国民が国家に課すルールが憲法じゃなかったのか

2004年5月3日 レイランダー・セグンド

la civilisation faible
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 例によって、各地で行われた憲法記念日の集会を伝えるNHKのニュース。
 1つ目は、憲法を守る集会・・・・例年通り、とりたてて新味なしというニュアンスの伝え方。
 2つ目は、改憲派の集会・・・・これにはそれなりに名の通った学者+政治家の参加があったことをわざわざ言い添える。護憲派のそれについては言及しなかったのに。
 3つ目は、さらに別の改憲派、しかも拉致問題と絡めての集会について。主催者の言葉をそのまま借りつつ、
「北朝鮮の問題からも明らかなように、現在の憲法が問題解決の足かせになっていることは“多くの国民”が認識しているところである、と主張しました」とさ。

 ハァ?
 なぜ拉致問題と憲法問題がリンクしなきゃならないのか?
 まず第一に、現行憲法下で、人質の解放を眼目とする拉致問題の解決はどうにかここまで進展したという事実。
 第二に、「戦争のできる国になる(なった)」という脅しが、よりいっそうの進展をもたらす可能性は限りなくゼロに近いという、子供でもわかる論理的帰結。
 それらの事実を無視した無茶苦茶な議論が、ニュース枠の三分の一を堂々と占める不条理・・・・というより作為性(結果として護憲派の運動は最もとるにたらないもの、という印象を確実に与えることができる)。
 北京での日朝会談の直前というタイミングも考慮してのことなのだろうが、この子供くさい作為性は目に余る。

 そして気がつくと、同日の読売新聞朝刊の1面は、同社による新憲法案。その柱となる主張は、
『家族は国家の基盤』
だとさ。

 なるほどなあ。「家族」というのは国家装置の最小単位なわけですからのう。それでもって太宰治は「家庭の幸福は諸悪の根源」って言ったんだよなあ。終戦直後の東京は三鷹界隈で。

 憲法というものは、国民が国家に課すルールであることに価値があるのだ。権力者や国家機関が国民に従わせるためのものでは断じてない。国民が国民主権の名において、国家を従わせるためのものであるべきなのだ。そして、現行の日本国憲法とは、まさにそのような原理に貫かれていることによって、世界諸国の手本となりえる優れたものだ。それを我々日本人がどこまで現実に活用できているかは、また別の問題である。
 この、主権在民の理念においては最も重要で最も当然のことを、“多くの国民”は忘れているか、あるいは勘違いしているのではないか?
 極端なたとえかもしれないが、・・・いやあながち極端とも思えないが、泥棒を縛っている縄を、その泥棒に「もっとゆるくしてよん」と言われて、ハイハイとゆるめる馬鹿がどこにいる、という話だ。

 大体、政府や大新聞がこぞって「家族」などという、反対のしようがない/同時に意味があるんだかないんだか分からないスローガンをかつぎ出すときこそ要注意だ。その裏で、別のもっときな臭い事柄が粛々と進行していると考えられるから。
 前時代的というか反進歩的というか、・・・まさに「土人の国」 (*1) の面目躍如といったところ。そういやウチの閣僚って石破や小泉をはじめとして、ペニス・ケースが似合いそうな面々だな。


*1 あえて言うまでもないが、いわゆる太平洋赤道地域の原住民族への差別を意図するつもりは全くない。昭和天皇が死んだ時、浅田彰が新聞取材において「土人の国には住みたかない」と発言したことからの援用。「ペニス・ケース」も合わせて、アジアで最も「文明が進んだ」と目されている国でも、中身は野蛮の活造りみたいな人達がいることへの、せめてものリップ・サービスのつもり。うそだけど。

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