SYSTEM OF A DOWN
訳出した詞について 個別の解説

  by レイランダー・セグンド  2005-06

la civilisation faible
HOME


 TOXICITY     FOREST     BOOM!     INNERVISION     A.D.D.     STREAMLINE     CHOP SUEY!     AERIALS   
 SPIDERS     P.L.U.C.K.     CIGARO     SAD STATUE     LOST IN HOLLYWOOD   
 ATTACK     KILL ROCK'N ROLL     HYPNOTIZE     TENTATIVE     HOLY MOUNTAINS     LONELY DAY/SOLDIER SIDE   


TOXICITY
 2ndアルバムのタイトル・ナンバー。
 詞は正直なところ、どの一行として「この訳でいい」と断ずる自信はない。中でも、この詞の中核であるはずの、
 Eating seeds as a pastime activity
 The toxicity of our city, of our city
の行は迷いに迷った。
 僕の訳では、seeds(種子)が宗教書などで「子孫」の意味に用いられることにあやかって、未来を―子孫の未来を都市文明が食い潰すという、時間を隔てた加害・被害のニュアンスを選んだ。
 だがtoxicity(毒性)という語にこだわるなら、「何気ない都市生活が毒素を生産する」という、“有毒物質排出”のイメージを強調するべきなのかもしれない。
 背景画像はハリウッドの方角をのぞむ、ロスアンジェルスの夜景を使った。



FOREST
 「TOXICITY」に輪をかけて難解さに苦しむ曲。その難解さについては サージ・タンキアン その詞の個性 で詳述した。
 とにかくこの曲の場合、“人間は森林の子である”というメッセージが柱にあって、それ以外のディテールについては、聴き手にその肉付けを委ねるごとく、くり返し「伝説を崩壊させるのはおまえだ」と呼びかけているような気がする。その語り口の難解さは「AERIALS」あたりとも共通して、何か先住民の口承詩的なムードを感じる。
 なお、tell everyone in the world that I’m youの「that I’m you」を「おまえたち一人一人が“資源”なのだ」と訳したのは、『メズマライズ』のライナーで五十嵐正氏が紹介していたサージの発言を、そのまま拝借したものである。曰く、「・・・多くの人たちはこの惑星を資源に使いたいと望んでいる。彼らは僕らこそが資源ということを理解していないんだ」。
 また、この曲の背景には、熱帯雨林消失にからむニュースや科学記事など、いわゆる「環境問題」があるのだとは誰でも想像しそうだが、メンバーのドルマイヤンが日本アニメの大ファンであることからすると、ひょっとしたら「風の谷のナウシカ」なんかの影響もあるかもしれない。と勘ぐるのも、なかなか楽しかったりして。



BOOM!
 アルバム『STEAL THIS ALBUM!』は、基本的に『TOXICITY』録音時の未発表曲を集めた、ブートレッグもどきの体裁である。その中で唯一新曲として録音されシングル・カットされたのが、この「BOOM!」だ(『STEAL THIS ALBUM!』発売の経緯については訳出に関するノートを参照のこと)。またこの曲は、あのマイケル・ムーアがPVの監督を務めたことでも話題になった。
 
 「BOOM!」の詞は、彼らの曲の中ではわかりやすい部類に入ると思う。ちょっと固目の政治・社会用語が出てくるが、逆にそういう言葉が出てくる方が訳しやすいというのも、彼ららしい。
 詞中のManufacturing consent is the name of the game というフレーズを聴いてニヤッとした人は、ノーム・チョムスキーの読者だろう。『Manufacturing Consent(同意の製造)』はチョムスキーと僚友エドワード・ハーマンの共著(1988年出版)。邦訳は今のところないが、このテーマはその他の著書でもおなじみの、チョムスキーの社会批評の核心とも言えるテーマだ。カナダで制作された同名のドキュメンタリー映画(「Manufacturing Consent:Noam Chomsky and the Media」、1992年)もある。
 同じくUnnecessary death (不必要な死)という表現も、チョムスキーの著作『Necessary Illusions(必要な目くらまし)』(1989年)と対になっているような気がする。いずれにしろ、そこで問題とされるのは、一般市民のあずかり知らぬ複雑な「陰謀」の類ではなく、目の前にあるにも関わらず見えないという、「民主社会における思想統制」の実態である。
 プロパガンダがそれとわからない形で浸透している先進国社会。そこからの覚醒を旗印にするSOADが、新作シリーズのタイトルを『メズマライズ/ヒプノタイズ』(催眠・幻惑〜暗示)としたのも、自然な流れということが知れる。

 


INNERVISION
 何気に名曲。本当に2002年に世に出た曲なのか。なんだかずっと昔から知っていたような気がする(女に言うセリフだ、そりゃ)。
 往年の洋楽リスナーなら、当然のようにスティーヴィー・ワンダーの名作『Innervisions』(拙訳 「Visions」 がタイトル曲)を連想するだろう。曲調はまるで違うが、どちらも自由への痛みとほとばしるような渇望、という下地を共有していると思う。
 とりわけ、
 It’s never too late to reinvent the bicycle
 この一行を秀逸だとわかってくれる人は、「弱い文明」にも共感してもらえるのではないだろうか。受け取る人次第で、様々な角度から様々なものを鏡のように反射するフレーズだ。

 背景画像にはガンディーの彫像と、インドの女性ダンサーのシルエットなんぞを使ってしまったが、別に僕の中でインドが特に「聖なる○○」を象徴するイメージというわけではない。実際のインドは、様々なレベルで今も暴力(貧困も暴力だ)が渦巻いている。だからこそ「非暴力」が切実な響きを持つ土地柄であるにしても。

 ちなみに、訳詞に採り上げた『STEAL THIS ALBUM!』の4曲のうち、この「INNERVISION」だけはタンキアン単独の詞で、あとはマラキアンとの共作詞ではないかと、僕はぼんやり推測している。もちろん、まったく確証はない。

注)レコード・ライナーに記載されていない部分の歌詞(下記のとおり)については、ファンサイト「All In A System」掲載のものを参照させてもらいました。
 There is only one true path to life
 the road that leads to all, leads to one




A.D.D.
 「良心的反米」のテーマ・ソング。と、勝手に解釈。
 訳詞中の「アメリカ人の、アメリカ人による、アメリカ人のための」は、僕の考えた当てこすりである。原詩ではof the American Dream,of the American とくり返しているに過ぎない。
 しかしこの歌詞からAmericanという単語を隠してしまえば、およそあらゆる血の気の多い原理主義(“イスラム原理主義”だけではない。神であれ自由市場であれ民族的ナルシシズムであれ)のDENIALにもなる。「良心的」とは、そういう構造を有するからこそ「良心的」なのだ。

 また、この曲で直接言及されているわけではないが、「アメリカのための戦争」に狩り出されたのはアメリカ人ばかりではない、という歴史的事実にも思いをはせるべきだろう。とりわけ中南米、そして中東の軍事独裁国家に対して、アメリカは「反共」の名の下、常軌を逸した手厚い支援を続けてきた。冷戦終結後ですら、この方針は一貫している。スローガンが「対テロ戦争」に置き換わっただけだ。


STREAMLINE
 この曲の登場した経緯からすると、何もわざわざ9.11と結びつけて考えるのはどうよ?という議論はあるかもしれない。
 僕の手に入れた情報では、もともとは『TOXICITY』レコーディング時の曲であり、ScorpionKingというベタなアクション映画のサントラに使われた。ただしレコードの形で世に出たのは『TOXICITY』からの3rdシングル「AERIALS」(ヨーロッパのみ発売)のサブトラックとして、の方が早かったかもしれない。日付ははっきりしないが、少なくとも9.11の数ヶ月後のはずだ。その後『STEAL THIS ALBUM!』に収録されるにあたっては、他の曲同様、録り直しされている。
 つまり、元は9.11を契機に生まれた曲ではなかったにしても、『STEAL・・・』の最終曲として登場した際には、事件を充分ふまえた聴き方ができる作品として再提示されている。それが僕の解釈の根拠である。

 だからといって、僕はこの曲と9.11を結びつけることに固執しているわけではない。ただ、何度聴いても、ここで歌われている相手の人間が生きている人間のように思えない。―つまり、これは「死別」の歌ではないだろうか?…そこから一つの解釈として、9.11との関連を想像してみただけである。だが当たり前のことだが、世の中に「死別」は数限りなくある。
 主語を女性の「私」にしたのも、深い意味はない。なんとなくその方が自然な気がしただけだ。端的に言って、とても優しい歌だと思うから。

 それにしてもsnowblind(雪目、雪眼炎)という言葉が効いている。これほど逆説的で、なおかつ喚起力のある言葉はそうそうない。雪は白、闇は黒であるはずなのに、“白い闇”なのだ。光は事物を照らし出すはずなのに、ここでは見えなくする。それは炎症をもたらすのである。見る、という行為が痛みをもたらすのである。
 ちなみにsoad-online.netのデータによると、システムはブラック・サバスのまさに「Snowblind」という曲をカヴァーしていた(ライヴのみ?)という。明らかにその曲の存在が、「STREAMLINE」のヒントになったはずだ。



CHOP SUEY!
 これは僕が最初に聴いた彼らの曲だった。TVのチャンネルをいろいろ変えている時に偶然、MTVで放映していたこの曲のプロモーション・ビデオのラスト30秒ぐらいに出くわしたのだった。PVの内容そのものは他愛のないライヴ・シミュレーションものなのに、瞬間、へヴィーな音とせつないメロディー、U2のボノを髣髴とさせる美声と、国籍不明のテロリストっぽいメンバーの面構え、それらの背後にじっとたたずむ「繊細さ」に思わず引き込まれて、リモコンを持つ手が止まってしまった。続く「AERIALS」のPVも(今思えばその番組はSOADの小特集だったのだろう)エイリアンみたいな「人間もどき」の少年が出てくる変なビデオで、その異質なムードに唖然としたが、それ以前に「CHOP SUEY!」の終わりの30秒で、ほとんどノックアウトされていたのだ。
 そんな自分とバンドの出会いを切り開いてくれた曲だけに、「Lost In Hollywood」同様とても思い入れが深い。レコード(外盤)を手に入れてから、真っ先に訳にトライした。しかし、断念した。わけがわからない・・・聴くたびにその「繊細さ」が胸に迫ってくる。だけど、訳せない。訳そうとすると、支離滅裂になってしまう。もちろん、「支離滅裂な曲なのだ」と開き直る手もある。だがそんな芸がないものを、わざわざホームページに載せてもしょうがない。というわけで、この曲について深く考えるのは何となく避けていた。いつか、自然にわかるようになる日が来るんじゃないか、などと思いつつ。
 しかしリクエストが来て、そういうわけにもいかなくなった。せっかくの機会だから、とりあえず「自分はこう思う」というヴァージョンを(まあ、どのページもそういうヴァージョンだが)、作ってみようと試みたのである。
 その顛末を含んで、解説は長くなったので別項に掲載した。そちらをよろしく。おすかーさん、リクエストありがとうございました。



AERIALS
 これも「平易な言葉を使いながら難解な表現」の代表例の一つだろう。

 ほとんど誰もが迷うだろう部分は、
 swimming through the void we hear the word
 we lose ourselves, but we find it all・・・

注)歌詞カードでは「we lost」と表記されているが、レコードでは明らかに「lose」と歌っているし、時制の一致の点からも、そちらを採用。

 上は直訳でもいいとして、下の行で出てくるwe find it allが謎である。
 まずこのitは何を指すのだろう?直前のourselvesは複数だからitで受けるはずがない。ならばその前のthe wordを指しているとしか考えられない。すると、
 we hear the word -but we find it all・・・
 な、なんのこっちゃ?となってしまう。

 そこでヒントになったのが、soad-online.netである。米国人のファンが聴き取りした歌詞を掲載しているページがあって、そこではfind it all・・・がfind it all?と書かれていた。それだけのことなのだが、あれっと思った。米国人誰もが、というわけではないだろうが、とにかく聴き取りをしたその人の耳には、find it all?と問いかけるように聞こえた、ということなのだ。
 さらにその疑問形を基に、僕よりは英語に明るい友人の一人に意見を聞いてみた。
 彼によると、やはりfind it allがどういうことなのかはよくわからないが、詞全体として、我々は言葉に埋没してしまって何かがわかった気になっているが、それは本当に「わかる」ということなのか、という(僕なんかには耳の痛い)問いかけを含んでいるのでは、ということだった(ちなみに彼はこの時点で、AERIALSという曲についてもSOADについても、まったく何も知らなかった)。
 その友人の意見をもらった時、頭をよぎったのは北米インディアンの伝承詩である。似たような根源的な問いかけを多く含んでいるばかりか、子どもでもわかるくらいの平易な言葉を使いつつ、短絡的に「わかった」と言わせない表現というスタイルそのものが、非常に近しいものを感じさせる。そう言い出したら、タンキアンの詞は全体にそんな感じがあると言えることにも気がついた。

 こういった考えを総合してみたのが、ここでの訳詞と背景画像である。背景のインディアンの写真は、当サイトトップページと同じく、E・カーティスによるもの。



SPIDERS
 SOADの1stアルバムは、<訳出に関するノート>でも触れたとおり、作詞タンキアン・作曲マラキアンという分担が比較的明快だった。そのぶん、歌詞はタンキアン独特の難解さが前面に出ている。それを自覚して、補う意味でかどうかは知らないが、レコードの各所にリスナーに向けてのメッセージ類が添えてある。といっても、そのメッセージ自体がかなり詩的で難解な表現なので、あまり補っていることにはならない気もするが。

 裏ジャケでは、「手には5本の指がある/何かを破壊するのと同じくらい上手に何かを創ることができる」といったように、表ジャケの“広げた手のひらの写真”が意味するところが語られている。それとともに「われわれは工業力や野蛮な政治権力の乱用を認識し、これを押しとどめ時代の潮流を変える力を持っている[・・・]目を見開き、声を上げよう、その手のひらを握りしめ、こぶしを作ってほしい」と呼びかけている。いわば声明文である。
 インナースリーヴではさらに詩的な表現ながら、現代メディアの「コマーシャルなオーウェル主義」や野蛮な軍事ビジネスに向けて「反乱を仕掛けよう!」と呼びかけている。Let us instigate the revolt, Down with the System!というフレーズで締めくくられるこのメッセージは、そのままシステム・オブ・ア・ダウンというバンド名に込められた意味を考えさせるものだ。つまり自らを取り囲むシステムを引き受けつつ、それを無力化する・・・悪しきシステムを機能停止(down)に追い込め!ということなのだろうか。

 「SPIDERS」には、歌詞本文の前のイントロとして、こんな註釈文が添えてある。
“きみたちの考えや夢は、もはや神聖(な個人の秘密)ではない。遠隔画像監視、盗聴などの軍事技術によって丸裸にされているのだから。”
 この手の話は、昔はいわゆる「陰謀マニア」の誇大妄想のように揶揄されることが多かった。しかし、特に冷戦終結以降、NSA(米国国家安全保障局)にまつわるスキャンダルが欧米で露見してからは、誰も笑えなくなった。W・ブルムの「アメリカの国家犯罪全書」(益岡賢・訳、作品社)の第21章「盗聴―世界のあらゆる場所で」などを参照のこと。
 ブルムは彼の経験からか、別の箇所でこんなことも書いている。
「どんなにあなたがパラノイアで陰謀説に傾いているとしても、政府が実際にやっていることは、その想像以上にひどい」

 そんな話を念頭に置きながら訳したのが、僕の「SPIDERS」である。「近未来SFラヴ・バラード」・・・というより、もはやこれは現代なのだ。
 ここに出てくる「Vチップ」とは、Yahooの辞書で調べたところ、violence chipの略で、「テレビの暴力, セックス場面を子供に見せないようにするために受像機に組み込まれた電子装置」。そういったものを隠れ蓑に市民を監視するシステムというのは、インターネット普及以降はなおさら現実味を帯びている。情報にアクセスする時、同時に情報を発信する側からアクセスを受けている可能性を考えないわけにはいかないのだから。
 また、レコード裏ジャケのICチップの写真は、それ自体何かムカデのような多足昆虫を模したロボットのように見える。「spiders all in tune」というフレーズもそんなイメージと相まって、「彼女」の家に放たれた監視用のロボット蜘蛛のことなのでは、という気がしたのだった。
 


P.L.U.C.K.
 1stアルバム最終曲。タイトルの「政治的に嘘をつく、罪深く臆病な人殺しども」とは、アルメニアン・ジェノサイドを認めないトルコの歴史修正主義者、あるいはその米国内の同調者たちを指している。その者たちに抗して、SOADメンバー達が自ら歴史の一部を“語り継ぐ”ための曲だろう。
 しかし、この曲の核心は、それがまさに“語る”などという生易しいことでは追いつかない、表象不可能な出来事として意識されていることにあるのではないか。それこそがこの曲の醍醐味ではないか、と僕は感じる。

 サビの部分、サージとダロンは同じメロディーを異なる歌詞でハモる。サージの歌う3行は、

  大量虐殺は計画どおり実行された
  子供達は連れ去られ、我々(親達)も死んだ
  生き残ったはずのわずかな者も行方知れずだ


という、事件の「説明」である。この3行にかぶせるように、ダロンが「Never want to see you around(おまえらなんか二度と見たくねえ)」と歌う。アルメニア人側の言葉と、トルコ兵側の言葉がぶつかり合うように。だが現実に事態を説明しているアルメニア側の3行に対して、人をせせら笑うように侮蔑の言葉をただ3度くり返すトルコ兵の声のほうが、史実同様、勝ち誇ったように聴こえてしまう。
 もちろん、僕の耳にはそう聴こえる、という話である。この両者の声の分担をどう解釈するかは、人によって意見が分かれるだろう。両者ともアルメニア人の声であると受け取る人の方が、たぶん多いはずだ。
 ただ、僕がこのサビの部分に感じる何ともいえない「痛ましさ」というのは、「悲惨な出来事がありました」ということを歌っているから、ではないことを強調しておきたい。それは出来事を語っているためではなく、「語らせてもらえない」「語る言葉が壊れている」という表現を、そこに見るからなのだ。存在を真っ向から否定された人間たちの奥底からのうめきは「とても言い表すことなんかできない!」という言い表し方しかできない、というような。だから僕はサージの歌う3行を「訳す」のを中止した。代わりに意味不明な文字の羅列を絵画的に並べたのは、その「表象不可能性」を表象したつもりだ。
 そして続く「All in a system, Down !!」という叫びによって、自滅システムの中に生きる現代のわれわれへとバトンが手渡される。ある少数民族固有の悲劇の記憶から、こうして普遍的なわれわれの生き方の問題へとつながっていく、と僕は考えたいのである。

 背景に使った画像のうち、上はアルメニアの首都エレバンにあるという「虐殺記念館」に展示されている絵画の一部である。詳しいことは不勉強ゆえ調べていないが、おそらくアルメニア人の画家による寄贈作品で、英訳タイトルはSomethingRememberedというものらしい。下の写真はジェノサイドとは直接関係のない、1988年の隣国アゼルバイジャンとの紛争(いわゆる「ナゴルノ・カラバフ自治州」をめぐる)の際のもので、写っている兵士たちはアルメニア軍である。
 いずれも、奇妙に吸い寄せられるような絵(写真)だったので、思わず使ってしまった。自分でもよくわからない。



CIGARO
 「俺のコックは・・・」に始まるエゲツないダロンの詞と、「regulator」をめぐる観念的なサージの詞が交互に組み合わさっている、最近のSOADの典型のような曲。
 そのサージ担当の(といってもあくまで推測)部分については、例によっていろんな訳がありえると思う。僕は僕なりに訳してはみたけど、自信があるわけではない。
 ただ、僕がここでこだわったのは、「regulator」や「animator」をどう訳すかという問題よりも、否定の接頭語“de”の表現をくっきりと見せること。それがサージの詞の一つの特徴である、「life」と「denial」の葛藤というテーマにつながるからだ。

 We're the regulators that deregulate
 We're the animators that de-animate
 We're Cool, in denial
 We're the cruel regulators smoking cigaro

 これについては、「詞の個性」のページで少し詳しく考えたいと思っている(近日―?)。
 ところで、この部分を聴くと(読むと)、なぜか僕は『1984』に出てくる有名なスローガンを連想してしまう。

 戦争は平和である
 自由は屈従である
 無知は力である


 当初から、メディアに横行する言葉の使い方について「コマーシャルなオーウェル主義」と看破していた彼の詞には、現代の“ニュースピーク(NewSpeak)”に対抗するための独自の作法が反映している。その作法が、一見エグさのかたまりである「CIGARO」のような曲にさえ、不思議に沈鬱な深みを与えていると思うのだ。



SAD STATUE
 これもダロンの詞とサージの詞が交互に組み合わさった曲だが、「CIGARO」とは逆に、ダロンの(たぶん)詞の方がサビに来ている。このサビはメロディもわかりやすく感動的で、シングル・カット向き、という印象が僕にはある(結局そうはならなかったが)。
 それにしても、サージの詞との組み合わせという点では、これらが同じ一曲を構成しているとはほとんど信じ難い。一人の人間が書いたとしたなら、間違いなくその人は人格分裂症だろう。裏を返せば、今にも分解してしまいそうな2つのベクトルが無理やり1つにパッケージングされている、あやうさを孕んだ曲という気がする。
 そんな2つのベクトルを劇的につないでいるのは、Cメロ(ブリッジ)の部分ではないだろうか。

 What is in us that turns a deaf ear
 to the cries of human suffering?

 この部分があるからこそ、2つのベクトルは内奥で(怒りと、自責の感情によって)1つになる。またこの部分こそが、サビの詞に「挫折した反逆者たちが傷をなめ合う」的な甘ったるさが忍び寄るのを食い止め、同時に「戦闘継続」の意思をみなぎらせている。つまり、前半で聴かれるサビと、このCメロを通過した後で再び現れるサビとでは、字面が同じでも意味内容は変質を遂げている。後の方のサビでは、「俺達は歴史に埋もれていく・・・」という自己憐憫のニュアンスよりも、「俺達は同意を拒んだ世代として記憶されようじゃないか!」という覚悟を促すメッセージとして響いてくるのだ。
 もちろん、そんな聴き方をするとますますこの曲が好きになるという人間が、約1名ここにおります、というだけの話だが。



LOST IN HOLLYWOOD
 システム・オブ・ア・ダウンというバンドを訳詞コーナーで採り上げようと決めた時、本当は真っ先に紹介したかったのがこの曲だ。彼らに心底惚れるきっかけになったのがこの曲だったからである。
 結局だいぶ後になってしまったが、それは思い入れの強い曲だけに、訳の面でも絵の面でも、妥協をしたくなかったからである。―なーんて書くといかにもカッコイイが、訳の面でも絵の面でも自分の技術のなさに失望しつつ、なんとなく迷っている時間が長かっただけである。迷った分だけ納得のいくものになったかといえば、あー、・・・いや、グチはやめましょう。
 詞の解説というか「解題」は、ちょっと長くなるので別ページにまとめました。


ATTACK
 暴力を行使する者とされる者、さらに客観的に「物理的な力」としての暴力という視点が、意図的にゴチャ混ぜにされている。「おまえが悪い」「あいつらが悪い」式の物言いを避けんがための、サージの手のこんだ仕掛け。1stアルバムの「WAR?」以来の手法だ。
 「WAR?」同様、象徴的なのは詞の中に「they」という言葉が現れないことだ。行為の主語はいつもweまたはyou。これは、世界に充満しているのは敵ではなくわれわれの暴力だという、現代米国人としての最もラディカルな(=根本的な)認識であり、表現の一端であると思う。

 ただ訳詞としては、あえて対立の軸を明確に、自分たちが闘うべきは何であるのか、自覚しているはずのweまたはyouという体裁を僕は選んだ。たとえば「奴らは家々を破壊した・・・」というくだりは、実際には主語のない文だから、命令形か、あるいは行為そのものを即物的に提示していると解釈するのが一般的だろう。だけどそれを「奴ら」の行為であると、僕ははっきり読み替えている。
 そうすることの妥当性を何か感じているというよりも、ただ僕は、そう読みたいのである。そう読むことで、この曲を自分の方にもっと引き寄せたい。僕はこの曲を、レジスタンスのテーマ・ソングだと思っているからである。


KILL ROCK'N ROLL
 ダロン節炸裂のナンバー。この男はこうまでシンプルでえげつない言葉ばかりを駆使しながら、こうまで味わい深い歌を作れるのかという、見本のような作品。才能というより、表現者としての“業”を感じてしまう。
 正直僕は、「AERIALS」を除けば、システムのPVには面白みを感じない。いかにもロックのPV、という作り・演出のものが多くて、それは曲の深みとつり合っていないと思うのである(それは彼らに限らず、優れたアーティストの優れた曲ほとんどすべてに当てはまる現象だとも、昔から個人的には感じないではいられないのだが)。
 だが逆に、この「KILL ROCK’N ROLL」の場合は、そうした「いかにも」の演出でPVを仕立てれば、逆説的な面白さが浮かび上がってくるに違いない。それこそ彼らの代表的ビデオ作品にもなると思うのだが─ただ、「asshole」とかの禁止用語を連発する歌なので、そもそも放映できない恐れもある。うーん、もったいない。


HYPNOTIZE
 考えてみれば、あの「天安門事件」から2005年で17年目なのだ。月並みだけど、月日が経つのは早いと思う。

 1989年5月〜6月のあの日々は、僕の心に強烈な印象を残した。翌年、戒厳令の解除された北京を、サラリーマンになって最初のボーナスを手に僕は訪れた。初めての海外旅行であり、初めての一人旅だった。
 夜も昼も天安門広場に足を運んだ。事件の痕跡は見当たらなかった─ただ一つ、人民英雄記念碑の台座の階段付近にこびりついた、茶色い血痕を除いては。これだけは洗ってもこすっても消えなかったのだと、ガイドのおじさんが言っていた。
 ガイドといっても、この人は本来、僕に空港からホテルのチェックインまで同行するだけの役目のはずだった(僕が申し込んだのは格安のフリー・プランだったので)。だがタクシーの中で、僕が「予定は特にない、とにかく天安門広場が見たい」というようなことを話すと、じっと僕の目を見つめて、それなら今から行きましょうと言って、タクシーを夜の天安門広場に向かわせてくれた。さらに翌日も無償で、市内めぐりにつき合ってくれた。
 事件について、それほど突っ込んだ話をしたわけではない。ただはっきりわかっていたのは、あのおじさんは、僕のような若い日本人が事件に関心を持っていることを、心強く、うれしく思ってくれたのだろうということだった。それが若造特有の、ほとんど衝動的な、なかば野次馬根性的なノリでの行動だったことも見透かしていながら、それでもなお。

 それから10年以上も経って、まさかアメリカのロック・バンドの歌を聴きながらそのことを思い出すはめになるとは思わなかった。僕と同年代のサージはともかく、メンバー最年少のダロンの場合、天安門事件は中学生の時である(ダロンは1975年生まれ、サージは1967年生まれ)。あの戦車の前に一人立ちはだかる青年の映像を目に焼きつけ、反骨心の糧としたのかもしれない。
 当時、中国の人権蹂躙を声高に非難していた欧米各国は、今では中国の強固なビジネス・パートナーとしてがっちりタッグを組んでいる。時折人権問題やら知財関連の問題やらを持ち出すが、中国の「民主」をおもんばかってのことではないのは明白だ。政治的な駆け引き以上の意味はない。各国首脳にとって、中国の民衆はまず安価な労働力であり、膨大な潜在的消費者である。それだから、たとえば日本の百均ショップあたりでは、原材料費より安いのではないかと疑われるメイド・イン・チャイナの商品が並ぶことも可能になる。
 ちなみに天安門事件後、各国に先立って真っ先に「関係正常化」に走ったのは、日本政府である。それが傷ついた中国の学生たちの心に残したかもしれない禍根を、僕は忘れたくない。

 あの血痕は、いくらなんでももう無いだろう。タイルごと張り替えたかもしれない。だが、歌は続く。


TENTATIVE
 『HYPNOTIZE』発売の頃(2005年秋)には、あえて訳出したいとは思わなかった曲である。ドラマチックな展開やメロディー・ラインは大いに気に入っていたけれど、歌詞としてはさしてインパクトを受けなかったからだ。
 それが翌年夏に、イスラエル軍によるガザ・レバノンへの大規模な攻撃が始まり、とりわけ“カナの虐殺”に代表される民間居住地域への空爆の報を目にし耳にしているうちに、「TENTATIVE」の世界そのものを見ているような既視感に襲われた。それから、かなり短時間で訳詞と画像を仕上げて掲載した記憶がある。

 Where do you expect us to go when the bombs fall?
 Where do you expect them to go when the bombs fall?

 こんな風に、usからthemへ、themからusへと、一曲の中に複数の人の視点が織り込まれるのも、彼らの歌の特徴だと言っていいだろう。実際「TENTATIVE」白眉の部分は、このさりげない「移ろい」の醸す衝撃だと思う。
 実は「going down─in a spiral to the ground」というサビのフレーズも、「らせんを描いて」人が奈落に落ちていくイメージと、空対地ミサイルが「らせんを描いて」人間のもとへ落ちていくというイメージの、どちらとも取れることに、最近になって気がついた。この場合も、肝心なポイントは人間と物(爆弾)との間のイメージの行き来ということではなくて、爆弾を落とすのも落とされるのも人間だ、ということである。どちらも人間だが、私たちは落とす側、彼らは落とされる側、だが落とす側である私たちもその行為によって生きながら腐っていく。
 ジャン・ユンカーマン監督のドキュメンタリー『HELLFIRE:劫火』の中で、画家の丸木位里が「戦争を起こす者も、止められなかった私たちも、みんな地獄に行く」と言っていたのが思い出される。それが我々のはまり込んでいる「spiral」なのだ。
 この曲のクレジットはダロンとサージになっているが、いわゆるダブル・ミーニングとはまた別の、「主体の二重性/互換性」という点では、やはりサージの発想が強く反映した歌詞と見ていいのではないかと思う。


HOLY MOUNTAINS
 かなり抽象度の高い表現が充満してはいるが、ひとまずこれも「P.L.U.C.K.」同様、アルメニアン・ジェノサイドについての歌だと了解していいだろう。
 「聖なる山々」が具体的にどこを指すのかは不明だが、アルメニア/トルコ国境近辺ということなら、アラス川がそのふもとを流れるアララト山が有名だ。この山はトルコ領内だが、アルメニアの首都エレバンからも望むことができるという。確か旧約聖書の、ノアの箱舟が漂着した(らしい?)場所としても有名だ。ただタイトルは「MOUNTAINS」と複数形なので、ある単独の山を指すわけではないのかもしれないが、僕は深く考えずにアララト山の画像を使ってしまった。
 また聖書つながりで言えば、『ヒプノタイズ』国内盤の対訳で、Sodomizerが「男色家」と訳されているが、僕はあえて「ソドムの民」という詩的かつ宗教的な言いまわしの方を採った。それはサージにしろダロンにしろ、性的マイノリティそれ自体を攻撃するような思想の持ち主ではないことが、はっきりしていると思うからである。

 しかし、そんな地名やら聖書やらの謎解きよりもはるかに核心だと思えるのは、この曲を通じて、つきまとう「あいつら」、うつろな目をした「ある者」は、過去ではなく、現在の存在として描かれていることだ。
 Someone’s blank stare
 deemed it warfare
 warfareという語は、交戦双方がやり合っている状態を強調するものである。単に「戦争」と訳しただけではニュアンスが伝わらない。
 それと同形の問題は、我々が日々目にし耳にする報道の中にも存在する。TVなどを通じて「戦闘」だの「暴動」だの「○○派と△△派の衝突」だのと聞かされる出来事が、実際には軍事的に優位に立つ側による一方的な虐殺であったりする。残念ながら、それは稀なケースではない。最近の例で言えば、イラクのファルージャで2004年に起きた虐殺は、米軍側が主張する「過激派掃討」という名目によって正当化されてしまい、日本のメディアもそれを基本的には踏襲していた。これもまたメディアによって仕掛けられる「hypnotize」の一つのパターンである。
 アルメニアの虐殺にしろ南京事件にしろ、ファルージャの事件にしろ、戦時下の出来事だったからというだけで、その犯罪性が微塵も軽減されるわけではない。SOADがくり返しジェノサイドの記憶を歌にするのは、単に民族的な自覚に基づくというより、そうした事件を常に自分たちに都合のいいように読み換えようとするhypnotizerが、我々につきまとっているという現状を意識させたいからだと僕は思う。


LONELY DAY/SOLDIER SIDE
 連作の第一章『メズマライズ』は「SOLDIER SIDE-INTRO」で始まり、第二章『ヒプノタイズ』は「SOLDIER SIDE」本編で終わる。この「SOLDIER SIDE」こそが連作シリーズの影の表題曲であることが、2枚のアルバムを通して聴くことによって明らかになる。
 いわゆるコンセプト・アルバムとして、こうした構成は別に珍しくない。むしろありがち、と言っていいくらいのものだ。それでも、そうした構成・仕掛けに慣れっこになっている僕ですら、この『ヒプノタイズ』のエンディングには打ちのめされ、圧巻と思う他なかった。
 それは「SOLDIER SIDE」という最終曲のクオリティ自体のせいばかりではない。それがその直前の曲「LONELY DAY」と連結していることから来る感動なのだ。

 「LONELY DAY」はいたってシンプルな曲である。すべてのSOADの曲のうちで、最も素朴で優しい曲と言っていい。内容も単純に失恋の歌である。いや、というか、失恋というものは誰がどう書いても、究極のところ単純にならざるを得ない、ということを明らかにした歌というべきか。少なくとも、失恋というものの核心の部分において、人は「孤独」以外の何をも感じる余裕などない。失恋とはそういうものだ。多くの人がそんなようなことを、自らの経験に重ねてかみしめることができる曲だろう。
 この「LONELY DAY」の終わりの3音のフレーズが、「SOLDIER SIDE-INTRO」の終わりのフレーズに重なり、そこから静かに「SOLDIER SIDE」本編が始まる。最もありふれた日常の失恋の話から、ありうべきでない戦場の兵士の死の話へ。2曲がつながることで、それぞれが別個に聴かれる時とは違う、新たな意味が生じる。そこにSOADの、特にこの2曲の作者であり、連作シリーズのコンセプト・リーダーたるダロン・マラキアンの言いたいことが、最も強くこめられている気がする。
 つまり、人間は、放っておいても悲しいのである。生きていれば、ただでさえ辛いこと、苦しいことに翻弄される。ぶっちゃけ、恋人にふられたら、死にたくもなるのである。愛を見出し、そして失う。それだけで、生きていくのは困難になる。だけどほとんどの人は、何とか踏みとどまって生きていく。思えば、みんな大したものなのだ。
 なのに、なぜそのうえ、戦争だの抑圧だの貧困だのが存在しなくてはならない?なぜ目先の利益や欲望に振り回され、傷つけ合い、殺し合わなければならない?なぜそれらが人間社会の「必要悪」だなどという虚偽を延々と信じなければならない?

 こうした想いは、この2曲が並ぶことによって聴く者に直感的に伝わる。だから僕の訳詞の方でも、この2曲を1つのページに掲載することは最初から決めていた。
 僕としては、この2曲によって、ダロンと自分との間の距離がぐっと縮まったように感じた。それまではどうしてもサージ中心の考察がメインだったが、現在のSOADはむしろ(いい意味で)ダロンのバンドなのかもしれない。




HOME  Back
inserted by FC2 system