考察 「KLACK事件と“表現の自由”について」

2005年1月9日 レイランダー・セグンド

la civilisation faible
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この問題をじっくり考えるきっかけを与えてくれた大Uさん、重要な論考や資料を与えてくれたtekkin1989さんに深く感謝します。
 掲示板でもいつか予告したとおり、当初は本宮ひろ志『国が燃える』にまつわる事件を中心に、考えをまとめた文章を一つ二つ書きたいと思っていた。だがここにきて、最近KLACKなるロック・バンドが引き起こした事件が、一つの有用な切り口を僕に示してくれた。あくまでも一つの切り口、に過ぎないのだが、そのあたりをまとめておくと、後々考えを進めていく時に役に立つような気がする。

 まずKLACKの事件と『国が燃える』の事件、さらにもう一つ、昨年『コンクリート』という映画が上映中止に追い込まれた事件という、3つの事件を比較対照してみたい。
 『国が燃える』に対する抗議の理不尽さということを追及した論考としては、僕が知る限りでは 「国に萌え過ぎる人々」 というサイトが優れている。またその姉妹サイトを通して、僕はこの『コンクリート』の事件についても知ることとなった。

 3つの事件の概略をそれぞれ簡単に紹介する。

A 『コンクリート』の場合
「女子高生コンクリート詰め殺人事件」を元に作られた、いわゆるインディーズ・シネマ。2004年5月29日から、銀座シネパトスで単館上映が予定されていた。
しかし「2ちゃんねる」の一部で非難の声が湧きあがり、映画を糾弾する専用のHPが現れ、抗議FAXのテンプレートなどを発表。攻撃は主に製作会社よりも映画館シネパトスへと向けられた。電話には無言電話や「スクリーンをナイフで切り裂いてやる」とか「劇場に火をつけるぞ」といった犯罪予告もあり、応対した映画館の係員が執拗にターゲットにされノイローゼになったということまであった。またレイプ被害経験のある女性と名乗ったFAXもあったが、実在しない住所が書かれていたという。これらの攻撃によって、シネパトスは上映を取りやめた。(上記tekkin1989氏のサイトからの文面を借用させていただきました)

B 『国が燃える』の場合
昭和初期の若い官僚の半生を描いたフィクションで、2002年11月から週刊ヤングジャンプにて連載。
第88話に描かれた南京虐殺の描写について、集英社と作者は、いわゆる南京虐殺否定派から抗議を受けた。これに対して、編集部と作者本宮氏は連名で、11月11日「読者の皆様へ」という文書を2ページにわたって掲載し、「適切でないと思われるシーン」の削除・修正を発表するとともに、漫画を第4部の準備期間ということで休載とした。単行本化に際してはこの削除・修正版が収録される予定である。(各サイト情報を総合)

C KLACKの事件
千葉・浦安で昨年12月26日に開催されたTBS主催のロックフェスティバルで、ヴィジュアル系バンドKLACKの演奏中、大型スクリーンにイラクで誘拐された香田証生さんの殺害映像が流された。関係者によると、リハーサルもなく、主催者側などには事前に知らされていなかったという。KLACKの所属事務所に抗議したTBSは「人道的にも許されるものでもなく、香田さんの家族などに深くおわび申し上げる」とコメントした。
公式HPは(恐らくいわゆる“荒らし”行為のため)閉鎖され、所属事務所のbbsも停止状態である模様。バンド側からの正式なコメントは今のところない。
同バンドは過激な歌詞とルックスで、マキシシングル「インティファーダ2004」がオリコンのインディーズチャートで初登場1位になった人気バンド。(各マスコミ記事やBLOG情報などを網羅掲載したサイト、「『KLACK資料』に関する詳細情報」 などを参照)

 それぞれの事件には共通点もあるし、相違点もある。とはいえ、A、B2つの類似性に比べれば、Cはやや異質な位置にあると言えないだろうか。
 まずA,B2つの事件の類似性を確認しておく。
@どちらも史実に基づいたフィクションである
 ただしBの場合、それが「史実ではない」というのが抗議した側の主張である点は、もちろんAとは完全に異なる。だがどちらの制作者も、本人たちとしては「史実」を前提に作ったことに変わりはないので、ここではその違いは考えない。
Aどちらも、制作者たちの思ってもみないほどの抗議・圧力に見舞われた
 偉そうに私見を挟ませてもらえば、Bの場合、抗議の良し悪しとは別に、このくらいの抗議を予想できなかったとすれば、それ自体ちょっと問題だと思う。「南京事件」は、これをメディアで扱うにあたって、(残念ながら我が国では)相応の覚悟が要るのは周知の事実ではないか。が、その辺の話も、とりあえずここでは関係ない。
BAは作品の発表差し止め、Bは作品の修正・削除という憂き目を見た
 つまり、どちらも作品そのものが本来の機能を停止または変形されることを余儀なくなれた、ということ。
 Bについては、単行本化の段階の話である。すでに問題の作品は週刊漫画誌として世に出てしまった後で、ネットで保存・アップロードしている人もいるので、オリジナルがこの世から消えてしまったわけではない。
 Aに関しては、関係者や支援運動の方々の努力が実って、7月以降場所を移して上映再開の運びになったそうだ。Bの方も、オリジナル版での復活を希望するものである。

 さて、ではこれらのポイントを、Cのケースと比べてみると、どうなるのか。以下のようにまとめてみた。

KLACK 『コンクリート』 『国が燃える』
●問題になった“表現”
BGV 特定できる個人の殺害映像
    =ノンフィクション
映画=フィクション
マンガ=フィクション
●“問題”意識の有無
間違いなく、相当な程度の物議を醸すことを承知でやった。どの程度かは不明。
状況から推測するに、それでもこんなに抗議を受けるとは思わなかった(?)ようだ。
おそらく、ある程度は物議を醸すことを承知でやった。どの程度かは不明。
明らかに、こんなに抗議を受けるとは思わなかったので、対応に苦慮。
(ただその場合の「こんなに」とは、単に抗議の量の問題ではない)
●“問題視”されたことによる影響
HP閉鎖。
=?
あるいは+?
作品そのものの改変、もしくは発表差し止め。
表現の自由の侵害

 断っておくが、僕はこんな図式化によって、左側は悪で右側は善だとか、左側は加害者で右側は被害者だなどと色分けしたいわけではない。ましてや『コンクリート』のネット抗議者よろしく、悲惨な事件の遺族の気持ちを代弁して、自分は正義の側にいると主張したいわけでもない。あくまでポイントを見やすくしただけの話だ。

 こうしてみると、2段目「“問題”意識の有無」を除けば、両者に共通点はないことが分かる。その2段目ですら、「有無」を軸にした時に似て見える部分があるだけで、内実には大きな開きがある。
 『コンクリート』『国が燃える』が、「ある程度は物議を醸すことを承知で」作られた、というのは、それらの描き方の問題ではない。素材である史実自体が社会的にインパクトの強いものだから、多少物議を醸すかもな、という意味においてである。一方KLACKの場合、素材のインパクトそのものを他者に丸投げする、もっと言えば素材のインパクトに便乗して、個人の“表現”のふりをしただけだと、僕は考える。
 しかも、BGVは演奏中のメンバーが操作できるわけがない。メンバーの意を受けてマテリアルを映写機にセットしたスタッフが最低一名いなければならない。それがバンドとは直接関係のないPAブースのミキサーの人なら、流れた映像を見て驚いても、主催者から雇われている立場として、個人の判断でそれを止めるのは難しかったという言い訳は成り立つ。だがバンド側のスタッフならば、中身が何であるか知っていた可能性が高い。というのは、スタッフであるなら、KLACKというバンドのこれまでの言動や行動パターンを知っているわけで、ライヴ会場でリハーサルもなく主催者らにも通さずに、「これを流せ」と渡されたものがヤバイものであることは絶対わかるはずだ。
 つまり、メンバーだけのちょっとした思い付きや悪戯なんかではありえない。大いに物議を醸すことを狙っての、意図的な行為だということだ。

 議論が分かれるとすれば、3段目の比較対照だろう。
 僕は決して、KLACKのHPを閉鎖に追い込んだヒステリックな集中攻撃に同調はしない。(おかげで今現在、HPを通して本人たちのメッセージをダイレクトに読むことができないので、それへの批判もしようがない)。とはいえ、HPにアクセスした人の全てがそうだったわけでもないだろう。真摯に意見を伝えようとした人も少なからずいたはずで、そういう声さえも届かなくさせてしまった野次馬やヒステリーは、バンド同様、幼稚だ。
 ただそれでも確認しておきたいのは、バンドの本分は演奏パフォーマンスや作品制作であり、別にHPで生計を立てているわけではないということ。一部にはこういうWebサイトに対する攻撃だけをもってして、すぐさま「言論弾圧だ」とか色めき立つ人もいるが、世をすねたオヤジの一人としては、ネットぼけもたいがいにしろと言いたい。
 おそらくはそのうち、しかるべき謝罪会見みたいなものの後に、HPは復旧するのだろう。その時に、何か思ってもみなかったような真相が出てくる可能性というのも、ファンなら期待したいところだろうが、僕は期待しない。期待するべきは、彼らが次にどんな作品を作るか。ステージに立ってどんなパフォーマンスをするか。観客の目を見て、観客に何を伝えようとするのか。
 彼らは自由である。あるべきである。自分達の幼稚な行為のオトシマエをどうつけるのか。それはHPではなく、ステージやレコードでつけるべきオトシマエだ。それがロクでもない作品なら買わなきゃいいし、ひどいステージなら「おまえらつまんねーぞ」「アタマ悪いぞサル!」とか野次ればいいのだ。
 そういう機会そのものが、発売中止・上演中止などという形で徹底的に締め出しを食らうようになったら、その時こそファンのみならず「表現の自由」論議を持ち出すべきだ。
 たしかに今は風当たりが強いから、おめおめと人前に顔を出すこともできない、一時的にはすでに「締め出しを食らっている」状況なのかも知れない。だがこの国の一つの風潮として、「煽られなければすぐ冷める」というのがある。今はせいぜいメンバー同士膝突き合わせて、今までの活動を振り返り、今後のことを腹の底から議論し合う、いい機会にするべきじゃないか。

 なんて、ずいぶんKLACKに優しいんだな、と言われたら、全くだよな、と言うほかない。ここではあくまでも“表現の自由”とは何かという観点から、KLACKの事件と“表現の自由”の問題とは、似て非なるものであることを説明せんがために書いてみただけである。
 KLACKというバンドの音楽性や、歌詞の内容、メディアでの言動などについては、僕はいささかの興味もない。いや、正直に言わせてもらえば、知る限り、ほとんど軽蔑に値するくだらなさ、何やってんのチンパン君、という感想しかない。
 しかしそんなことを言ったら、『国が燃える』にしたって、僕は現在に至るまで、本宮ひろ志のファンだったことなんかない。むしろそのおめでたいヒーロー礼賛の作風を敬遠していたクチである。
 それでも、『国が燃える』が蒙った事件は、彼というマンガ家一人の問題ではない。昭和史や「南京虐殺」に興味がある人だけの問題でもない。
 確かに今までにも、いわゆる「筆禍事件」の類はたくさんあった。マンガでいえば、多いのは主に残虐描写やエロの描写をめぐって(最近だと児童ポルノ禁止法の適用だとか)の抗議・規制などである。
 だが僕が問題だと直感したのは、「歴史認識」にまつわる問題であれば、今までだと法廷での争いに持ち込まれたのに対し、今回は持ち込まれる気配すらないことだ。裁判に持ち込めば、確実に作者側が勝てるだろうと思えるのに、である。
 もう一つは、これが「フィクションなんですから」と申し開く作者側を尻目に、むしろフィクションだからこそ狙われたのではないかという疑いが濃厚である点だ。そして、今後その傾向はますます強くなっていくような気がする。歴史教科書の使命が、子供が国家に愛情を持てるように導くことである、と考える輩には、好都合な傾向が。
 そういう危機感がいつも頭の片隅にある僕としては、KLACKの今後など、気にかける余裕はないのが本音である。他の掲示板で書かせてもらったことをもう一度書くが、「遺族や主催者に無断でやる以上、当然抗議や反発が来るのは予想できるはず。そんな予想もできない・覚悟もない程度の連中が自由を振り回すと、かえって自由の危機を招く」。そして、それに思い至らないのは、表現者としてレベルが低過ぎる。
 だが、これもそこで書いたことだが、僕は世間をぎょっとさせる行為を仕掛けたり、そのことで世間から叩かれたりするロック・バンドというもの自体は、本質的に好きだ。KLACKは実際のところ幼稚なまがい物かもしれないが、まがい物に存在するあやうさ・はかなさを潔く引き受けるからこそ、ロック・ミュージシャンには他のいわゆる「スター」にない美しさが備わったりするのだ。ある意味自ら社会のモルモット役を買って出る、そういう覚悟抜きには「ロック」とは言えないぜ、とか。

P.S.
 ついでにこれだけは言っておこう。情報によれば、KLACKの代表曲(?)に「Japanese Standard」というのがあって、こんな歌詞だそうである。
 「それでもイラクの人が嫌いになれないんです
  これが俺たち日本人
  東条英機が日本を救う!

 東条はともかく、我々がイラクの人を嫌いになれないのは当たり前だと思う。
 嫌いになる資格がないからである。どうやったらイラクに侵略された国ではなく、イラクを侵略している側の国の人間がそんな資格を持てるのか。
 おっといけない、侵略じゃなかった。フッコーシエンしてるんだったね。


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