大和魂?−2

2004年7月某日 レイランダー・セグンド

la civilisation faible
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 もう一度、ポイントを振り返る。アフガンの人々が認めてくれた日本人の中のポジティヴなもの、それゆえに自分の活動を鼓舞してくれるもの、それを何と呼ぶか。
 中村氏はそれを「大和魂」と呼んだ。黒澤明のファンなら「(七人の)侍魂」と呼ぶかも知れない。
 でも僕は、「中村魂」でいいのではないか、と思う。あるいは単に、「ど根性」でも。
 例えばSMAPを好きな人が、何かのボランティア活動に従事しているとする。その動機を尋ねられて、私のやっていることはSMAPの『世界に一つだけの花』の具体的実践なんだと主張するのは、全くその人の自由なわけだ。SMAPや歌の作者に、「合ってますよね?」などとお伺いを立てる必要などない。
 中村氏の「大和魂」の場合、それよりは相手との関係性の中で見出された概念ではあるけれど、それを個人的に何と呼ぶかは個人の解釈の問題である、という点では同じ次元の話だ。


 もし同じ次元ではないとしたら、ややこしくなる。「大和魂」という言葉の用法をめぐって、より微細に立ち入らなければならなくなるからだ。
 まずもう一度、僕の違和感の理由に立ち戻って言わせてもらえば、人助けの動機を、特定の国や民族、あるいは宗教に結び付けて説明するのは、どう考えても変だし、逆に傲慢だと受け止められるのでは、ということがある。
 例えばヨーロッパ・ベースの「国境なき医師団」や「アムネスティ・インターナショナル」の面々が、その活動の原動力を、自分の出身国の属性なんかにこじつけて語るのを、聞いたことがあるだろうか?確かにそういう人たちも、自分の国のマスコミが向けるマイクには、「これがフランス精神だろ?自由・平等・博愛!」とか「僕のパワーの源はオージー・スピリットさ」などと軽口を叩くことくらいはあり得る(ひょっとしたら、中村氏もそういうノリで答えたに過ぎないのかもしれないが)。
 だが、本気で自分のナショナリティが、他国のそれに比べて人道活動により適した「スピリット」を備えていると思っているような人間は、そもそもこういった多国籍チームに身を投じるとは思えない。自分の国で肩をいからせた役人にでもなっているだろう。
 宗教という観点でも同じことである。世界で名の知られた人道援助組織は、もっぱらキリスト教徒の個人もしくは団体が主体となっていることが多い。それは現代の世界の構造が、キリスト教徒が多く住む西欧国家に、より経済的な余裕を与えているから可能になった事態であり、キリスト教が他の宗教に比べて人道援助に適した思想を含んでいるからだ、などと言う人間がいたら、無知もはなはだしい。どの宗教でも、人々が助け合うことを求めない宗教はない。そして、それがしやすい状況にあるかどうかは、宗教が決められることではない。
 マザー・テレサはクリスチャンだから、あのような活動に身を捧げた。そりゃそうなんだろう。じゃあ他のクリスチャンは、なぜそうしなかったのだろう?「あんな怠け者たちをいくら助けたってしょうがないさ。物好きなこった」と、彼女の活動を冷ややかに見つめるクリスチャンが、なぜインドにも欧米にも腐るほど多くいたのだろう?マザーをして、「だって他に誰もやらないんだから私ぐらいやったっていいじゃないのよ?私の勝手じゃないのよ?(*1) と言わしめるほどに。この発言は「クリスチャン魂」からきたものか?それとも彼女の祖国、マケドニアの魂?
 僕はそうは思わない。思う必要がない。それはマザー・テレサ魂、で何の問題もないのだから。
 人権や、協同の思想・博愛の思想は、捉え方や表現の仕方に多少の差はあっても、人類共通のもののはずである(べきだ)。いかに中村氏がアフガニスタンで欧米チームのダメダメぶりを目の当たりにしたとて、それがまさか「大和魂の欠如によるものだ」と言いたいわけではないはずだ。第一、アフガニスタンで日本人のナショナリティがポジティヴに受け止められても、世界の他の場所でもそうだとは限らない(本当はそうであるほうが嬉しいけれど−夢を見るべきではない)。

 さらににまた、言葉の定義そのものの問題があると思う。
 僕が持っている辞書によると、大和魂とは「日本民族固有の精神」で、「儒教や仏教が入ってくる以前からの、日本人本来の物の見方・考え方」とある。
 儒教や仏教が入ってくる以前、と言ったら、相当なもんである。万葉集や記紀の書かれた時代よりも、もっともっとさかのぼる。その頃の日本とは、「倭国」と呼ばれていた、大和朝廷とその勢力圏、すなわち漠然と近畿・中国地方あたりのこと。だから「大和」魂、になったのだろうが、その「大和」には中国や朝鮮からの帰化人なんかもけっこう社会形成に参加していたわけで。結局「倭人」「大和人」の定義そのものがあやふやなわけで・・・。
 とにかく、そんな時代からある「日本人本来の物の見方・考え方」といっても、その意味するところを答えられる人がどれだけいるのか。専門の学者・研究者の間でも意見が分かれるところだろう。だが少なくとも、それが戦乱で荒廃した異国の人々の救援にはるばる赴く動機と、直接結びつく類のことでないくらい、素人にだって見当はつく。

 でも結局、そんなことはどうでもいいのだ。「大和魂」がいいか悪いか、適当かどうかではなく、その言葉を使う必要性の問題である。
 必要性という観点からは、僕は個人的には、中村氏の活動を表現するのに「大和魂」なんて言葉は必要ないと思う。「中村魂」「ペシャワール会魂」と呼べばいいものを、逆に謙遜して言い換えているようにすら感じる。だが中村氏自身が自分を鼓舞するために、「大和魂」と言いたいなら、もちろんそれは氏の自由なのだ。とりあえず、それが最初の疑問についての、僕の結論になる。


 だが、本人がいくら個人的に解釈して使った言葉だとしても、「大和魂」のような格好のエサを、メディアは個人的なこととして放っておいてはくれない。
 機会あらば軍国主義・膨張主義の時代の遺物を、良く言えばなるべく過去のしがらみ抜きに「再評価」したがる、有り体に言えば、権力の都合に合わせてロマンチックに美化したがる人達がいる。そういう人達にしてみれば、中村氏のような誰が見ても人道的に立派な活動をしている人が、「大和魂」のような言葉をポジティヴな文脈で持ち出してくれたら、我が意を得たり、よっしゃあ!というものである。
 先述の「放送塔から」からは、その日の記事に限らず、わりとしょっちゅうそういう気配を感じる(というか、毎日の投書の掲載選択の時点で、既ににおいが漂っている^^)。読売の記者はそういう提灯記事を書くことで、社内での地歩を固めるのだろう。
 一方で、これが「左派メディア」だったらどう反応するのだろう。昔の「赤旗」あたりなら、中村氏の発言を聞いて、すぐさま「反動」呼ばわりしたかも知れない。今時は、いや彼の言う「大和魂」はそんなに反動的じゃないのだ、みたいなスタンスを取るのだろうか。あるいは、はなっから聞かなかったことにするのだろうか。それが無難だろうな。
 これらいずれにせよ、メディアというものが、国民意識の前衛を担っているとは言いがたい、むしろ自分らの陣地に国民をどうにか引っ張って後退させようとする状況である。これらのメディアは、国家が一見してそれらしい目標を失ったかに見える状況に歩調を合わせるように、自分らの本来の目的を見失っている。というか、それが本領のように見えるところが何とも・・・こういう状況下では、言葉は以前にも増して諸刃の剣かも知れない。

 それにしても、「こういう大和魂なら歓迎である」とは、大した言い草である。まるでそれ以外の「大和魂」は歓迎したことがないような口ぶりじゃないか。とんだタヌキだ。
 「戦時中の悪いイメージ」も何も、もともと民衆を侵略戦争に動員するために時の政府が利用した言葉である。ずっと昔からある言葉かも知れないが、少なくとも国民意識の中に意図的にそれが刷り込まれた(あるいは「国民意識」というもを作り出すために採用された)のは明治以降、富国強兵の時代以降である。単に戦争中に存在した言葉、ではない。国民のひたむきさや血と汗のまじった努力を、国家犯罪に動員するためのスローガンとして機能させたのは誰なのか。お前ら当時の御用新聞ではないか。またぞろ同じ手を使おうってことかい?
 「血塗られた」言葉である。この血塗られたイメージをくつがえし、他国の(とりわけアジアの)人々に、それを良きもの、ポジティヴなものと評価してもらうためには、それこそ中村氏のような人達の、血のにじむような空前の努力があって、かろうじてどうにか、可能になるのかも知れない。
 その努力を妨害し無駄にするような政策を、一貫してとり続けているのが日本政府である。そしてその尻馬に乗っかっているのが、読売をはじめとする大手企業メディアである。
 そんなメディアに「歓迎」されるような言葉は、やっぱり警戒するに越したことはない。


*1 出典は不明。昔ラジオで偶然聞いた言葉です。


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