☆レディオヘッド「Nude」が提示するもの

2010.6.09 レイランダー・セグンド



 この原稿を書いている時点ではもう3年もの月日が早々と過ぎてしまったが、2007年に発表された レディオヘッドの『イン・レインボウズ』。大手のレコード会社を介さず、インターネットでダウンロードしたリスナーが各々で値段を決めて振り込む(事実上タダでもいい)という、自主採算方式を採ったことでも話題になったこの作品は、欧米のみならず、日本の批評家の間でもすこぶる評判が良かった。
 しかしアルバム中最大の問題曲「Nude」について、いわゆる音楽畑の人々の掘り下げは、例によって足りなかった。そもそも、この曲を「問題」だと受け止めるセンサーが、多くの「洋楽ファン」の間で、共有されているとはほとんど言い難い。
 「最も進歩的なロックバンド」と形容されることの多いレディオヘッドだが、何をもって「進歩的」というのか、明らかにしている言説に出会うことはまずない。個人的には、ほとんど「専従」のような趣でレディオヘッドのライナーノートを担当しているSNOOZER・田中宗一郎氏の、上滑りすることのない、抑制された文章には好感を持っている。けれど、「Nude」の一曲に絞ってみれば、いささか消化不十分な解釈に終わっていて、この曲こそこのバンドの特異な「進歩性」と「普遍性」の鍵を握っていると考える僕には、不満が残る。

 「Nude」というミディアム・テンポのバラードは、こういう歌詞である。

 大それた考えを持つのはよせ   Don't get any big ideas
 そういうことは決して起きない   They're not gonna happen
 自分を白く塗りたくっても       You paint yourself white
 ノイズで頭を満たしても       and fill up with noise
 何かが結局欠けている       but there'll be something missing

 たとえばこの「自分を白く塗る」ということを、「自分を正義の味方に仕立てる(見立てる)」というニュアンスで読んではどうだろう。また「ノイズ」を、情報・教養の類と。そうした時、この「大それたこと(big ideas)」とは、いわゆる「革命思想」全般のことではないか、と思えてくる。
 問題曲、と言ったのはそういうことだ。この曲は、世界を変えるための運動に身を投じている人達の努力に対し、あからさまに冷淡な見方を示すものではないか?──そんなふうに、字面だけを追っていくと感じないではいられないのである。

 見つけた、 と思ったら消えてしまう   Now that you've found it, it's gone
 今感じてる、 と思うのは気のせいだ   Now that you feel it, you don't
 きみはとっくに軌道を外れてるんだ   You've gone off the rails

 その卑しい心が考えていることのせいで
 きみは地獄に行くことになるぜ
   You'll go to hell for what your dirty mind is thinking

   この時点では、こんなバンドのどこが「進歩的」なんだ!と反発する人がいてもおかしくない。とりわけ、左派、進歩派と言われるところに属していると自負するような人達からは。

 確かに、従来の革命の歴史は幾多の「地獄」を見てきた。社会から孤立した過激集団の内ゲバから、社会主義を掲げた国家による全体主義的圧政に至るまで。
 しかしそんなことは、世界のいわゆる左派陣営にいる人たちにとって、今さら言われるまでもないことだ。それは一介のロック・リスナーにすぎない僕でさえも、そう思う。英国人らしく、作品中にしばしばオーウェルの『動物農場』や『1984』などからインスパイアされたと思われるディストピアの世界観を差し挟むレディオヘッドではあるが、その表現は政治的にラディカルというところには行かず、皮膚感覚的な恐怖の発露に過ぎないのでは、と思えて久しかった。
 「Nude」に至っては、民主主義・社会主義思想の人類史的意義を知らないままにこの曲を聴く若年層が、いたずらに「革命」アレルギーを昂進させ、変革への無気力な姿勢を深めるのに手を貸すだけではないか、という懸念すら頭をよぎる。しょせん今時のロックバンドなんてものは「反動」だなと、筋金入りの左翼人士の方々は思ってしまうかも知れない。

 しかし、この曲の全体が伝えているのは、実はそういうことではない。
 ロックは、音と言葉のせめぎ合いが、日常とは異なる次元の「肉声」に至る表現である。「Nude」の一見「反動的」な詞は、悲しいほど美しく・官能的な旋律と、幻想的な音の世界と一体化している。とりわけエンディングの約1分、「癒し」などという“卑しい”欲求すら吹き飛んでしまうほどの美しさ。
 そこで僕が思い浮かべるのは裸身、蒼い闇にうごめく男や女の裸身である。
 どれほど多くの思想が、願いが、叫びが、この裸身より発し、この裸身を裏切り、刃になって痛めつけてきたことだろう。そうしてすべての夢が、希望が潰えても、私達の裸身はここにある。私達には、裸身しかない。
 「Nude」が喚起するのは、この傷ついた裸身の抱える壮大な「痛み」である。個人史から人類史までを貫く「痛み」。さらには、私達に許されているのは、この「痛み」を持ち越すユートピアでしかない、という予感。「Nude」はいわば、「逆転喚起」ともいうべき表現になっている。

 私達の現在は、批評家の粉川哲夫氏がかつて1960年〜70年代の政治の季節の後を見据え、「権力の国家独占が急速に進み、反権力の拠点というものがもはや知のレベルや身体的無意識のレベルにしか存在しえなくなる」と危惧したとおりの時代だろう。ロックは、そんな時代の中、まさに「知のレベルや身体的無意識のレベル」に反権力の拠点を打ち立てる可能性を、依然として強力に秘めたメディウムであり続けている。というより、そのようなメディウムたる欲求に貫かれていない音楽を、ロックだと認識することは僕にはできない。
 正義を求める心、ユートピアを希求する心は、否定されてはならない。いや、どんなに否定しても、それは私達の裸身から立ちのぼる。だがそれが善良であるとか、英雄的であるとか、政治的に正しいとかいった「正しさにふさわしい立場」からしか到達できないものなら、ロックはそこから身を翻し、「正しさ」という名の権力に向けて刃を鍛えるだろう。
 レディオヘッドが進歩的かどうかは、結局どうでもいい。彼らは少なくとも、彼ら自身の「ロック嫌悪」的な側面までも含めて、善でも悪でもない、ロックという立場からしか表現できない何かを表現している。
 とすれば、彼らは「最も進歩的」というより、最もロック的なロック・バンド、ということにもなるのではないだろうか。彼らの存在の仕方自体が、ロックとは何かを「逆転喚起」している、とも。



   * この稿は季刊リプレーザ〔U期〕No.01号に掲載した文章に、加筆修正したものです。


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