SYSTEM OF A DOWN
「LOST IN HOLLYWOOD」考
  個別解説EXTRA−1
 by レイランダー・セグンド  2005.11.2

la civilisation faible
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 忘れもしない、三回目の時である、この曲を聴いていて、涙が止まらなくなったのは。久しぶりに「ロックを聴いてきて本当に良かった」と思ったのである。「ロックを聴いてきた俺は正しかった」とも。なんじゃそりゃ。でも本当だ。
 なぜ泣けてしまったのか。それは、本当に美しい歌だからである。だが「本当に美しい」とは(自分にとって)どういうことなのか。それをよくよく掘り下げてみるとこうなる、というのが以下の話である。


 歌の内容は、一見他愛のない話のように思える。どこか地方の町から来た純朴な少女が、ハリウッドに憧れ、夢をつかんだのも束の間、裏切られ、身を持ち崩していくといった、よくあるストーリー。それをまた彼女の理解者たる「元恋人の青年」の口から批判的に語らせる、というのもよくある手だったりする。「ロスト・イン・どこそこ」という題名は元々せつない喪失の物語につける定番みたいなところがあるが、ましてハリウッドという「虚像の街」のイメージはそういうテーマにうってつけである(そういや昔のレインボーの曲にもなかったっけ?)。

 と――しかし、そんな使い古されたメロドラマが、そのまんまこの歌の狙いだなんて信じるファンはそうそういないはずである。というのも、感動的なコーラス・メロディと、はっとするほどどぎつい、攻撃的な言葉との落差が説明できないからだ。
 このメロドラマはいわば「透かし絵」に過ぎない。その絵の向こうに拡がるより猥雑な、より冷酷な現実に対峙して「てめえらウジ虫ども」と言い放っているのは、曲中の人物ではない、生身のダロン・マラキアンなのである。
 唐突に飛び出すこの「All you maggots・・・」というフレーズを耳にして、粗暴な、思い上がった(あるいはヤケクソな)若い男をイメージするだけであるなら、その人はロックというものを全く理解していない。「maggots」はLAのチンピラや売春婦、ショー・ビジネスの業界人間など、いかにも「いかがわしい人々」を指しているだけではない。虚栄心に導かれてソドムの街に迷い込んだ「純朴な」少女も、彼女が身をやつす裏通りを、今うろうろ歩いている自分自身も、馬鹿野郎であり人間のクズなのだ。そういう実感がありながら、maggotsだのbitchesだの言う資格が自分にないことは百も承知で、「てめえら・・・!」と不遜な言葉をあえて繰り出すのが、ロックという音楽の、実は繊細さであり優しさなのだ。少なくとも僕が偏愛してきたのはそういうロックだ。
 嫌われること、非難されること、怖がられること馬鹿にされることを恐れずにロックがそれを歌うのは、想像力の欠陥を「ゴーマニズム」などという言葉で置き換えて開き直る態度とは縁もゆかりもない。それを歌うのは、罵倒する相手に食ってかかりながら、背中でその相手をかばいたいからである。なぜなら、自分もまた傷ついているから。文明を享受しつつ文明に傷つけられ、それ以上に文明の名において自分が誰かを傷つけていることを知っているからだ。その自覚があるからこそ、変革への意志もまたそこに生まれるのだ。
 「LOST IN HOLLYWOOD」は単なる嘆きや感傷の歌ではない。西海岸の落日の演歌ではない。「先進文明社会」の中でぼろきれのようにうち捨てられた人間が、ひざを立て、よろめきながら立ち上がろうとする瞬間に捧げられた歌――いつか訪れる「復活の日・予告編」ではないか。僕にはそんなふうに聴こえるのである。

 だが今一歩踏み込んで、その都市住民の没落を、復活を見届けるのは誰なのだろう?そんな人間が実在するのだろうか?
 くり返しになるが、リードを取るマラキアンは「All you maggots・・・」と呼びかけながらも、自分が問答無用の正義を体現しているなどと決して思っているわけではない。しかし、彼がそれを歌うとき、彼はそれを言う資格がある存在のことを実際に確信している。だからこそ、これだけ激しい言葉遣いを堂々と繰り出せるのである。僕が「ロックを聴いてきて良かった」と思える理由もそこにある。つまり、自分が正義を体現せずとも、正義がこの世界にあることを信頼することはできるのだ。正義なんてこの世にないのさ、とうそぶくのは構わない。手垢にまみれたそれが何の役に立つ?と疑念を抱くのももっともなことだ。だが、正義なくして生きてはいけない者達が本当にいるということは現実なのである。ロックは、最良のロックは、その現実を決して忘れない。 
 僕が背景画像に使った写真の少年たちは、その一つの例示のつもりである。あくまで「例示」に過ぎないけれど。
 この少年たちはメキシコのチアパス州に暮らすインディオ、すなわちサパティスタの村の子供だ。ハリウッドに象徴されるアメリカの栄華を維持するために踏みつけにされてきた、この先住民達が一斉蜂起してからもうすぐ12年目になる。戦いは途上であり、先進国の水準に照らして必要な豊かさを手にできたわけではない。それでも彼らは、我々がどんなに金を積んでも手に入れることのできない、人間の「尊厳」を奪還してみせた。元メキシコ領であり「天使達の街(Los Angeles)」という名を持つ都市の、その鏡の向こうには、困窮の中に生きる先住民達がいる。そんな彼らの子供たちのまなざし以上に、我らの没落と復活にとってふさわしい証人があるだろうか。
 いや、今こうして言葉でごちゃごちゃ説明してはいるけれど、実際僕がこの曲に涙した時、頭の中にあったのは子供の目のイメージだったのである(特にインディオの、というわけではないが)。それはマラキアンの歌声とともに、ほとんど直感的にというか、本能的に立ち現れたイメージだった。同時にそれは今までにも様々なロックの歌の中で、何度となく僕を揺さぶり、奮い立たせてくれた、ある種のパッションの背後に潜んでいたイメージでもあったのだ。

 そういうわけで――大げさかもしれないが、この曲は僕にとっては、ロックの最良の部分を代表する曲なのである。


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