大和魂?−1

2004年7月某日 レイランダー・セグンド

la civilisation faible
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 読売新聞に「放送塔から」という欄がある。毎日のTV番組に対する読者からの投書の中で、特に反響の大きかったものをまとめて振り返る、みたいなコーナーだ。
 先日たまたまその欄を見たら、7月17日NHK教育で放映されたETV特集『戦乱と干ばつの大地から〜医師 中村哲 アフガニスタンの20年』に対する感動の投書の数々が紹介されていた。
 僕はこの番組は未見だが、紹介された投書から、またそれ以前に中村氏が代表を務めるペシャワール会についての記事や Webサイト などから、おおよそどんな内容の番組だったかは想像がついた。それでも、再放送があったらぜひ見たい、とは思った。

 しかし、そういうこととは別に、引っかかったことがある。「放送塔から」の担当記者自身がこの番組の感想を述べていて、特に印象的だったこととして、苛酷な救援活動をこんなにも根気強く続けてこられた原動力は何かと問われた中村氏が、「大和魂ですかねぇ」と答えた、というシーンをあげているのだ。いわく、「大和魂と言うと、一般には戦時中の悪いイメージがあるかもしれないが」「こういう大和魂なら大歓迎であろう」(原文ママではありません)などなど。
 まあ、そうかも知れない。でも、・・・大和魂、・・・
 ヤマトダマシイ?
 僕が引っかかるのは、一つにこの言葉が、人道援助のような活動にふさわしい言葉だろうか?という点。すなわち、中村氏の発言自体に対する違和感だ。
 もう一つは、CMなしの90分になんなんとする濃いー濃いー番組の後で、ことさら取り上げなけりゃならん言葉が結局それか?(「プロジェクトX」ならともかく^^)という、読売の当該記者の感性に対してだ。
 中村氏が語ったことの中には、他にもいろいろ大事な話があったのではないだろうか?例えば、当の我が国の政策が、アフガンを苦境に陥れた構造に加担している現実とか。アフガンの人々の生き様から、逆に浮かび上がってくる日本人の生き様への疑問とか。本当に状況に通じた人なら、そういう話ぬきに自ら平和の具現者然としていられるわけがない。
 ところがそういった視点は、この「放送塔から」には皆無だ。採り上げられた読者からの投書も然り、である。もっとも、あってもそういう投書は採用されないのだろうが。


 僕は別に、「大和魂」という言葉そのものが嫌いなわけではない。例えばスポーツの世界などで使われる分には、特に違和感はない。格闘系のスポーツで、日本人がいかにも手強そうな外国人選手と戦う時など、大和魂でも燃える闘魂でも、とにかく持てる魂はなんでも動員してもらったらいいと思う。
 ただその場合ですら、日本人だけが「魂」を持っているわけではないことは言うまでもない。相手は相手で、ブラジル魂やドイツ魂やマダガスカル魂etc.を備えているのだ。
 そんな魂と魂がこすれ合うレアな瞬間に立ち会えたら、それは興奮するし感動もするだろう。だが一方では、そういう戦いを終え、選手がそれぞれのナショナリティを背負った存在から一個人に戻った瞬間 −言い換えれば個々の「○○魂」から解き放たれ、素の若者に戻って、健闘を称え合ったりする瞬間はもっと感動的だ。
 まあそれ以前に、スポーツは技術を競うのであって、技術の足りない奴が「○○魂」を持ち出したって、レベルの低い戦いにしかならない。また「○○魂」を持ち出さなければ盛り上がらないとしたら、そんなのは観るにしてもやるにしても、本来スポーツの楽しみ方としては邪道だと思う。

 脱線してるな。とにかく言いたいのはこういうことだ。
 「国」を背負って何かをするのは、それだけで立派な事だと持ち上げられる風潮が(特にこの国では)根強い。でも本当に立派なのは、「国」の枠にとらわれず、一人の裸の人間として、困難な仕事に打ち込んでいる人たちではないだろうか。中村氏率いるペシャワール会の活動は、まさにその好例だと僕は思う。その中村氏の口から出た「大和魂」が、偏狭で子供じみたナショナリストのそれと同一であるはずがない。氏の真意はどこにあるのだろう?

 具体的に中村氏が経験したこと、考えたことの記述は、若輩者の僕などが抽象論でまとめていいものかどうか、抵抗がある(興味のある人は氏の著作やペシャワール会のHP、あるいはせめて このページ などを読んでください)。だがあえて、その若輩者が理解した限りで言うと、次のような考えが氏の考えの根底にあるようだ。すなわち、
 日本人の働きを、日本人であるがゆえに受け入れ、必要としてくれる草の根の人々がいる。その人たちの心の中にある「良き日本」に、日本人が応えないで誰が応える?ということ。
 それは実際に、日本人であることが、欧米のNGO、ユニセフのような機関などと比べても内容の濃い活動を可能にした、現地の住民感情が氏に教えてくれたものなのだ。裏返せば、欧米人はそれだけ信用されていない。歴史的に彼らはあの地域で手を汚し過ぎている、ということも手伝って・・・。
 中村氏の目から見ても、現地の人々の文化やヴィジョンを共有する視点を欠いた欧米人のやり方は、態度が押し付けがましいとかないとかをぬきにしても、施策自体が的外れでうまくいかない。とは言いながら、日本に対する中央〜西アジア方面の人達のシンパシーというのは、多分に幸運な誤解を含んでいることも確かなのだが。(ただし湾岸戦争以降、そして特に2001年のアメリカによるアフガン侵攻を日本政府が支持してからは、日本に対する感情も思い切り悪化したことを、中村氏は各所で訴えている)
 日本人は欧米人より優秀だから、アフガンを救える、と言っているのではない。アフガンを救えるのはアフガン人だけだ。
 それでもそのヴィジョンを共有し、その仕事に参加することをアフガンの人々に歓迎してもらえるなら、存分に独自の働きぶりをアピールするべきではないか。人が人を助けるのに、ナショナリティが介在する必要など本来ない。しかし現実の状況が、ナショナリティを利用したほうがより多くの良い結果をもたらすのであれば、それを積極的に使うべきである。
 と、このような文脈の中で、やっと登場するのが中村氏の(限定オリジナルの、と言うべきか)「大和魂」なのではないだろうか。


 氏は自身のことを「元来保守的な人間」だと、どこかで書いていた。ただ「保守」といっても、僕はなんだか、氏の活動方針には、小沢一郎の「普通の国」ではなく、武村正義の「小さくともキラリと光る国」の方に相通ずるものがあるように感じられる。その「キラリと光る」ものを、中村氏は最初から自覚して現地に携えていったのではない、というところがミソだろう。現地の人々との裸の付き合いが、それを教えてくれたのだ。
 そこまでふまえて、初めてそれは僕にとってもポジティヴな響きを持つ言葉となる。そりゃお前がひねくれてるからだ!と言われるかも知れないが・・・とりあえず言わせておこう。痛くもかゆくもないし。

>>> 続く

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