『宮殿』 の物語を読み解く
Side A


 by レイランダー・セグンド  Apr.2005

la civilisation faible
HOME
Straight Man と Late Man
                         
Peter Sinfield, 1969

 「風に語りて」 は謎めいている。
 クリムゾンの前身、Giles Giles & Fripp の頃からあるこの曲は、初期クリムゾン、またP・シンフィールドという詩人にとって、基礎的な思考の原点のような曲かもしれない。初めて聴いた時から、僕にとっても何だか一番身近な感じのする曲なのだけれど、同時に全5曲の中でも一番謎めいた、分かったようで分からない曲なのだった。
 確かに 「風に語りて」 というタイトルと訳詞を読めば、それだけで分かったような気にはなる。世をはかなむ青年の孤独なつぶやき、と言ってしまえばそれはそうだろう。だけど何か、何かが分かり足りない。音盤からスピーカーを通して伝わってくる、ある種の不気味さと重さが、訳詞の字面に反映されていないような・・・。
 出だしからして、いきなり謎なのである。

 Said the straight man
 To the late man
 Where have you been −

 この straight man と late man をどう訳したらいいのか。
 よくある無難な訳は、「真っ直ぐにきた男」 「遅れてきた男」 である。僕は長いこと、これに違和を感じていた。この部分だけで言えば、とある二人の男が会話している場面として、とりあえず変でもないのだが、サビの 「僕は風に語りかける/風は聞いてくれない」 や、2番目3番目の連とのつながりが意味不明なのだ。だから、何か別の訳がありえるんじゃないかと、いつも聴く度に思っていた。
 ところが、序でも触れたように、1曲目と2曲目の劇的な転換のイメージに想いを馳せているうちに、別のことに気がついた。
 このような劇的な転換を含め、アルバム一枚を一つの楽曲のように演出する物語性の強調というのは、初期クリムゾンを筆頭に“プログレッシヴ・ロック”の常道である。したがって、先にある曲と次に来る曲とのつながりの中に何かの真意を探るのは、いたって自然な、正当なことなのである。
 1曲目 Schizoid Man の凄惨な情景から、別世界の静寂の情景へ。機械化文明の都市から、文明の外、風の吹きさらす草っ原のようなところへと、突然移動したようなイメージ。
 その草原の中の一本道を、男が歩いている。彼は自分の物思いに深く沈みながら、歩いている。この男は誰なのだろう?もう答えは出ている
 男はふと歩みを止めて、立ち止まる。なぜか。自分がずっと歩き続けていたことを思い出したから。
 立ち止まった彼は振り返る。すると、そこにはがいる。何かを思いつめたように、うつむきながら歩くが、彼に気づいて顔を上げる。そこから一行目が始まる ──

 真っ直ぐに歩いてきた男が
 後から来た男に言った
 きみはどこにいたんだ?・・・


 つまり上記の 「よくある無難な訳」 は、間違いではない。間違いなのは、2人を別々の人物だと捉えてしまうことではないか。
 straight man と late man は同一人物だ。なぜなら、分裂した人間 Schizoid Man だからである
 そう考えれば、後に続く 「どこにいたんだ?」 に対する答えが、「ここにもいた・あそこにもいた・その間にも・・・」 であるのも当然だ。すなわち、ずっときみの後ろにいたよ、僕はきみなのだから、なのである。

 曲のアレンジメントも、そのように聴かせたがっているとしか思えない。
 この曲は通常のポップ・ソングのヴォーカル・アレンジとは逆の構造になっている。Aメロの部分がツインのハーモニー、そして普通ならハーモニーを使うことの多いサビの部分がソロで歌われているのだ。
 これはメロディー構成の必然から来るアレンジではない。歌詞のニュアンスを強調するためのアレンジだ。憂愁の思いにとらわれる彼の内面が分裂している、あるいは分裂しかかっている不安定な様を表現するために、あるいは自分で自分に言い聞かせようとしながらどちらが元の自分か分からなくなっている様を表現するために、ツイン・ヴォーカルの形をとっているのだ。
 そしてもやもやと分裂しかかっていた彼は、我に返って、あるいは押し寄せる思いの苦しさに耐えかねて声を発する。その瞬間、さっきまで彼の思考の背景にかすかな親和感をもって鳴っていた風は、元の風景の一部に戻っていく−すなわち、フルートの音色に入れ替わる。自分の分身と語らっていたはずなのに、ふと気がつくと、そこにあるのは風だけなのだ。風は、聞くことができない。・・・
 「風に語りて」 は 「分身に語りて」 だったのである。



分身譚

 俗に言うドッペルゲンガーか、あるいはドラッグによる幻覚か。シンフィールド自身がそれを見た経験があるのか、話に聞いたことがあるだけなのか、それは知らない。肝心なのは、彼が 「分裂した人間」 というものに興味を抱き、物語の主人公に据えたということだ。
 それは単に 「我々の時代は病んでいる」 という表明の一つに過ぎないのだろうか?とてもそんな単純なことだとは思えない。そこにはもっと積極的な意味 ── 必然が潜んでいないだろうか。

 ドストエフスキーの初期短編に 『分身』 というのがある。自分の不幸の原因を自分に瓜二つの幻影になすりつけ、その自分が生み出した幻影との格闘の末に、発狂して病院送りになってしまう男の話だ。
 それだけ書くと、病的で悲惨なだけの話のようだが、ドストエフスキーがこのテーマにかなりこだわりを持っていたのは有名である。後の長編群の中にも、疲弊した心を抱える登場人物が自分の分身にばったり出会って、精神的にさらに打ちのめされるというエピソードが、一度ならず出てくる。
 ただ、「打ちのめされる」 ということの中身をよくよく考えるならば、例えば自分が無意識に直視することを避けていたものを認識するという、前向きな側面だってないことはない。登場人物の悲惨な運命は別として、読者にとってそれはポジティヴな示唆になっていると言える。そこがドストエフスキーの面白さでもあり、人の悪さでもあるのだが。
 精神が分裂するということは、外界からの過酷な環境設定に対して、防衛的に自己の領域を押し広げる心の働きの一つ、だろうと思う。それが傍目には痛々しく引き裂かれ、「妄想」 に心奪われるまがまがしい病理と見えようとも、「妄想」 の果てに本人が行き着こうとする夢や理想そのものまでもが病理であるわけではない。夢や理想の側から見たときには、分裂あるいは妄想はプロセスかも知れない。今ある自分を壊して、新たな自分を生み出すためのプロセス。
 僕は心理学や精神病理学の専門家ではないし、あまり大げさなことは言いたくない。それでもなぜ、あえてこんな話を持ち出すのかといえば、もちろんドストエフスキーとシンフィールド(ひとまず 『宮殿』 に限っての話だが)の共通性をそこに見るからである。彼らはいずれも、分裂の症状それ自体への興味を超えて、そのような症状を生み出す人間の精神、その奥行きの広さにこそ着目していたように思える。さらには、そこに人間の 「復活」 もしくは 「新生」 の可能性を見出してさえいたように感じられるのだ。



幻視の構図
    ─ Schizoid から Epitaph に至る

 本来ドストエフスキーとシンフィールドは、表現のスタイルが似ているとはとても言えない。おそらくドストエフスキーと、またはその小説の主人公たちと似ているのは、『宮殿』 の主人公の 「僕」 *1 である。もっと言えば、『宮殿』 の物語それ自体が、ドストエフスキー的な“幻視”によって成り立つ物語だ、という気がする。
 幻視 ── ドストエフスキーがいわゆる“てんかん持ち”であった、これもまた有名な話だ。てんかんの発作の初期段階、恍惚に身を任せ、理想世界のヴィジョンを見る。これがドストエフスキー作品では十八番の人物エピソードとして用いられる *2
 また、必ずしも“てんかん”というフィルターを通さずとも、たいてい本人には理由のはっきりしないまま、あるいは自覚のないままに、危機的な精神状態に陥る人物たちが登場する。彼らはある時、思いがけず不思議なを見る。人類の楽園時代と、それがほんのちょっとしたきっかけで蝕まれ・崩壊するという、サッド・エンドの夢である *3
 夢のあと、彼らは深い衝撃と、ある種の「後悔」の中にいる自分を発見する。個人的な罪の意識に端を発しながらも、それよりもっと普遍的で巨大な後悔である。一言で言えば、なぜ(自分をふくめて)人類はこんな袋小路にはまってしまったのだろう?というような感覚だろうか。それに自分が荷担していようといまいと、楽園は失われてしまったという真理を前に、焼けつくような「後悔」に襲われるのだ。
 あえてその根拠を言うなら、彼が人類につながる者だから、人類のはしくれだから、というような受動的な理由以上に、彼の中に「本当はこんな生き方をしたかった、こんな世界に暮らしたかった」という、自覚しきれない願望があったに違いないからである。夢は現実に対する逆説であり、分身譚の一つの変形なのだった。

 一方、『宮殿』 の主人公の青年は“てんかん持ち”ではないが、精神的に追い詰められ、心を病み(分裂し)、幻視に導かれるという点で、これらドストエフスキー作品の主人公たちと似た構図を抱えていると言えないだろうか。
 Schizoid ─ 精神分裂から、Epitaph ─(己の)墓碑銘に至る幻視の構図から浮かび上がるのは、言うまでもなく世界の破局に通ずる悲観的なヴィジョンである。
 同時に、その裏側にぴったり沿うように、必ずしも悲観的というだけでない、どこか開き直った、芯の強い視点が垣間見えるのも事実だ。それがこのアルバム全体の副題にもなっている、「observation (観察)」 という言葉の由縁には違いない。
 聴く者はこの observation を、無味乾燥な 「観察レポート」 のように受け取るだろうか?そうではないはずだ。かと言って、無力さの中で完結している、センチメンタルな自己憐憫として斬り捨てるだけで済むだろうか?それもまたできないはずだ。一方で世界の終わりを予見してあわれに打ち震えながら、一方でそんな自分自身を覚めた頭で見据えている。見据えていられるのは、彼が 「分裂」 という病理と引き換えに、揺らぐことのない正気の視座を手に入れてしまったからではないのか。
 たとえば 「Epitaph」 は、大仰な文学的表現に縁取られているとはいえ、軸になっている基本的な世界認識は21世紀の今にして、単なる 「現実」 である。それを否定できる人がいるとしたら、その人こそが 「正気」 を疑われるべきである。
 我々は正気でいるための前提として、狂気のような 「現実」 を見つめなければならない。 「分裂」 という病理を通してしか理解できない現実を理解するには、「分裂」 するしかない。その病理を通してしかアクセスできない者とアクセスするには、その病理を引き受けるしかない。
 observation というコンセプトはそんな具合に、分裂という病理と、それがもたらす新たな視座を、聴く者に共有させるための装置としてある。
 そもそもプログレッシヴ・ロックの 「物語性」 というものは(少なくともクリムゾンにおいては)、まずそのような視座を確保し、共有させる手法として開始された。リスナーが同時に 「オブザーバー」 であることを可能にする手法として、である。
 確かに、新たな視座を獲得するという発想自体は、別にクリムゾンの発明ではなく、当時の欧米文化の、言ってみれば一つの流行だったわけである。ビートルズをはじめ、多くの有名無名の欧米のアーチストたちが東洋思想、あるいはグルジェフに代表される 「神秘主義」 に接近したのも同じ動機だった。自己の内側に答えを探る態度を基本に据えるという意味で、『宮殿』 もこれら大きな動きの中に位置づけられる側面は十分にある。
 だが、狂気の 「現実」 から目をそむけていくら瞑想に耽っても、多くの場合見つかる答えは 「そろそろ腹が減ったな」 ということくらいだろう。これらのいわゆるサイケデリック・カルチャーの体現者たちが、後にパロディーのネタに成り下がってしまったり、「ヒッピー」 が 「ヤッピー」 に化けていたりという現実と、シンフィールド/クリムゾンが 『宮殿』 で見据えた意思の地平とは、全く別次元の話である。
 なぜなら 『宮殿』 は瞑想に耽るための装置としてより、瞑想を打ち破る鉄槌として機能する。妄想の中で目を見開いているための、目覚めているための装置なのだ。

 普通の状態では見えないものが見える。それは単なる 「現象」 ではない。何がしかの変革への意思を持つ者のみが、── 変革への必然に晒されている者が、それを見るのである。そんなことを強く意識させる点において、『宮殿』 はいわゆる 60年代文化 が産み落としたどんなものよりも、ドストエフスキーに近い。しかしそれゆえ皮肉にも、「60年代」 が形作った死の影と新生の予感を、他のどんなものよりも鮮明に保持しているのかも知れない。
 「内面を見つめる」 ことが普遍的に意味を持つとしたら、それが 「内面から見つめる」 ことによって人の在り方、世界の在り方を検証していく手法に昇華していく場合においてなのだ。人が本当はどうありたいのか、世界は本当はどうありえるのか、を根源的に問う。ドストエフスキー作品や、クリムゾンの 『宮殿』 は、今でも常に、そんな古くなりえない問いを発しているように感じる。

>>> NEXT



*1 sideA に限ってみれば、主人公 「 I 」 を 「青年=男」 と特定する理由はない。だが sideB も含めて、アルバム全体で捉えたときには妥当な解釈になる。理由は sideB の章で触れる。
*2 正しく医学的な分析によれば、多くの場合てんかんの発作とは、とてもそんな気持ちのいい恍惚状態などではありえないという説と、まれにドストエフスキーが描いたようなケースもありうるという説の2つがあるそうだ。実際ドストエフスキー自身、1度この発作に襲われると数日は仕事にならない(妻アンナの証言)ほど心身ともにダメージを受けていたという。にもかかわらず、彼は小説の中で、この発作を何かの恩寵でもあるかのように肯定的に描くことをやめなかった。それほどまでに彼にとって、発作とともに現れるヴィジョンが、何物にも代えがたい重要なものだったというのだろう。
*3 正確には、いくつかヴァリエーションがある。後期の『おかしな人間の夢』という短編では、主人公は自殺決行を決めた夜に、この「黄金時代」の夢を見る。彼は楽園に暮らす無垢な人々に出会って感激するが、何かの拍子に彼の中にある悪徳がこの人々に伝染し、地獄のような世界に変わってしまう。
『悪霊』では有名な「スタヴローギンの告白」の中で、ドイツ旅行中のスタヴローギンがある夜「黄金時代」の夢を見る。涙とともに、幸福感に包まれて目覚める彼だったが、その幸福な余韻の中に一点のシミのようなものが現れ、たちまち悪夢のヴィジョンにとって代わられてしまう。それは彼がペテルスブルグで少女を犯し、自殺に追い込んだ時の記憶のせいだった。
『未成年』や『罪と罰』にも似たような話があった気がする。




HOME  Back
inserted by FC2 system