☆音楽と政治にまつわるスタンスの考察

2006.9.17 レイランダー・セグンド


 ネットをやり始めたばかりの頃、ネット・サーフィン中に、あるミュージシャンの関連サイトにたまたま行き当たったことがある。そこでは、コメント記入形式のアンケートが行なわれているところだった。
 アンケートのテーマは「音楽で政治を扱うのは是か非か」。そのイギリスの若いミュージシャン(僕の全然知らない人だった)が、そういう問題を積極的に歌にする人だからこそ生まれた企画のようだった。
 僕はこんな風に意見を書き込んだと記憶している──是非もクソも、言論の自由というものがある以上、誰が何をどう歌おうと人の勝手だろう。それが「政治的」かどうかなんてどうでもいい。要は作品として面白いか、聴いた人が感銘を受ける出来になっているかどうかだ。正しいか正しくないかという判断の出る幕ではない。このアンケートは問題の立て方がナンセンスではないか、云々。
 しかし案の定、僕のこのような考えは、それに近いものも含めて、圧倒的に少数意見だった。案の定、というのは、過去に何度も似たような違和感・孤立感を味わった経験があったからで、インターネット上では初めてだったというに過ぎないからである。
 そのアンケートでの他の人達の書き込みをざっと読むと、「正しい派」と「正しくない派」がほぼ拮抗していた。といっても、双方が述べていることはひたすら「自分はそういうのが結構好き」「自分は嫌い」という「好き・嫌い」の表明合戦に過ぎず、見た目の「言葉の熱さ」とは裏腹に、読んでいて本当の意味でエキサイティングなところは皆無だった。
 それは、要するにそういうことを言い合って楽しむというだけの企画だった、のかもしれない。にしても、──それでみんな満足なのか?それが世の「ロック・ファン」の多数を占める感覚だというのか?そんな思いが、脱力感とともに、ふつふつと湧き上がるのを抑えられなかった。

 僕にしてみれば、ロックという音楽が「政治を扱う」ことなど、ビートルズ以来当たり前の伝統でしかない。正直、「ロックで政治を学んだ」と言ってもいいくらいだ。また政治云々以前に、「何を歌ってもいいからこそロックじゃんか」と言いたいところもある。もちろんそれは、人によっては「フォーク」でもそうだろうし、そもそも芸術・芸能の「表現」全般に渡って言えることだろう。
 僕の違和感の原因の半分は、確かにそれだ。ただ、ここでは僕にとっての「ロックとは何か」を論じようというのではない。あるいは、政治的なことを歌うのが知的だとか、高級なアーチストの条件だとか言いたいわけでもない(現状の「訳詞と考察」のページから、そんな誤解をされることが多いのではないかと、いつも不安なのだが・・・・)。ましてや「政治」というのが、背広を着た面の皮の厚いジジイどもの脂ギッシュな権力抗争を指すだけなら、僕だってはなっからそんなものに興味はない。
 そんな僕でも、自分の生活のあらゆるレベルで「政治」が切り離せないものであること、何より僕自身が「政治」の主体であることは、避けようもなく知っている。それに対して上のアンケートの問題の立て方は、踏み込んで言えば、人間の社会生活を「政治」と「非政治」の2つにスパッと分けられるという、よく言って錯覚、悪く言えば欺瞞を前提にしたものなのである。
 僕の違和感の原因のもう片方は、実はそれなのだ。なぜなら、僕がロックから学んだ「政治」とは、まさにそのように分けることができないものとしての「政治」なのだから。

 昔も今も、インタヴューなどで「自分は歌に政治的な事柄は持ち込まない」というポリシーを表明するミュージシャンがいる。
 僕はそれ自体を否定はしない。そういうポリシーは、それとして認められるべきだと思う。
 ただし、「政治については歌わない」ことイコール「非政治的な態度」である、という考えは承服できない。「政治について歌わない」という態度をとることは、それ自体一つの政治的な態度表明である。いや、「政治について歌わない」という選択をあえて(絶対に「あえて」である)した時点で、すでに一つの政治的判断を為したことになるはずなのだ。
 そこまで自覚した上で、あえて自分はそれを歌に持ち込まない、というミュージシャンの仕事には(無自覚に“政治”を取り上げるだけで何かと戦っているような気分になっている者よりも)、一本筋が通っているものだ。対して、「そういうことはうっとおしいから/よくわからんから」というノリで済ませているミュージシャン、まして自分が政治的な問題を受け止める度量がない、表現する技量がないことを「歌に政治を持ち込むな」という皮相なスローガンで隠蔽し・正当化しているようなミュージシャンの仕事は、おおむね子供騙しである。海外のアーチストもそうだが、僕にはJ-POP/J-ROCKの大部分はそんな子供騙しに聴こえる。聴くのはどうせコドモだからいい、ということだろうか。日本の場合特に、それらは音楽業界というより、レジャー産業の一部であるかのようにも見える。

 かつてマーク・スチュアートが来日した時、あるインタヴュアーが「自分を政治的な人間だと思うか?」と質問した。それに対してスチュアートは、「すべてはポリティカル(政治的)だよ。どんな人間もポリティカルなんだ」と答えた。
 僕はこれに完全に同意する。我々の日常のあらゆる局面に政治の影が(見ようと思えば)見える、という意味だけではない。我々が社会を形成し、そこで生活を営むということ自体、すでにポリティカルなのである。スチュアートの歌詞が「政治的」だとしても、それは彼にとって「ポリシー」という以前の自然な感覚の発露であり、その感覚の由来を彼は自覚しているというだけのことだ。
 同じく、こんな話を聞いたことがある。レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのメンバーは、あなた達は「ラヴソング」を歌わないんですね・・・と記者から言われ、そんなことはない、僕らの曲は全部この世界に対するラヴソングだ、と答えたという。ファンには自明のことだとは思うが、まさにレイジの曲は全編を通じて人間への怒りと愛に貫かれた、熾烈なラヴソング群である。メンバーは単なる言葉のあやとして「ラヴソング」と言ったのではない。彼らは、みずからの本質を言い当てたのである。
 言葉のあや、と言えば、70年代に「銃をとれ!」などの過激な曲で日本のロック史に重大な足跡を残した頭脳警察というバンドがあった。その中心人物であるPANTAが、「君たちは革命のための音楽をやっているつもりかね?」という識者からの当てこすりめいた質問に対し、「いや、むしろ音楽の革命をやっているつもりだ」と答えたという、その筋では有名なエピソードがある。これもまた、言葉のあやに類する話などでないことは明白だと思う。「音楽の革命」は頭脳警察というバンドの理想的本質、というより、ロックという音楽の理想的本質(─そして現実!)に他ならないからである。

 一方では、自分の仕事と政治との関連を指摘されると、「これは単なるアートだよ」などと言ってクールにかわしたつもりでいる“アーチスト”の類は後を絶たない。しかし、「アート」でしかないものは「アート」ですらない(©山口泉)。そして「アート」ですらないものを「アート」としてマスに向かって発信する時ですら、それが世界に与える政治的効果──非政治ではない──についての責任は生じる。まして本物のアートを発信する者は、当然この責任を自覚している。自覚があればこそ、アートとしての質が保たれている。
 そんな風に、責任を自覚できるのが大人のアーチストだと僕は思う。当ページではこれからも、そうした大人のアーチストの仕事を掘り下げていきたい。


1993年来日時の、小野島大氏によるインタヴューを参照。
http://onojima.txt-nifty.com/articles/2004/11/mark_stewart_1.html


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