☆YouTube についての考察

2007.5.30 レイランダー・セグンド


*以下の考察は、YouTubeを代表的なものとして取り上げながらも、実際にはその他の投稿動画サイト(例えばGoogle Video)にも当てはまる論旨になっている。一般にYouTubeの利便性として挙げられるタグ機能や埋め込み機能などの"お手軽さ”について、あるいは問題点として指摘される違法コンテンツの存在、著作権の問題などについて、包括的に論じているわけでは全然ない。あくまで、アップロードされうる音楽ファイルの豊富さから垣間見た、ある可能性についての僕の関心を論じたようなものであることを、最初に断っておきたい。


 ヴァーチャル・タイム・マシーン

 僕はもともと、いわゆるコレクターズ・アイテムの類には心が動かない人間だ。アーティストが承認している正規の作品と、ライヴを直に体験することの他に、基本的に必要な情報は何もないという、古典的な立場を今も昔もとっている(第一、そんなアイテムに金を使う余裕もないし)。
 ただ、昔に比べれば、作品の「正規」「非正規」の境界は意味を為さなくなっているのかもしれない、という気もしている。アーティストは自分らに関わる情報を出し惜しみすることなく出し、必要なものをリスナーが主体的にチョイスし、再構成すればいい、という考えが一般化しつつあるのかも知れないし、それでいいのかも知れない。
 YouTubeの出現というのは、そうした「再構成」文化を後押しする一つの象徴のようにも感じる。

 しかしまた、僕、あるいは僕と同年代以上のロック・ファンにとってのYouTubeのありがたみとは、その「再構成」の材料がとことん限られていた時代に手に入れるはずだった、その材料をついに手に入れることが可能になった、というところにもある。
 60〜70年代のロックの場合など、昔なら都心の輸入レコード専門店などに出向いて、やたら値の張る海賊ビデオ(15分で3500円、とか・・・ほとんどサギ)を買うか、あるいはロック喫茶(ふる〜)のようなところでやっているアングラなフィルム上映会に足を運んで観るしかなかったような映像。さらには海賊盤すら存在しない、「えっ、そんな映像あったの!?」というようなもの──放送局の資料室の奥に眠っていたようなものとか、むかーし現地のTV局で放映した映像を、8ミリビデオ(ピンと来ない若い人もいるかもしれないが、ビデオデッキなんて一般家庭にはなかった!)で撮影した奇特な人が所蔵していたものとか、ありとあらゆるレアな映像が、PCの前に座ってキーを叩くだけで観れる。しかもタダで!
 確かに画質・音質は良くないが、それはPCの解像度とか閲覧ソフトの性能とかの問題以前に、元の素材がすでに悪いのだからあきらめがつく。ネット回線のスピードの問題で、サクサクダウンロードできないこともあるが、それも技術的な瑣末な問題に過ぎない。
 なにしろ僕の場合、作品を「鑑賞」したくてそういった素材を探しているのではないのだ。その時代に、どんなアーティストがどんな表情をもってマス社会に向き合っていたのか、その現場の雰囲気を部分的にでも追体験できればいい。いや、その追体験がじゃんじゃんできる、というのが既に画期的なことなのだ。

 当たり前だが、ロックは基本的に英米の文化だ。英米の人間が、日常の目線で見ていたロックの“現場”を、日本のロック少年・少女たちは地球の反対側で、雑誌の記事や、音楽ビデオの一部を通して、あるいは来日公演の場において、その“片鱗”を見るのがせいぜいだった。特に60〜70年代のロック草創期の映像など、ほとんど現在ではなく「歴史」に属するような事象として向き合うしかなかった。1枚のステージ写真から、そのアーティストが動く様を想像して楽しんだりしていたのである。
 そういった古い素材を、あたかも当時の英米の若者が見ていたように、日常の一部のような視点で見直すことができるというのは、僕にとってはほとんどDreamComesTrueな出来事なのである。大げさに言えばタイムマシンか、どらえもんの「どこでもドア」みたいなものである(あくまでヴァーチャルで、だが)。もちろん、それ以前にPCとかインターネットという技術が、すでに「お宝発掘・入手」の可能性をけた違いに押し広げた、DreamComesTrueな道具だということもあるが。

 それでも人間は現金なもので、そうしたお宝がいつでも観れるという環境に慣れると、それが当たり前になってしまい、ありがたみが薄れていく。「観れる」のはわかったからよー、もっと面白いのはねーのかよ?もっとレアなのは?もっと画質がいいのは?──と欲求がエスカレートしていく。作品から作品へ渡り歩いて、映像素材をただひたすら「消費」していく発想の元での、こうした欲求は不毛もいいところだろう。


  「どこでもドア」のもう一つの使い道

 音楽映像でも何でもそうなのだが、投稿メディアのもう一つの可能性は、「現在」を形作っていく作り手の一つになることだろう。古い素材を掘り起こして提示するのも立派に有用な機能である一方で、素材を発信することにより、ある場所とある場所の「現在」をすり合わせる、可能な限り時間と空間のラグをなくす、という方向の使い方がある。
 先日、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンが7年ぶりの再結成ライヴをカリフォルニアで行なった。そのオーディエンス・ショットによる映像は、早くも翌日にはYouTubeに続々と投稿された。それも1人の撮影者によるものではなく、複数のファンが、複数の撮影地点から、それぞれ撮影したものを送ってくれた。同じ曲でも、見え方、聞こえ方の異なるヴァージョンを体験することによって、現場にいなかった世界中のファンも、現場の臨場感を多角的に味わうことができた。もちろん、本当に現場にいれば、また違ったものが見えてくるのは言うまでもないのだが、要は、TVニュースのような一つの視点からの報道ではない、「あらかじめ多極的な様相」というのが、さしたる時間差もなく、オンラインでつながっている全世界であっさり体験できた、ということなのだ。
 この2、3日後には、プロが撮った映像もアップされた。さすがにプロ・ショットだけあって複数のカメラ・ワークを駆使した映像は安定し、画質も音質もいい。だが、現場の臨場感という面では、オーディエンス・ショットには及ばない。実際カチッとした「商品」としては、プロの撮った方をたいていの人が選ぶだろう。お金を払ってモノを買うとしたら、という尺度がそこにはあるからだ。だが、現場を共有するという尺度においては、その「商品」が切り捨ててしまった部分こそがオイシイのだ。なぜなら、そこにこそ「現在」が息づいているのだから。

 こんな風に、かつては時間的にも空間的にもあった“現場”との隔たりが、素人の有志の自発的な行為によって、限りなくゼロになりつつある。もうちょっと別の言い方をすれば、かつては「こちらの現在」と「向こうの現在」に分けられていた、それがようやく「一つの現在」になりつつあるという、その意味において、やはり一種の「どこでもドア」ではないか。
 たとえばテレビ放映のためのミュージシャンのプロモーション・ビデオは、それこそネットの投稿動画以上に見た目の均質な映像作品を、海外で放映されたものを日本で、あるいはやろうと思えば日本とアメリカで同時刻に「同時初公開」だってできるだろう。だが僕は、そういった単一方向からの、時刻だけの「現在」ではない、現場を共有するダイナミズムという意味での、伸縮性のある「現在」が、YouTubeによって現出しているように感じるのだ(もちろん、現場に足を運んで実際に体験することは──体験の質の優劣ということは持ち出さなくても──それ自体重要であることは永遠に変わらないだろうが)。
 そしてこれは同時に、何でもアーティスト任せにするのでなく、リスナーが素材を自ら発見し、「現在」として再構成していく、そんな時代を迎えたことを意味するのではないかと思う。
   YouTubeでは、一般のリスナーが、自らお気に入りの曲をフィーチャーしたビデオ作品(言ってみれば手作りPV)をアップしていることがよくある。それがそのアーティストのオリジナルのPVやライヴ映像などと同列で並んでいるのだが、それは実に正当なことだと僕は感じる。その中のいくつかは、時に当のアーティスト側が制作したビデオなんかより、はるかに素晴らしく、感動的だったりするのだ。

 企業体としてのYouTubeが今後どうなっていこうと、ここで利用者が培った「現在」を共有する感覚とノウハウは、必ずいい方向に発展すると思うし、そうでなければならない。でなければ、絵のインパクトに頼ったヘイト・キャンペーンの巣窟と化すか、目端の利く権力者たちに乗っ取られて、「1984」化を加速するプロパガンダ・アイテムに成り下がるか。結局は、僕らの目と耳が試されている。



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