SYSTEM OF A DOWN
「CHOP SUEY!」をめぐって
  個別解説EXTRA−2
 by レイランダー・セグンド  2005.11.15-18

la civilisation faible
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 正直、リクエストを受けなければ、この訳詞に取り組むことはなかっただろう。少なくとも、ここ数年のうちには。まったく自信がなかったからだ。
 「CHOP SUEY!」は議論百出の曲である。SOADの曲の中でも、最も論争を呼んだ(呼び続けている)曲かもしれない。アメリカのファンサイトの掲示板あたりでも、ファン同士が鋭いやり取りをしている。そこでの解釈の傾向を大づかみに分けてみると、
a.これは暴力に苛まれて自殺を願う女性の歌である。その暴力の行使者は父親。あるいは社会が女性に強いる圧力か。
b.これは「P.L.U.C.K.」と同じく、アルメニアン・ジェノサイドに関連した歌である。
という、2種類のようだ。

 a.を主張する人は歌の前半部、「makeup」や「hide the scars」などのイメージを重視している。たしかに、父親の虐待に苦しむ若い女性(もしくは子供?)の話として読んでも、細部はともかく、全体のトーンとしては辻褄が合う。この説を支持する人は女性が多い。それでどうしても、「ムード優先」みたいなそしりを受けやすい(僕は決してそうは思わなかったが)。
 対してb.の論者は男が多い。こちらはもっぱら、詞中の「In your eyes forsaken me・・・」等が、ファーザー・アルメニという詩人の1915年のジェノサイドを歌った詩からの引用であること、「self righteous suicide」もまた、その詩で言及されている、アルメニア人迫害に付随して起きた集団自殺のことらしい―といった“状況証拠”を前提にしている。ここにはファーザー・アルメニという人物の謎めいた逸話も絡んできて、“状況”は思いのほか複雑である。タイトルの「CHOP SUEY」はアメリカで広まった中華丼チャプスイのことだが、この料理の発明者がなんとファーザー・アルメニだという話につながるのだ(こちら参照)。
 ところが、日本語のサイトを調べた限りでは、チャプスイは清朝末期の宰相・李鴻章が米国滞在中、賓会の料理の余りもので作らせたのが始まりだという説が一般的である。これはどういうことなのか?・・・・ともかく、このファーザー・アルメニという人の「あやしさ」は、何か悲劇的なにおいがする。一部で「大ぼらふき」とか「誇大妄想的」と揶揄されるアルメニア人(それは多分にジェノサイドの経験という民族的トラウマに関係があるはずだが)の典型のような人だったのだろうか。詞中の「またぞろ作り話を・・・」という箇所は、そんな他者からの視線を自虐的に先取りしたように聞こえなくもない。
 ちなみに、チャプスイは中国語で「雑砕」と書くように、肉や野菜のごった煮ご飯である。実際「ごった煮」とか「ごた混ぜ」の意味で使われることもある。それで僕は最初、曲名の由来は、3つくらいの異なる曲の材料をごった煮にして作った曲ということで、メンバーが冗談でつけた愛称なのでは、ぐらいに勘ぐっていた。だが、先のアルメニの詩では、「chop suey」が大量殺戮の隠語として用いられているという話がある。さらにそのチャプスイは彼が発明した料理、となってくると、もうわけがわからない。いずれにしろ原詩が手に入らないので、確認のしようがないのだが。
 しかし、料理の話はともかく、b.の解釈には欠点がある。単純に、歌の前半部の描写がまるで説明できないのだ。
 またb.に近い解釈として、アルメニア云々というより、ずばりキリストの受難についての歌だ、という説もある。先のファーザー・アルメニの引用にしても、元々は聖書の中のキリストのセリフに基づいているわけだから、これは当然といえば当然の発想だ。ただし、いずれにしても前半部の説明がつかないという点では同じである(それで、出だしの「wake up!」をキリストの復活にこじつける人までいるが、いくらなんでも・・・)。

 その他にもa.やb.のヴァリエーションのような解釈がいろいろある。「chop suey」は大量殺戮の隠語ではなく、自殺の隠語だという説(sueyはsuicideのことだという)もある。実際、この曲の元の名前はそのものずばり「suicide」だったという情報もある。ファンサイト以外のところで見つけた話の中には、1998年に自動車事故で死んだSnotというバンドのヴォーカリストLynn Straitのことを歌ったという説(つまり本当は自殺だったのだ、とか)なんかもあった。
 どの説もそれぞれ興味深く、同時になんだかホッとさせられた。ホッとしたというのは、つまりこの曲で頭を悩ませていたのは俺だけじゃなかったんだ、わーい!という(そりゃそうだろ)。
 結局この曲はガラスの多面体のようなもので、見る面によって様々な情景が脈絡もなく映し出される。どこに着目するかで、解釈がガラッと変わってしまうのは致し方ないことなのだ。



 では僕の場合、あえてどこに着目したか。
 締めのフレーズでもある「when angels deserve to die」である。当初は、逆にこのフレーズが一番意味不明だと思っていた。それが、何かの拍子にこの意味に思い当たった時、初めて聴いて以来胸に突き刺さっていた、ある種の「繊細さ」の正体を、その尻尾をつかんだような気がしたのだ。

 僕がこのフレーズから連想したのは、『カラマーゾフの兄弟』の有名な「大審問官」の章の手前にある、導入部である(第五編・第四章)。
 居酒屋で、イワン・カラマーゾフが見習い修道僧の弟アリョーシャに、現代世界の言語に絶する子供たちの“受難”について語る。罪深い大人はともかく、子供に何の罪がある?彼らの苦しみは何のためだ?宗教においては、それは神のみぞ知る、最後に神がすべてを説き明かし、すべての者が赦され抱き合い、最高の調和がやってくる・・・だがその最高の調和、すなわち神の国、パラダイスを建設するために、どうして幼い受難者が血を流さなければならない?たとえその受難者自身がそれを赦したとしても、自分はそんなべらぼうな値段のついたパラダイスへの入場券は謹んでお返しする、と。

「俺は調和なんぞほしくない。人類への愛情から言っても、まっぴらだね。それより、報復できぬ苦しみをいだきつづけているほうがいい。たとえ俺が間違っているとしても、報復できぬ苦しみと、癒やされぬ憤りをいだきつづけているほうが、よっぽどましだよ。」
「究極においては人々を幸福にし、最後には人々に平和と安らぎを与える目的で、人類の運命という建物を作ると仮定してごらん、ただそのためにはどうしても[・・・・]子供を苦しめなければならない、そしてその子の償われぬ涙の上に建物の土台を据えねばならないとしたら、お前はそういう条件で建築家になることを承諾するだろうか」
(原卓也 訳「カラマーゾフの兄弟(上)」より。下線部は本では傍点部)

 こうしたイワンの疑義に対して、兄さんの怒りはわかるけれども、すべてに答えられる人はただ一人、それはキリストだ、なぜなら彼は僕たち皆の罪を引き受けて死んでいったのだから、とアリョーシャは答える。神が何を考えているかはわからない、でも自分はキリストという「人」を信じたい、というのがアリョーシャのぎりぎりの主張である。そんな弟を、イワンは誇りに思い、ことのほか愛している。だが自説を引っ込める気は毛頭ない。

 僕にしても同じだ。この件に関しては100%以上イワンの賛同者である僕だって、アリョーシャのような人間は好きである。でもそれは、イワンという前提がまずあってからの話だ。そしてこの前提こそは、何よりロックというメディアを通して、ほとんど感覚的に馴染んできた前提なのだ。

 そう、こんな具合に「angels deserve to die」から逆算すると、「self righteous suicide−独善的自殺」という言葉も、righteousの狂信的・禁欲的なイメージよりも、「たとえ間違っているとしても自分は!」という、selfの強調に重きが置かれているような気がする。つまり、「CHOP SUEY!」の主人公のself righteous suicideとは、地上の地獄を、天使たちの苦しみを放置する神への抗議の自殺という風に聴ける。
 先のa.の解釈もb.の解釈も、苛まれる社会の弱者=女性、少数民族という観点を持つ限り、間違いではない。ただ僕は、本人が暴虐を直接受けているというより、暴虐を受けている人へのシンパシーを抱く人こそが主人公、という風に聴いてもいいと思うのだ。
 それならば、主人公は女性でも男性でも、アルメニア人でもトルコ人でも日本人でも同じである。忸怩たる思いを、傷跡を隠しながら、つまり化粧というより“扮装”をしながら、日々平静を装って暮らしている幾多の人々。弱者の不幸の上に強者の幸福を築くことはできないと知っている幾多の人々が、実際に自殺を敢行しないまでも、心の中でそのイメージをくり返すことに、この曲の本懐はあるのではないだろうか。


謝辞
 文頭にも書いたとおり、リクエストを受けなければ、怠惰な僕がここに書いたような様々な考察にいたることはなかった。貴重なきっかけを与えてくれたおすかーさんに、くり返し感謝を述べさせていただきます。

付記
 ところで今さらな話だが、この曲を含むアルバム『毒性』発売直後に9.11のテロを目の当たりにしたメンバーたちの心境はどんなものだったろう?あの実行犯たちはまさしく「天使たちが死なねばならない世界」に猛然と逆らい、極めつけの「self righteous suicide」をやってのけたわけだ。
 と同時に、紛れもなくそれは「self righteous murder」である。あのテロが米国の自作自演だという説が根強くあるのは知っている。だが思うに、この際問題は、それがアルカーイダによるものだったか・CIAによるものだったかということではない。どちらにせよ「天使たち」には何の救いにもならなかった―どころか、ますます犠牲を積み上げる結果になった、ということが問題なのだ。結果の罪深さには何の違いもない。それはしょせん、テロ組織も国家安全保障組織も、同じ思想の根を持っていることの証明でしかない。



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