スーダン情勢 及び「徹底的な相対化」によって得られること

2004年5月21日 レイランダー・セグンド

la civilisation faible
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スーダンで、内戦状態から引き起こされたエスニック・クレンジング(民族浄化−という名の大量虐殺)の動きが、ここにきて悪化の一途をたどっている、という情報がある。

とあるBLOGでこれについて語り合っている人たちがいた。それ自体はいいのだが、そこでのスタンスがどうにもおかしかった。
その人たちは、世間の目がイラク情勢一辺倒になっている中で、メディアでの露出がほとんどないスーダンの現実を認識している自分たちの優越をたたえ合い、「やはり正しい世界認識は徹底的な相対化によってしか得られないものだよね」などと結論付けている。
しかも、いろいろな意味で象徴的なことだが、彼らはこのスーダン情勢について報じたワシントン・ポストの記事を引き合いにしながら、そういう考えをもてあそんでいるのだった。ワシントン・ポストが皮肉交じりに言うことには、「イラクやパレスチナと違って、利益代表を持たない(…ハァ!?)スーダンの問題だから、報じられることが少ない」のだそうだ。

果たしてワシントン・ポストにそんな皮肉を言う資格があるのか、という大いなる疑問がまず浮かぶ。
その疑問をさらに分解してみると、一つには、同紙が米政府のヒサンでヤバンな対中東政策を後押しする立場を貫いているのは周知の事実である以上、その眼目たるイラク統治が破綻をきたしている現状から読者の目を逸らせたいのはよくわかる。というか、ただそれだけのことじゃねえのか、という疑問。
二つ目に、「報じられることが少ない」のは読者のせいでもイラク人のせいでもパレスチナ人のせいでもなく、同紙を含むマスコミのせいではないのか、という素朴な疑問。例えば、最近TBS「ブロードキャスター」で偶然耳にした福留さんの発言−「そうそう皆さん、ここのところの(イラク)人質問題のおかげで、(北朝鮮)拉致問題が影に隠れてしまったんですよねえ」という言い方とも共通する。
なんで我々がそんなことを、いかにもやるせない表情と声色の下に言われなきゃならないのか(福留さんは嫌いじゃないけどね)。
影に隠れたとすれば、隠したのはメディアであって、情報の受け取り手の我々ではない。自分達で意図してやったことの責任を「社会の風潮」とか「国民意識」とか、よくわからないマスコミの法則(自然界の法則であるかのような)とかに帰す体質が何を意味するのか。考えどころである。

そしてもう一つの大いなる疑問がある。こっちは、本当に受け取り手の方の話だ。さっきのBLOGでの語られ方をもう一度思い起こしてみる。

イラクに問題がある。「でも」スーダンにも問題がある。
イラクでは1万人殺された。「でも」スーダンでは10万人殺された。

だから?

なぜいつでも「but」なのか?なぜ「and」ではいけないのか?
「and」では、彼らのいう「徹底的な相対化」の効果が十分に期待できないからだろう。つまり、自分が何もしないことの正当性にお墨付きを与えてくれる、という効果である。
世界の情勢は問題がありすぎて、複雑すぎて、自分のような一般市民がコミットするのは到底無理だ。でも無理だと了解している自分の知性や教養は尊敬されてしかるべきだ、どころか他の知性より本来優位である。そうであれば、心おだやかでいられる。これこそ正しい認識、正しい現代人のway of goingにちがいない。

事実は逆だ。この世の中では、「知っている」ならそれに応じて責任が生じる。知らないふりをするのは良くないが、それ以上に、知っていて何もしないことを正当化する思想というのは、根っこから腐っている。
できることとできないことがあるのは当たり前だ。だが、できないから自分は偉いという主張は、少なくとも現実には成り立たない。あらゆるものが道徳的に等価になるヴァーチャルな鏡の間で、なら別だが。

スーダンの問題について知っているなら、もっともっと知ればいい。そこで自分に出来ることをさがせばいい。あるいはもっともっと多くの人に知られるように働きかければいい。それだけのことだ。
何もできなくとも、それをイラクやパレスチナといった他の問題のせいにするのはやめてほしい。
世界には日本やイラク以外に、アメリカやパレスチナ以外に、フランスやスーダン以外に、チェチェンやコロンビア以外にもたくさんの現実がある。当たり前だ。メディアがどれを取り上げようと、どれを強調しどれを背後に隠そうと、自分にとって大事だと思えることを追求すればそれでよい。というより、普通はそれで精一杯だろう。あらゆる世界の問題を一挙に解決できるような(かつての「社会主義」理念が吹聴していたとされるような)、そんな都合のいい思想など今時お呼びじゃないのだ(いやそれこそご所望だというなら、新興宗教方面をあたってみることをオススメする)。
そういった追求・参加の行為を自己満足だと言うなら、それでもいい。何もしない自分に意味不明の「誇り」を感じたり、お墨付きを与える自己欺瞞より、ちょっとでも「何かをした」自己満足の方が、はるかに健康的であることくらい、俺は経験から知っている。

イラクにもスーダンにも、日本にもアメリカにも、明らかに慄然とするほどの問題がある。そのどれがどれより重要などと言える資格は、誰にもない。
ただ、一方で世界はどんどん小さくなっていて、それぞれの国・地域の問題が、そこだけの孤立した問題だとは到底言えなくなって久しい。一つの問題を追及していくと、いやでも他の場所の問題に行き当たる。行き当たってメゲてしまうこともあるかもしれない。けれど、そういった知識や経験を重ねること自体に、俺なら道徳的価値を見出さずにおれないのだが。

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