random note 2
The Pop Group/Mark Stewart
不完全な注釈
2006.Mar.- レイランダー・セグンド         



マッドメン


 MADMENではなくMUDMEN。泥で作った仮面のこと。ニューギニア奥地の先住民が「シング・シング」と呼ばれる祭りの際に装着する。仮面は精霊=祖先の霊に扮するためのもの。かの地の占領者である英国人によって伝えられたため、この名で広まったらしい。『y』のジャケットに使われている写真は、おそらく有名な、パプア・ニューギニアのアサロ渓谷に住む部族のものではないかと思う。

 この地域の部族はまた、特異なカーゴ・カルト(積荷崇拝)によっても知られる。
「カーゴ・カルト:
メラネシアの広い地域にわたって、一九世紀後半から近年までみられた宗教運動。神や祖先たちが白人たちの文明製品を送り届けてくれ、自分たちに至福をもたらしてくれると期待する。」
(ヤフー辞書より)

 実際にはこんな単純な「迷信」めいた話ではない。急激な近代化にともなうアイデンティテイ再構築の試み、一種の「世直し」運動(日本で言えば幕末期の「ええじゃないか」とかに近い)という説もある。特にメラネシア人の世界観、物事を理解する方法の独特さに絡む話として、北九州大教授・竹川大介氏の考察「全的理解と積荷信仰」が個人的には興味深い。

 一筋縄でいかないのは、諸星大二郎の名作『マッドメン』も同じだ。
 『マッドメン』で描かれるのは、「文明か自然か」とか「文明か伝統か」というような二項対立ではない。またそれらの単なる見せかけの「融合」でもない。
 物語は現代が舞台でありながら、ニューギニアの神話(それは日本の国生み神話ともつながる)を軸に展開する。森の守護者にして人間の生みの親である“大いなる仮面”は「伝統」である。“大いなる仮面”にそむき、人間に知恵を吹き込んで操ろうとする悪霊“アエン”は「文明」である。
 だが主人公の少年コドワは、その対立の最前線で戦い、引き裂かれる故郷を見ながら、その両者と決別し、第三の道を進むことを告げる。
「先祖の二の舞はごめんだ!おれの神話は自分で作る!」
 コドワは異母妹である日本人少女ナミコとともに、森の奥へ消えて行く。森に引きこもって、孤立して暮らすためではない。新しい人間を、新しい文明を作るためにである・・・少なくとも僕はそう読む。

 ところで、悪霊“アエン”がコドワと戦いながら吐くセリフにも注目したい。
「やつ(=“大いなる仮面”)は お前たち人間を 愚かなまま森にとじこめておこうとする!/お前たちに火を与え 知恵をつけてやったのは このわしだぞ!/人間にカーゴを与え 暮らしを豊かにしてやるのは このアエンなのだ!」
 その“アエン”の仮面が、めぐりめぐって日本の石油企業の社長室にたどり着く…。それはともかく、“アエン”の役割は、実はギリシア神話の「プロメテウス」と重なるところが大きい。
 












Thief Of Fire 〜プロメテウス


 プロメテウスはティタン(巨人)神の一人。
ある日プロメテウスが人間界を見下ろすと、人間は無知と暗闇の中にいた。そこで、全能の神ゼウスの所へ行った。ゼウスは「無知というのは、罪を知らないということだ。人間たちは、誰かが不幸だと教えない限り、ずっと幸福でいられる」と言った。
 だがプロメテウスは、その後もしばしば神々と人間とのあいだに立って人間の肩を持ったので,神々の怨みを買った。プロメテウスはゼウスが人間から火を奪ったことについても掛け合った。ゼウスは「もし人間に火など持たせたら、人間は神同様、強力な存在となろうとし、オリュンポスを荒らしにやってくるだろう」と答えた。だがプロメテウスは納得できず、翌朝、日の出の火を少し盗み、人間に与えた。
 ゼウスは怒り、報復に美女パンドラを差し向けた。プロメテウスは彼女と結婚したが、彼女が持参した壺から、ありとあらゆるわざわいの種が人間界に拡散した。さらにプロメテウスはコーカサスの山の岩に鎖でつながれ、鷲に腹を引き裂かれ、肝臓をついばまれる、という刑に処された。
 プロメテウスは不死の体だから、一度腹を裂かれても、すぐにもとに戻る。死ぬこともできず、永遠に続く刑なのであった。
(ギリシャ神話解説より引用・抜粋)



資本主義


 資本主義とは、救済なき宗教である −ヴァルター・ベンヤミン


 『チョムスキー、世界を語る』(田桐正彦訳、トランスビュー)より

「企業というものは全体主義的な組織です。現代の多国籍企業は、組織の方が個人よりも上に立つという原理につらぬかれています[…]ボルシェヴェキによる共産主義体制とファシズム、それらの根底にあるのも、同じ原理なのです。これら三つはいずれも、個人に不可侵の権利を認めた古典的リベラリズムと根本的に対立する、ひとつの観念から発しています。
 多国籍企業は大きな権力を手にして、私たちの生活の経済的な面、社会的な面、政治的な面で支配的な役割を演じています。この20年間、国家の政策は民主主義を犠牲にして、この多国籍企業の権力を強化することに努めてきました。これがいわゆるネオ・リベラリズムなるもの、すなわち国民から民間企業への権力の移動です。」(P46-47)

「そもそも、資本主義なんてどこにもありはしません。すくなくとも、純粋な市場経済という意味での資本主義は、存在しません。私たちが現に向かい合っているのは、一方に[民間企業の]リスクや諸経費を引き受けてくれる巨大な公共部門、他方に全体主義的な組織に牛耳られている巨大な民間産業、このふたつに引き裂かれた経済活動以外の何物でもありません。これは資本主義というようなものではありません。」(P77)




















ブレアー・ピーチ、ケヴィン・ゲイトリー、ジミー・ケリー


 「Justice」の中に登場する3人の人名は、インターネットの検索というものが存在しない時代なら、外国人である我々にはまず発見することができないようなローカルな人物のもの。中でブレアー・ピーチは、その殺害事件によって、まだしも知られた人物である。

 ニュージーランド生まれのピーチ(写真左)は、養護学校の教師で、全国教員組合の東ロンドン地区の議長を務めていたこともあった。彼はまた社会主義労働者党(SWP)の党員であり、アンチ・ナチ同盟(ANL)に属し、人種差別撤廃を目指すさまざまな運動に参加していた。
 70年代の英国は、長引く不況の中で移民問題が浮上し、排外主義の空気が強まっていた。右翼はネオ・ナチ組織のナショナル・フロント(NF)を筆頭に、強き大英帝国を取り戻すために移民どもを追っ払え、と主張。保守系の新聞もこぞってこれに同調し、NFと衝突した左派の“過激派”に対して、国が訴訟を起こすべきだと言い出す始末だった。
 しかしそんな状況に危機感を抱いた国民は、ANLらの反人種主義、反ファシズム運動の共同戦線に結集し、最大50万人のデモを敢行。これは英国史上最大の大衆運動の一つとなった。
 1979年、移民の町として知られるロンドン西部のサウソールで、NFは選挙キャンペーンを展開した。地元の移民組織はこれに対抗し、ANLらと抗議集会を開催した。2700人におよぶ警察官が動員されたが、抗議者たちを守るためではなく、NFを守るためだった。悪名高い警察のSPG(Special Patrol Group)が抗議者たちに襲いかかり、混乱の最中、ブレアー・ピーチは頭を殴打され、死亡した。彼の他にも多数の負傷者が出た。
 死因審問裁判では、ピーチの死は「不運な事故による死」であるとの評決が下り、当の警官は罰を免れた。ピーチのガールフレンドは、公的な再調査を要求し続けている。
 事件後に迎えた選挙で、NFは完膚なきまでに大敗し、以後現在に至るまで立ち直れていないようだ。

 ピーチの教え子だった生徒が、彼の死後に寄せたコメントがある。
「彼は、変わった先生だった。生徒に対する関心を、教室内に限定することなく、生徒の家庭にも広げ、家を訪問してはアドバイスしたり、実際に役立つような援助もできるかぎりしていた。彼がそうしたのは、子どもたちがシステムによって押さえつけられない、自由な考え方のできる大人になってほしいと願っていたからだ。」
 後にサウソールの学校は、ピーチに敬意を表して「ブレアー・ピーチ・スクール」と改名したという。
 この時期の出来事を総括した『When We Touched The Sky』という本(左カバー写真)が、今年5月にイギリスで出版された。その概要を紹介するサイトがある。photo galleryをめくっていくと、ピーチ殺害事件に至るあらすじが写真とともに読める。ぜひ日本でも翻訳してほしい本だ。
 その他、ANLのWebサイトのブレアー・ピーチに関するページ、Wikipediaの該当ページなどを頼りに、この文章は作成した。

 あとの2人については、際立った活動歴があるわけでもない、ごく無名の若者である。
 ケヴィン・ゲイトリーはウォリック大学の学生。1974年、ロンドンのウエスト・エンドでNFの示威行進が行われた。その到達地であるレッド・ライオン・スクエアで、The London Area Council for Liberationらの対抗デモの群集と衝突。その混乱の中でゲイトリーが何者かによって殺された。詳細は不明。
 ジミー・ケリーはリヴァプールで活動していたパンク・バンド“Social Rejects”のシンパだった。これは同市最大の「パンク・ギャング」の一団で、ライヴはしばしば警察の介入を受けていたようだ。ケリーはそんな10代の若者の一人というに過ぎなかったが、1980年のある夜、パブから出たところを逮捕され、地元の警察署内に拘置中、死亡した。
 いまだ死因は謎らしい。



“黒い英国”


 ブレアー・ピーチの事件の舞台になったサウソール(Southall)、同じロンドンでも南部のブリクストン(Brixton)、バーミンガム郊外のハンズワース(Handsworth)など、70年代から80年代初頭にかけて大規模な暴動が起きたのは、移民が集中する街であることが多かった。アフリカ系、カリブ系の黒人、さらにはインドなど南アジアの有色人種が住むこれらの地域は「Black Britain(黒い英国)」と呼ばれ、現在に至っている。
 White Britainはパンク・ムーヴメントを生んだが、それに先立ってソウルやファンクなど、ブラック・ミュージックの社会底辺への流入が始まっていた。レゲエやスカも、すでに60年代から英国内に一定のファン層をもっていた。ただし、プア・ホワイトの子どもたちに決定的な影響を与えたのは、政治的に覚醒したボブ・マーリィ以降のレゲエだろう。マーリィの英国公演は77年だが、サウンドシステム(DJスタイルでレコードを「演奏」する空間)はそれより前に、ロンドン在住のジャマイカ人によってすでに根を下ろしていた。黒人だらけのこの空間の、ごくごくわずかな白人の客の中に、少年だったクラッシュのジョー・ストラマーやピストルズのJ・ロットンがいた。彼らはその後、ホワイト・ビートの革新、ロンドン・パンクの先鞭をつけた。
 やがてアスワド、ブラック・ウフル、スティール・パルスなど、急進的なレゲエ・バンドが現れる。彼らは移民第二世代のバンドとして、パンクスたちと精神的に共同戦線を張るようなところがあった。いわばパンク・ムーヴメントに対する、Black Britainからの応答だった。そしてこの流れの中から、さらに白人側からの回答として、ザ・ポップ・グループが(ややミュータント的に)生まれた。

 文化とは河のようなものだと思う。いくつもの支流が合流して大河となり、そこからまた枝分かれしていったり、さらに大きな海に流れ込んだりする。日本同様に「島国根性」と叩かれることの多いイギリスですら、こうなのである。
 文化とは、混ざり合うことに本質がある、と言ってすらいいと思う。“純粋培養”の文化など、国粋主義者の幻想の中にしか存在しない。というか、「国粋主義」自体が幻想なのかもしれない。



















Speaking the unspeakable


「「ストーリー」をもたず、「コンテクスト」(前後関係、脈絡)をもたず、「時間系列」(始まり、途中、終わり)をもたず、「切れ切れ」で、「凝固」しており、「物語」(narrative)にならない、「ことばを持たない凍りついた記憶」。このようなトラウマ記憶こそ、歴史において「物語りえぬもの」の典型であろう。史上未曾有のスケールで戦争、虐殺、植民地支配などを経験した20世紀の「歴史の肉体」には、人類の膨大なトラウマ記憶が刻印されたはずである。ところが、実証的歴史科学とヘーゲル的歴史哲学との二極分解の彼方で「歴史の肉体性と生動性」を回復するという「物語の哲学」は、この膨大なトラウマ記憶の層を「歴史の肉体」から排除してしまう。なぜなら、「物語りえぬことについては沈黙せねばならない」のだから。」
(高橋哲哉『歴史/修正主義』P70より)

「[・・・・]私としてはこう言いたい。「物語りえぬもの」についても、沈黙する必要などない。「物語」に達しないつぶやきも、叫びも、ざわめきも、その他のさまざまな声も、沈黙さえもが「歴史の肉体」の一部である。(ジュディス・)ハーマンも言うように、「語りえぬものを語ることの力」(the power of speaking the unspeakable)というものがある。「忘却の政治」に抗して「物語りえぬもの」を語ろうとする試みを、理解し、励まし、援助する努力をしたい。」
(同、P73,74より)


 ザ・ポップ・グループ「Words Disobey Me」からスチュアートの一連のソロ作品にいたるまで、その「切り刻まれた言葉」、音程の外れた声、聞き取り不能の絶叫に接する時、僕らが当惑しながらも感じ取っている得体の知れない「共有感」について書かれたのが上の文章である、と言っても大方差し支えないはずだ。僕らが共有しているのは「歴史の肉体」である。




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