎くなっている僕に尋ねるのは勘弁してもらいたい(邦楽も、だけど)。なにせレコード屋に行ってたまたま見つけるまで、こんな作品が出ていたこと自体知らなかった(同じ時期に来日公演があったことも後で知ったし)。
しかしウォーターズの新作を見つけたからといって、即座に財布の口を開けるわけにもいかない。僕の場合、ソロ1作目の「ヒッチハイクの賛否両論」でガックリきて、今度こそと期待した2作目 「ラジオK.A.O.S」 でもう1度ガックリきて、後はもういいやという気持ちになって、歳月はどどーんと過ぎていったのである。
それではなぜ今回、財布の口を開ける気になったのかといえば、ひとえにタイトルとジャケットのインパクトのせいなのだった。
知らない人のために一応説明しておく。これはパレスチナのヨルダン川西岸地区で撮られた写真だ。
写っているコンクリート壁は、イスラエル当局が「テロリストの侵入を防ぐ」と称して、パレスチナ自治区の
内側に、自治区を檻のように取り囲むために建設中の「隔離壁」である。これはかつて南アフリカにあった、バンツースタンという黒人居住区の悪名高き「アパルトヘイト・ウォール」と同様、完全に国連決議に違反している。
壁の後ろに見える少年は、したがってパレスチナ人である。リュックらしきものを背負っているから、おそらく通学の途中か帰り道だろう(ちなみに僕のこの曲の訳詞ページに使った写真も、地域は異なるかもしれないが同じ「隔離壁」の一部である)。
その壁に文字通り「THE WALL」とスプレーで書かれている。この字体は、ピンク・フロイドのアルバム 『ザ・ウォール』 に関連したロゴの一種である。同じくその下に書いてある 「we don’t need no thought control (思想統制なんぞ真っ平だ)」 という文句は、その 『ザ・ウォール』 からのシングル 「アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォールPart2」 の一節である。
いったい誰が書いたものだろう?まず「やらせ」ではないはずだ。たかだかマキシ・シングル一枚のために、わざわざ紛争地域に飛んで、監視の目をかいくぐってまで、こんな危険な演出をする必要があるとも思えない。かといって、パレスチナ人の中にフロイドのファンがそうそういるようにも思えない。僕の推測では、現地のNGOで働くヨーロッパ人、もしくはイスラエルの平和運動家たちがこっそり書いたという可能性が高い気がする。
しかし、そのどれが本当であっても、僕は一向に構わないのだ。要はこんな絵をジャケットに使うR・ウォーターズの「意気」に感じてしまったのだから。
こういうものは買わなくてはいけない。それが俺の流儀だ。俺が買わずして誰が買う。たとえ中身が「あーあ・・・」という程度だったとしてもの、意気に感じるものに出会ったなら、その出会いの記念というだけのためでも、買うべきなんだゴラァ、・・・と自分に言い聞かせて買ってしまった僕であった。大体こういうパターンで人生損することが多かった気がする。
で、中身はどうだったかというと、これが意外なまでに良かったのである!(それでよくファンを自認してるな俺)。
「ロジャー・ウォーターズ小論」 の終わりにも書いたが、ソロ第1作・第2作のあたりというのは、コンセプトとして、語り口としては、緻密なサウンド・エフェクトと相俟って「さすが」というべき要素はある。だがいかんせん、リズムや旋律・アンサンブルといった音楽の“楽”たる部分ではっきり魅力に乏しい。元々ディランやジョー・コッカーなんかが好きな人だというのは知っていたが、その“楽”としての愛想のなさまでが似てしまう、またどの曲も金太郎飴みたいに同じに聴こえてしまうというのは、引き出しがあまり多くないからではないのか。ただでさえプレイヤーとしては不器用な人である。「フロイドやめたらただの人」、なんて陰口が的を得てしまうではないか。つーかまあ、僕が思いついた陰口だけど。
だがこうした印象も、この新作や、ベスト盤 『Flickering Flame: The Solo Years, Vol.1』 (リミテッド・エディションという文句に釣られて、一緒に買ってしまった)の中の比較的最近の曲をじっくり聴くにつけ、修正を、いや進化を余儀なくされた。
決してベスト盤の立川直樹氏の解説などを真に受けた結果ではない。大体この人は昔からフロイド/ウォーターズに関しては「大甘」過ぎる。純然たるミュージシャンとしてのウォーターズは、そんなに偉大ではない。たとえばS・ワンダーあたりと比べたら、ミュージシャンと呼んでいいのかどうかすら怪しくなる。
むしろ彼の偉大さは、まさに彼が「普通の」ミュージシャンだ、という点にこそある。それはピンク・フロイドという神秘のヴェールに隠れてぼやけていた点であり、ソロになってしばらくの間の作品に僕がガックリきたのもその点だった。音楽家としては、根っからフツーの、言い換えれば平凡な才能の持ち主でしかない。
だが彼には「言葉(lyrics)」があった。彼を彼たらしめたものは、鋭敏な言葉の感性である。そして彼ほど(音楽的にはただの人、でありながら)それを執念深く追求し、徹底的にゴリ押ししてきた人も珍しい。その執念こそが非凡なのである。僕はそういう非凡さに、たまらないシンパシーを感じる。
『トゥ・キル・ザ・チャイルド/リーヴィング・ベイルート』 で確かめられることは、彼が彼ならではの「言葉(lyrics)に耳を傾けざるを得ない表現形式」というものを、いよいよもって磨き上げていることだ。囁きから叫びにいたるその形式においては、自身の不安定なヴォーカルまでも味方につけてしまう。もちろん「ヘタウマ」などという安直な発想からではない。これが彼の磨きぬいた文体なのであり、できることしかできないという潔さを貫いてきたからこそ、「普通」が進化を遂げることだってありえるのだ。
元々フロイドは「囁くロック」といった風情が濃厚だったが、「トゥ・キル・ザ・チャイルド」でのウォーターズは、「囁きラップ」とでもいうべき独特のスタイルに辿り着いている。時に消え入りそうな囁きから、炎が燃え上がるような叫び―喘ぎ。これだけの情念のうねりをこれだけコンパクトにまとめられるのは、文体の技量という他ない。アンディ・フェアウェザー・ロウによる、意図的にミュートから外れた弦のびびりを強調したギター・ソロも、あふれ出るものを「語って」いて感動的だ。
続くもう一方、12分に及ぶ「リーヴィング・ベイルート」は、“物語り”とコーラスのセクションを交互に織り交ぜた、こちらは「囁きストーリー・バラード」とでもいったものだ。
物語といっても、実話である。1961年、まだ17歳だったウォーターズが、ギターを肩に中東をヒッチハイクしていた折、ベイルートの郊外で貧しい壮年のアラブ人に出会い、家に泊めてもらったというエピソードである。
特別なことは何も起きない。そのアラブ人と、その妻、その赤ん坊は、3人とも身体障害者だった、ということを除いて。
夫妻は若いウォーターズに優しかった。アラブ人は、ことにムスリムは、旅人を大事にすることで知られている。それが宗教上の徳である、と教えられてもいる。・・・だがそれだけなのだろうか?どこの国にも親切な人はいる。・・・本当に、それだけの話なのだろうか?
優しさは耐え難いものか
優しさは誰か他人の子供に感じるような
冷静な共感と一緒にファイルにしまっておくべきだろうか?
(「リーヴィング・ベイルート」より)
後に世界的に有名なロック・バンドの頭脳を担うことになる男の、その胸の奥に、こんなに清らかなエピソードがたたまれていた。そう思うだけで、僕は胸がいっぱいになる。それは彼がどんな才能を、どれだけ持っていたかなどということよりも、本質的に大事なことではないだろうか。
『ザ・ウォール』 や 『ファイナル・カット』 はウォーターズの自画像だという。それはそうだろう。しかしその自画像のどこを見ても、このレバノンの「聖家族」のエピソードに匹敵するものは見つからない、と僕は思う。ソロ第3作 『死滅遊戯 (Amused to Death)』 に収録の 「3つの願い」 という歌の中では、ランプの精霊が、願いを3つだけかなえてやるからさっさと言え、とウォーターズに迫る。3つのうち、彼が真っ先にあげた願いごとは「
レバノンでみんなが幸せになれますように」というものだ。これに限らず、フロイド時代から彼の詞に唐突に現れる中東への言及の、その背景にこんなエピソードが隠されていたとは。
だがそんな感傷に浸っているだけでは済まない。
スマート爆弾がスマートに計算し「誤爆」するたび
誰か他人の子供が死に 防衛産業の株式が上がる
(同上)
言うまでもなく、この曲と 「トゥ・キル・ザ・チャイルド」 は文字通りつながっている。どちらの曲でも、現状を直視する際にウォーターズがくり返し用いる 「
We」 という主語の重みに、気づかないわけにはいかない。それこそが、この2曲をカップリングで聴かせようという、狙いだと言って過言ではないだろう。