『宮殿』 の物語を読み解く
Side B-2


 by レイランダー・セグンド  Apr.2005

la civilisation faible
HOME



続 ・ Sunchild の転生

 そのように異界の出来事を歌っている最終曲 「クリムゾン・キングの宮殿」 にあっては、基本的に歌詞の一行一行、言葉の一句一句についてその意味を探っても、なんだか徒労に終わるような気がする。意味―すなわち現世の事象との対比、ということだが。
 僕はどこかこの曲の本質は、解りえない出来事の只中に 「私」 がいる、ということではないかと感じている。解らないが、解らないなりにこの世界は出来上がってしまっているので、とにかく眺めているしかない、とでもいうような。

 たとえば、葬送の儀式が行われる。しかし、誰の葬儀なのかは明らかでない。ここが moonchild の夢の中の 「異界」 であるからには、彼女の肉親の葬儀だと解釈しても、悪くないはずだ。あるいは幅を広げて、この時代に、理不尽な暴力で殺されたすべての者達の死を悼む儀式だと考えてもいい。そしてもちろん、そんな現世の事象とは関係ない、深紅王の宮殿で行われるのだから深紅王の身内の誰かの葬式だろう、とシンプルに考えても、決して間違いとは言えない気がする。
 けれど、注目したいのは、この葬送の儀式に対しても他のものに対しても、「私」 はこれといった積極的反応を示さないということである。ここでの observation は side A での(情緒をたっぷり含んだ)切実さとはうって変わって、ほとんど投げやりな印象すら与える。「達観」 と言えば聞こえはいいが、それより自分は観ていることしかできないので、観たままに報告するだけ、特に感想はない、という雰囲気ではないか。
 これは、もしこの儀式が少女の肉親や戦争犠牲者などに手向けられたものだとした場合には、なんだか不自然な、冷たい態度であるように思われるかもしれない。だが、それをもって 「だから現実の背景とは無関係なんだ」 と決めつけるのも早合点だろう。なぜなら異界に 「転生」 した sunchild にとって、重要なことは、時代を取り囲む濃密な死の空気の中で、めそめそと陰気な儀式に付き合うことでは、最早ない。
 注目すべき、確かなことはもう一つあるのだ。 observation の調子がどうこうということより、本質的なことである。それは、side A での 「私」 と違い、この異界での 「私」 は、とにかく何かをするということなのだ。
 「私」 は歌詞の第一連から第四連までのすべてにおいて、その二行目に登場する。

第一連  I walk a road
第二連  I wait outside the pilgrim’s door
第三連  I chase the wind of a prism ship
第四連  I run to grasp divining signs

 歩く、待つ、追う、走る・・・だがその行為の対象(または条件)は、いずれも掴みどころのない、あるともないとも実証できないものばかりなので、行為自体がとりとめのない、意味や目的の不鮮明なものになってしまっている。何か虚空を掴もうとするような行為、行為の形をなぞるだけの行為、といったような。
 それでも 「風に語りて」 や 「Epitaph」 では錯乱し、思い悩み、怖れおののくだけだった 「私」 が、能動的に何かをしている。これは大きな違いだ。
 ただその行動は、この異界の状況、その行き方と比して、微妙にズレているようである。やはりポイントはそこだろう。

 「私」 が観ている宮殿の儀式やその構成員たちの様子は、実に太古の昔からの慣例のようによどみなく粛々と進行する。そこで予定にないことを、儀式と直接関係のないことをするのは 「私」 だけである。といって 「私」 の行為は、それらに対して反発するものでも同調するものでもない。そもそもこの異界の行き方に対して、何らの影響も与えているように見えない。単にそれらと「対等」の行為としてそこにある、というだけだ。
 しかし繰り返しになるが、それは重要なことなのだ。なんといっても、彼はそれを自由意思で行っているからだ。
 この世界が自己の制御化にない 「他律的世界」 であるなら、その中での能動的行動は 「失敗するのも当然だろう」 という自覚の上での行動である。だがこの場合、それはやぶれかぶれのネガティヴな意識というのとは別である。失敗しようとしまいと、「私」 はそれをやるしかない。それが 私/sunchild/moonchild の、自由であることを実証し、「世界」 を取り戻す方法である限り。
 そしてそれをやるためにこそ、sunchild は moonchild の夢の中に 「転生」 しなければならなかった、とも言えるのではないか。いわば世界を生き直すためのリハビリテーションとして、意味があろうとなかろうと、効果があろうとなかろうと、何かをやってみるしかないのだ。その行為が自分を助け、少女を助ける 「杖」 となるために。
 誰も 「私」 を邪魔立てしないが、誰も 「私」 によって影響をこうむりもしない。ではその行為は全くの無意味かと言えば、そうではない。この異界では、行為の目標が成就するかどうかではなく、行為の繰り返しそれ自体が、自分の立っている世界にひびを入れる呪文のように響いている。少なくとも 「私」 はそう信じている。あるいはそう信じてもいい 「予感」 に包まれた世界が、そこにある。




隠された主題 ―道化師の仮面の下

 先に見たとおり、陽光=sunchild の微笑みが 「月の牢獄の鎖」 を打ち砕き、moonchild を解放した。閉じ込められていた者を解き放っただけでなく、両者の目に見えない絆を明らかにする働きをしたものが陽光だったとも言える。
 陽光はまた 「Epitaph」 において、「死の道具」 に照りつける、いわば隠されていた邪悪を 「白日の下に」 暴き出すものとして描かれる。太陽/陽光はアルバム全体を通じて重要なキーワード、あるいは影の主題のひとつ、と言ってすら差支えないだろう。
 「クリムゾン・キングの宮殿」 においては、歌詞に散りばめられた 「色」 *1 がプリズム=光の分散を表すなら、この異界の登場人物も景色も、あらゆる構成物すべてが光の化身であるということなのだろうか。そういう意味では、まがりなりにも生身の人間である 「私」 だけが浮いてしまうのも、当然といえば当然なわけだ。

 だが実はもう一人、別の意味で浮いている人物がいる。不在であることで印象付けられる存在が。
 それは深紅王 (Crimson King) その人である。

 深紅王の名において執り行われる儀式の様子は、古代〜中世ヨーロッパにちなむキャラクターが登場しながらも、舞台そのものは何かキリスト教文明以前の、古代エジプトや、マヤ・アステカの神殿あたりでの儀式をほうふつとさせるムードがある。それというのも、王が人物として姿を見せず、その威光だけを大気の中に及ぼしているからだ。まさに光の作用のごとき、“法則”としての存在であるかのように。
 そんな具合に深紅王は陽光、すなわち真理を司る太陽神の使者として、ずっと物語の背後に潜んで observe していたのだと考えても、「ムードとしては」 破綻はないかもしれない。
 だが、もう一歩踏み込んでみたい。
 王は太陽の化身、すなわち生身の人間とは違う超越的存在――だから気配だけを示して、正体を現さないのだろうか?アルバムの副題である an observation by King Crimson という刻印は、そんな神の如き超越的存在からの有難い御託宣である、という意味だろうか?
 そうではあるまい。『宮殿』 の物語は、人間が人間を取り戻す物語である。陽光が隠れた主題であるといっても、それは人間がすべきことを自覚するために、陽光をシンボリックに・ドラマチックに機能させているというに過ぎない。あくまで主役は人間である。隠れた主題は、「行為する人間」 そのものだと言うべきかもしれない。

 「私」 は城門の外からやって来た。かりそめの調和の儀式に、不滅をかたどった世界に参加するために。そう、もちろんそれらが 「茶番」 であることを承知の上で。なぜなら彼は、悪夢のような現実からやって来たのであるから。
 いや、おそらく彼だけではない。この異界に住む誰もが、目覚めて見る夢のように、夢だとわかって見る夢のように、この 「茶番」 を認識しているのではないか。少なくとも、最後に現れる道化師 (yellow jester) には、それはわかっているはずだ。なぜなら、彼だけは演技しない(does not play)と、唯ひとり明白に否定形で紹介されるのだから。
 役を演じないという道化師は、では何をするのか。あやつり人形の糸を引きながら、微笑むのだという。ごらんよ、お嬢ちゃん。これが世界のカラクリだよ。ぼくだけは前から知っていたんだ。
 少女もそれを見て微笑む。私にもやらせて、とせがむ少女に、道化師はパペット・ダンスの手ほどきをする。少女は人形を躍らせる――世界を制御する、その感触を確かめるように。
 役目を終えた道化師は仮面をとる。道化師の正体は、深紅王その人である。自分の意のままになるこの異界で、彼だけは演技する必要などなかったのだ。伝えるべきことを伝え、少女に人形をあずけたまま、彼は宮殿の方へ去っていく。

 だが 「私」 は、納得しない。これもまた茶番ではないか?一部始終を少女とともに見ていながら、不審に思った彼の方は王の後を追う。そして追いつき、振り向いた王の顔に手をかけ、もう一枚の仮面を引き剥がす。仮面の下にいるのは、ジャケ絵のように恐怖に歪んだ顔をした 「私」 自身である。
 「深紅王」 は 「私」だった。ちょうど 「転生」 した 「私」 から、パペット・ダンスに惹かれて moonchild が再分離した時に、彼もまた 「転生」 以前の自分の顔を、良くも悪くも取り戻す。言い換えるなら、今度は深紅王に 「転生」 して、顔を引きつらせながら、苦痛に満ちた現世という大気圏に再突入するのだ。
 その摩擦と振動は並行して moonchild にも伝わり、目覚めをうながす。と、宮殿の情景は外の世界の干渉を受けて、急速に現実感を失い、完全だった世界は揺らぎ始める。そして、大崩壊――レコードが終わる瞬間だ。それはすなわち、少女が目を開いた瞬間に相当する。

 少女の病室。どこかで機械のうなる音がする。

 そうして物語は円環に閉じ込められた *2




*1 曲中の 「色」 については、序で触れたKT氏の分析を読んで初めて気がついた。それまで全く気にも留めていなかったので、個人的には驚き、興奮した。それがなければ、この曲の、いや『宮殿』というアルバム全部の歌詞を今一度解き直してみようという発想自体、うかばなかっただろう。あらためて謝意を表する。
*2 さらにあらためて言っておくが、本稿は僕の“妄想”が主題である。妄想もそれなりの場所に閉じ込めておいた方がいいだろう。P・シンフィールドがこれを読んだら、 「君って・・・変わってるねえ」 とか言うに違いない。大きなお世話だが。




HOME  Back
inserted by FC2 system