random note 3
The Pop Group/Mark Stewart
世界で一つだけの“声”


2006.May/June. レイランダー・セグンド



さまよえる英国人


 日本人ばなれした、という言葉があるならば、逆に「西洋人ばなれした」という表現もありえる。僕からすると、マーク・スチュアートという人はまさにその西洋人ばなれした(より正しくは英国人ばなれした)人の一人である。
 黒人音楽への傾倒などの話を言っているのではない。確かにアメリカならまだしも、イギリスでそうした趣味を年端の行かない頃から持っていた白人というのは、ちょっとは珍しいかもしれない。ただそれは、“早熟”という概念でも説明がつくような話である。
 スチュアートの場合際立っているのは、そうした異文化・異民族への広範な関心の度合い以前に、西洋人としてのアイデンティティに対する冷酷なまでの懐疑、そして訣別の意識である。
 セックス・ピストルズに始まる英国パンクは、かつてないドライな「自己否定」を社会に対して誇示して見せた。その態度は、間違いなく若きスチュアートも受け継いでいる。「自己否定」している自己をいつくしむでもなく、「自虐」している自分に酔うでもない。そうしたウエットな感情抜きに、ただあっさり訣別できるのだ。
 かといって、彼の作品やパフォーマンスがひたすらに冷徹で無機質なものを志向しているかといえば、全く違う。ザ・ポップ・グループからソロ時代を通じて、一貫して彼の音楽には激しい感情があふれている。クールな訣別の意識と、制御しきれないほどの激情。裏腹なもの同士が同居し、火花を散らす。オアシスなど、一頃の「クール・ブリタニカ」の表現とは対極にあると言ってもいい(だからイギリス本国ではほとんど“無視”に近い扱いを受けている)。

 とにもかくにも、訣別は決定的である。ただその結果、彼は別の人種(race)、別の民族(nation)に同化するわけではない。あるいは「コスモポリタン」としての自己を実現しているかと言えば、そうでもない。彼はただ、“さまよえる英国人”のごとくさまようだけだ。
   だが銃弾は海をつらぬきはしない
   ・・・・荒れ狂う海に俺たちは身を隠そう
   それが俺と君にできるただ一つのこと
   英雄はいつも なぜ戦って死なねばならないのか
   ヴァイオリンを持て
   俺たちは亡命者だ
「Savage Sea」        
 弱冠16歳のスチュアートがこの詩を書いてから現在にいたるまで、さまようことは彼にとって自然であり、何ら不都合を訴えるいわれはなかった。彼にとって大事なことは、彼がアーチストであり、労働者であり、レジスタンスであり、アクティヴィストであり、探求者であり、解体者であり、対抗運動の一部であることであって、西洋人であることではない。「西洋」というアイデンティティは、ただ彼がなぎ倒すためにそこにある。
 そういうことをあっさり具現化しているのが、彼の「西洋人ばなれした」ところだと僕は思う。

 しかし一方では、特にソロ以降の、西洋文明の産業廃棄物をコラージュして作り上げたような作品群は、英国人ならではの鬼気迫る構成力と鋭敏さに裏打ちされている。ダンサンブルでありながら、気が遠くなるほど緻密。これらはエイドリアン・シャーウッドという、まさに“英国職人”とのコラボレートによるものだが、その緻密さは決して魔術めいて聴こえない、どこまでも日常を引きずり続ける意志に貫かれている。スチュアート自身はそんな効果を狙ったつもりはないのかもしれないが、僕にはそれが彼の英国人としてのベタな部分の為せるわざ、という気がする。
 彼には結局、下町のパブでドラフト・ビールをあおりながらクダを巻いているような、ベタに英国的なところがいつまでもこびりついている。実は彼のそういうところも、僕は好きなのである。



Black Letter Lies


 ヴォーカリストとしてのマーク・スチュアートには、はっきりした特徴がある。必ず音程を外して歌うという特徴である。このことが全く論じられていないようなら、世の中というものは僕には全く解せない。
 デヴュー当初、これはパンク/ニューウェーヴに通底するアマチュアリズムの具現化だ、みたいに受け取られることが多かったと思う。要するにヘタウマというか、ヘタでもインパクト優先の歌い方、という解釈である。
 しかし彼は齢40を越えた最近にいたるまで、この歌い方を全く変えていない。どころか、ますます上手に音を外している。最初からルート音やメロディーを想定しないラップなどの発想とは違う。本来あるはずのメロディーラインすれすれにダイナミックに声が上下するのだ。まるで磁石の同極同士が近づく度に反発し合い、決して触れ合わないように。
 これはやろうと思ってもなかなかできることではない。単なる「音痴」には、真似ができない。持って生まれた感性+意図的な研鑽のたまものである。

 ここで僕らが聴いているのは、本来あった歌の壊れた残骸だろうか。それとも、永遠に完成されることを拒否する、未完成の歌なのだろうか。
 どちらであれ、まずスチュアートの探し求める“言葉”がそこにこそある、はずではないだろうか。
   言葉になる前の言葉を話せ
   幼児の最初の言葉を話せ・・・・
「Words Disobey Me」         
 思い通りにならない“言葉”に彼は苛立つ。自分の“言葉”に納得できない。同じ曲の中の「Truth is a feeling / But It's not a sound」というくだりは、なんだかブルース・リーの「Don't think!FEEEEL!」という映画のセリフを彷彿とさせる。
 言葉なんかいらない、と彼は言う。言葉が自分に逆らっている、と彼は言う。しかし、一体どの“言葉”が?
 これは単なる形而上の問答なんかではない。幸いなことに、“声”は実在するからである。彼は“声”をもって言葉に挑戦しているのだ。
 「We Are Time」の中でも同じ挑戦がくり返される。言葉を殺せ。ブラック・レター(新聞活字)は嘘をつく。あんたたちの世界はその嘘の上に成り立っている、と。それを伝える彼だって、彼の“言葉”を駆使している。ただ彼の“言葉”は、“声”が本来の位置から外れることの中にしか存在しない。それが彼の伝える「feeling」だ。

 このことはソロ以降の、サイバー・ファンク化した作品の文脈の中で、いよいよはっきりしている。普通に言われるところの「ヴォーカル」は、彼の“言葉”の一部であって、すべてではない。幼児のような絶叫や、不安定なファルセット、地底からのうなり声、黒人のラップや英国国教会の賛美歌、ザ・ポップ・グループ時代の自身のヴォーカル・トラック、「止まれ!ここは軍事統制地域である!」という拡声器のアナウンス、・・・・すべては一部であってすべてではない。ここで醸し出されるすべての「feeling」が、彼の選び取った“声”なのである。




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