Serj Tankian  その詞の個性

 by レイランダー・セグンド  2005/06

la civilisation faible
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 システム・オブ・ア・ダウンの、とりわけサージ・タンキアンによる(または主導による)詞は難解なものが多い。
 歌の大雑把なテーマや世界観に関しては、言葉以前に伝わってくるものも含めて、僕にとっては共感するところの多い、わかりやすいものである。加えて彼の対社会的な発言や行動なども、状況証拠として採用できる。
 ところが、いざ日本語にしようとすると、どの曲もなかなか一筋縄ではいかない。
 相棒のダロン・マラキアンの詞なら、難しいとしても、それはもっぱらスラングや特定の事象に関わる用語を知っているかどうか、という問題である。だがタンキアンの場合は、そうした知識以上に、訳す者の詩的感性が試される歌詞だ。どんな外国の詩の類でも多かれ少なかれそうだが、彼の場合は特にそうなのだ。少なくとも、難解さを楽しむ、くらいの気持ちがないとどうにもならない。
 実際、彼の詞は同じアメリカ人にとってすら十分難解であり、ファン・サイトでは詞の解釈をめぐって議論が盛り上がっている。何しろ一緒に曲を作っているマラキアンですら「時々よくわからん」と白状している(おいおい)くらいだから。
 抽象的だから難しい、というだけではない。語彙の豊富さ、視点の深さに加えて、自分の使っている言語(英語)に対する、やや距離を置いた、すっとぼけたようなスタンスもその原因だろう。
 語りながら壊していく、壊しながら新たな配列で拾い上げていく。英語という母国語を解体し、「自分語」に同時通訳しながら歌っているというか。一曲の中でもめまぐるしく変化する百面相のようなヴォーカル・スタイルも、そんな「自分語」の要請から来るものだと思えば合点が行く。
 このスタイルは、分裂気質とか多重人格という風情のものではない。というか、そんなことは21世紀現在、当たり前すぎて病気のうちに入らない、ということを自覚しているクールな病人の風情というべきだ。裏を返せば、ちっとも病的ではない。その飄々とした狂気の表現は、まるっきり我々の文明生活の速度に合致している。タンキアンは我々と同様、冷ややかに正気である。ただ、我々と同様忙しいだけだ。破壊して、再建することに忙しいから、あんな歌い方になってしまうのだろう。放っておけば結構な美声の持ち主なのだが。



1.
 具体的に見ていこう。
 一行一行の意味は難しくない。しかしそれらが連続し、組み合わせられると、普通の文章のロジックが通用しなくなる、というケースがある。
 たとえば「FOREST」を例にすると、
  Walk with me until the time に続けて、
  And make the forest turn to wine と来る。「森をワインに変えてみよ」とは、奇抜な言い回しではあるけれど、文としては別におかしくはない。ところが続いて、
  You take the legend for a fall と歌われると、このthe legendはなんぞや?という疑問が生じる。唐突に出てきた「伝説」とは、どんな伝説のことなのか?
 間をおかず、次の
  You saw the product になだれこむ。今度はさらにthe product(生産物、結果)が、何のproductなのかという、もう一つの「?」まで抱え込む。つまりthe legendの結果なのか、the legendがfallした結果なのか?どちらの解釈をとるかによって、正反対のイメージにたどり着いてしまう。文法としてはおかしくないにもかかわらず、ダブル・ミーニングに頼っているわけでもないのに、相反する2つの原理を1つのセンテンスが同時に抱え込んでいるわけである。
 こんな矛盾を日常の場面で投げつけられたら、普通は面食らうだろう。だが歌はこの矛盾を「詩」に昇華する。矛盾があればあるほど、詩のロジックは純粋さを増していく。言い換えれば狂気に近づく。人間の手に負えない何物かを表現するのに、やはりそれはふさわしい。

 むろん、それがタンキアンの発明した技法だというわけではない。これに近いものは現代文学(現代詩)や、その影響を色濃く受けた70年代のロックなどに、しばしば見られたものである。
 ただタンキアンの場合、よほど平易な表現をたたみかけながら、独特の難解さを生み出すところが、個性的といえば個性的だろう。それは相手を煙に巻く難解さというのとは違う。簡単に「わかった」気になってしまうことを許さないために、ある一定のテンションを聴き手に維持させようとしているかのようなのだ。その上で彼は、インタヴューなどでは「解釈は個人の自由だ」とはっきり奨励している。つまりは認知の不確かさを一方で見据えながら、相手を引き込み、想像力や思考力を引き出す手続きとしての難解さ、と言ったら持ち上げすぎだろうか?
 また、普通の“難解な”現代詩が、難解な表現を列挙しながらも、結局は一つのイメージに収斂することが多いのに対して、タンキアンの詞は収斂しようとしてまた拡散して、という運動をくり返すようなところがある。そのくり返しが遠心力を生み、世界をブンブン振り回す。

 一方、「This Cocain Makes Me Feel Like I'm On This Song」(マラキアンとの共作)の出だしはこんな風に始まる。
  おれはどこもおかしくない
  おまえはどこかおかしい
  おれはどこかおかしい
 一文一文は、文法的にはそれこそ「おかしくない」。では1、2、3行目のどれが本当なのか?
 答えは、どれでもない。三行すべてが本当である。我々が暮らしているのが、まさにそうした現実だというだけの話。
 「ROULETTE」も同様である。
  俺は知ってる おまえのそばにいると どんな感じがするのか
  俺は知らない おまえのそばにいると どんな感じがするのか
 念仏のように延々くり返されるこの二行。結局「俺」は知っているのか、知らないのか。
 答えはやはり、どちらでもない。両者の間を揺れ動く主人公の気持ちの中に真実がある。あるいは「俺がどう感じるか」なんてどうだっていい、「おまえのそばに俺はいる」こと自体がひたすらに重要なんだ、と訴えているのかもしれない。
 この2曲はともにマラキアンが絡んでいて、「矛盾」をわかりやすく見せている方だが、これよりもっと小さな草の芽のような矛盾のせめぎ合いが、タンキアンの中にはいつも充満しているような気がする。そしておそらく、当の彼はそれを殊のほか良しとしているのだ。落ち着きどころのない矛盾は、生命の種のようなもの、常に運動を止めないものだから。それはまた、確かに彼が詩人であることの証なのかもしれない。



2.
 さらにタンキアンの詞の特徴として、脚韻や頭韻だけでなく、語形・語感の似通ったものを組み合わせて並置する手法がある。これはヒップ・ホップ〜ラップのいわゆる「たたみかけ」(それ以前にロックの中にも時々あったが)を踏襲しているとも言えるが、それとはニュアンスがだいぶ異なる面もある。
 ラップの「たたみかけ」が狙うのは、普通イメージのデジタルな連続感である。その連続感が言葉の響きとあいまって、快感なのである。
 だがタンキアンの場合、イメージの定かでないもの、または抽象的なものの連続なので、ラップのような連続感は生まれない。それどころか、音の連続感を通じて意味が粉々になってしまう。イメージが無効化してしまう、あるいはイメージを固定しようとする聴き手の努力をあざ笑う。その際の不思議なテンション(痙攣状態)が、耳に伝わることだけがはじめから狙いだとでもいうように。

  Shake your spear at Shakespeare    (「DDEVIL」)
  The toxicity of our city    (「TOXICITY」)
  Life threatening lifestyles    (「DARTS」)
  The spine, a line, the fetus is mine     (「STORAGED」)

 このあたりはまだ「連続感」でもなんとか説明がつく。応用形としてはこんな感じ。

  Barbarisms by Barbara with pointed heels
  Victorious victories kneel    (「B.Y.O.B.」)
  Seeing you believing us adhering were the power struck
  Believing then kneeling appeasing the power struggle    (「BUBBLES」)

 こうなってくるとラップというより、「となりのきゃくは・・・」とか「坊主が屏風に・・・」式の早口言葉のノリである。
 極めつけは、まさに大部分がそんな早口言葉式の近似音語でたたみかけられる「I-E-A-I-A-I-O」。

  Peter’s pecker picked another pickle bearing pussy pepper
  Peter’s pecker picked another pickle bearing pussy pepper, why?

  A former cop, undercover just shot, now recovered
  A former cop, undercover just shot, now recovered, why?


 しかしこれらは、単なる言葉遊びとかユーモア・センスといって片付けるべきものだろうか。たとえばこの曲で発揮されているユーモアというのは、我々がTVや週刊誌のニュースに振り回され、「???」の嵐の中で暮らしている日常からの、反撃のユーモアなのである。
 これらはサージ゙・タンキアンという個性が、言葉の何を信じ何を信じないか、すなわち世界との距離をどう測るかという表現であるばかりではない。隙間なく構築された世界システムをどう突き破るか、どう混乱させどう隙間を作り出すかという、試みの一部に違いないのである。つまり、混乱している自分から、混乱させる主体としての自分へと、攻守を切り換えるために。

  ≪この項つづく―かもしれない≫ 





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