Anger Is A Gift
―または“怒り”の考察

by レイランダー・セグンド Apr.2006

la civilisation faible
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 乞食*1というものを初めて見たのは、小学校の1、2年の時だったと思う。何かの映画を観に、母親と池袋に行った。その帰り際、駅ビルの壁にもたれて座っているその人を見た。
 かなりショックを受けた。マンガなどではよくあるキャラクターとして知っていたが、実物を見たのは初めてだったのである。おかげで観てきたばかりの映画の興奮に水をさされた。今でも何の映画だったか記憶があやふやなのだが、乞食のおっさんの姿はかなり鮮明に憶えている。
 わりと誰もが抱くような感情を、僕も抱いた。あの人かわいそうだ、という思い+自分は何もしてやれないんだという思いのミックスした、要するに“かなしみ”というものである。同時に、こういう現実が本当にあるんだという生々しい恐怖感・圧迫感のようなもの。そんな重いものを心にかかえる術を持たない子供にとって、唯一の解決策は「早く忘れること」だった。
 実際、子供の僕には他に夢中になることなど山ほどあったから、「早く忘れる」のはたやすかった。しかし長期的には、折りにふれ思い出すのは、映画ではなく乞食のいる光景の方である。その後しばらくは、都心の繁華街に行くたびに、キョロキョロ目で乞食を探す癖がついてしまったくらいだった。

 だが思春期を迎える頃には、そんな光景に対して“かなしみ”とは別の感情が心に育っていた。それは“怒り”である。
 なんであんな状態が放置されてるんだ。あのおっさんもおっさんで、何か他にやりようがないのか。それ以上に、なんだって誰もが知らぬふりして通り過ぎるんだ。なんだあの白々しい笑顔の群衆は──という、そんなことお前が怒ったってしょうがねえだろ、と言われるのがオチの“怒り”である。そんじゃお前はどうすりゃいいと思うんだ?と訊かれたら、んなことは知らねえよ・・・・と答えるしかない。
 別に自分が正義の側に立って、不正義は許せない、とか思ってるわけではない。自分が善だろうと悪だろうと、ムカつくものはムカつく、というだけである。現に目の前にあるものを、そこに無いかのごとく振舞う人たちの「かっこわるさ」が腹立たしい。自分もそういう「かっこわるさ」を共有していることを知っているので、なおさら腹立たしい。一方では、ホームレスに心を痛めるなんて貴方は心優しいんですね、正義感が強いんですね・・・・などとおだてに来る人間の顔を蹴り上げたくなる。一言で言えば、でたらめじゃねえか、ごまかしだらけじゃねえか、(自分も含めて)この世の中は!という思いである。
 それに対して、小さな子供のように、“かなしみ”の中に自分を折りたたむのではなく、恐怖感や圧迫感から逃れるために「忘れ」ようとするのでもなく、ひりひりするような現実認識で迎え撃つための“怒り”というものがある。それは反撃のための“怒り”である。そういう“怒り”を自分の中に育てることを(何のためかは知らないが)、身に着けつつあったのが思春期だった。
  美しい世界だ われわれが暮らすのは
  スイートでロマンチックな場所だ
  どこに行っても 美しい人たちばかり
  彼らの 思いやりを示すやり方を見るにつけ
  僕も思わず言いたくなる
  美しい世界  ああ
  なんて美しい世界だろう
  あなたたちにとっては、と
(DEVO「ビューティフル・ワールド」*2
 ちょうどその頃に、僕はロックを聴くようになった。友達の家で、キッスのレコードを聴かされたのが始まりだった。それは単純に、サウンドが好きになったのである。それまで良いとは思えなかったロックのひりひりするような騒音が、なぜか心地良くなってしまったのだ。
 だがそうした心地良さの発見とは別に、初めて「衝撃」というべきものを受けたのは、深夜ラジオでセックス・ピストルズの「アナーキー・イン・ザ・UK」を聴いた時である。
 その「衝撃」は複雑なものだった。が、あえて一口で説明するなら、こいつは今おれに何か言おうとしているという感触が押し寄せてきてビビッた、ということである。見知らぬ男がドアをドンドン叩きながら、何か聞きなれない言葉をこっちに向かってわめいている。ビビらないわけがないだろう。具体的に何を歌っているかなんてわからない。「あなーきい?ゆーけー?なんだそれ?」である。にも関わらず、こいつはおれに用があるんじゃないのかと感じてしまうのだ。
 それまで、歌というものがそういう風に聴こえたことなどなかった。学校で習った歌にしろ、歌謡曲にしろ、聴き始めたばかりのロック/ポップスにしろ。もちろん年齢が若過ぎて、歌に込められた想い・メッセージを汲み取れなかったということはある。実際長じるにつれ、(現在に至るまで)そうした歌の「意味」を再発見したことはたびたびである。だが「アナーキー・イン・ザ・UK」の場合、そうした聴き手の幼さをものともせず、心をダイレクトに揺さぶりつつ、生乾きの薪を急速に乾かし燃え上がらせるような威力があった。
 その薪こそ、まさに“怒り”の感情なのだ。僕にとって、そんな“怒り”に居場所を与えてくれたのがピストルズに始まるパンク・ロックだった。そういう“怒り”を持っていて、何も間違いではないんだと教えてくれたのが「アナーキー・イン・ザ・UK」だった。念のため言っておくが、これは児童心理学でいうところの「反抗期」とは何の関係もない話である。この感情が、大人になってからの現在の方がはるかに強く、研ぎ澄まされたものになっているという事実を抜きにしても。
 またもちろん、「棚にあったおやつを弟が食いやがった。ちくしょう!」*3というような、個人の恨みつらみに終始する怒りでもない。そういう怒りだって、似たような経験の持ち主なら共感できるだろう。だけど共感したところで、何がどうなるというのか。能天気な被害者意識と、無駄に情緒的な「スターとファンの絆」は、深まるのかもしれないが、だから何なんだ。僕にはエミネムという“私小説ラッパー”の歌詞に満ちている怒りというのは、もっぱらこの手のものだとしか思えない。怒る気持ちはわからないでもないが、なんでそれを自分が聴かねばならないのかがわからない。飲み屋で会社の愚痴をこぼす先輩に、嫌々付き合わされる後輩社員のような気分になってくる。
 僕がロックを通じて学ぶともなしに学んだ“怒り”は、単に共感をあて込んだ怒りなんかではない。共感から、自分たちの位置、自分たちの属する社会を暴くためだけでもない。その先に何かが始まることを、何かが開けていくことを展望する、そして何より「対決」と「連帯」を前提にした怒りである。

 前掲の「ビューティフル・ワールド」はDEVOの80年代の曲だが、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのカヴァーによっても知られる。原曲はミディアム・テンポのエレクトロ・ポップ。もちろんDEVOらしいひねりの利いたメロディーライン、皮肉を込めた歌い方である。だがレイジは、これをギター一本の伴奏によるど・シンプルなバラード・スタイルに、しかもマイナーコードにアレンジしてしまった。おそらくDEVOの熱心なファンが聴いても、(歌詞に注意を払わない限り)DEVOの曲だとは気がつかないだろう。
 だがそれほど外見が変わり果てていても、この曲の真髄とも言うべきメッセージは不動だ。「美しい世界だ/あなたたちにとっては/・・・俺にとってじゃない!」。これがちょっとした「違和感の表明」といった類のおふざけでないことは、DEVOというバンドのそもそものコンセプトをわきまえている人には自明である。彼らがこの曲に託すもの、そしてレイジが託すものは、まったく同じ一つの感情──目を射る逆光を、あえてまともに見据えようとする人の胸にたぎる“怒り”である。まさに“マシーンへの怒り”と名乗るバンドがカヴァーするのにふさわしい曲、だったとは言える。

 ザック・デ・ラ・ロッチャは既に1stアルバムの最終曲「フリーダム」の中で、こう宣言していた。Anger is a gift─怒りは天与のものである、と。
 天与ということなら、喜びだって悲しみだって、笑いだって嫉妬だって、“感情”なるものは(その根本の部分は)すべてもともと天与のものだ。しかし、なんのためにそれは天与であるのか。“怒り”を「天与」と言い切れるかどうかは、ひりひりするような現実認識を受け止める度量があるかどうかにかかっている。「フリーダム」の中でそれは、自由を勝ち取るために天与のもの、なのだ。
 自由を得るために天与であるものが、悪いものであるはずがない。“怒り”はポジティヴである。“怒り”こそ、希望の源である。きみはきみの“怒り”に学べ。なぜそれがきみの胸の中にあるかを学べ。
 僕にとって「フリーダム」は、十数年目にして出会った、第二「アナーキー・イン・ザ・UK」だった(正しくは「イン・ザ・LA」だが)。


*1 最近はひっくるめて「ホームレス」と呼ぶのが普通で、「乞食」「浮浪者」というのは好ましくない、差別用語に近いものかもしれない。しかし僕が子供の頃は「乞食」という呼び方が一般的だった。この項ではあえて「乞食」で通すことにする。
*2 原詩はこちら(DEVOオフィシャルサイトより)
*3  たとえばジミ・ヘンドリックスの「Hey Joe」は、寝取られ男が銃を持って「あの女ぶっ殺したる!」と息巻く、このタイプの怒りをモチーフにした一見わかりやすいクラシックのような曲である。だがそのわかりやすい怒りを、「ヘイ・ジョー、ばかなことはやめるんだ」と諭す友人の視点から語らせることによって、怒りよりもむしろ人間の悲哀を感じさせる。怒りの主の心情に共感しつつ、同時にはた目には愚劣なその構図に辟易し、無力感を抱きつつも、それらすべてを包み込む人としてのあたたかさ。ジミ・ヘンの曲全般にただようこの奇妙なあたたかさを、別名“ブルース”と呼ぶ。
 そんな“ブルース”と、個人の怒りの吐露(裏返しのナルシシズム、センチメンタリズム)に終始するロックやラップとを同じに聴くことなどできはしない。そんなものを「時代のヒーロー」として持ち上げる幼稚なメディアの根性こそ、怒りを向けるべき対象だろう。







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