南京の思い出

2005年5月20日 レイランダー・セグンド

la civilisation faible
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 もう10年以上前の話。いや、ほんの10年前の、というべきか。
 バンド活動を介して知り合ったある人に誘われて、僕は中国の上海と南京へ行った。その人が働いている福祉施設の同僚さんが、中国にツテのある有志の人達と企画した旅行だった。
 旅行の目玉は、第一に現地の福祉施設を見学させてもらうこと、第二に「南京虐殺記念館」を訪問すること、であった。福祉云々については門外漢だけれど、以前に中国に行ったことがあり、中国を含むアジアの近現代史に興味を抱く人間だということで、僕に声をかけてくれたのである。
 僕は一も二もなく誘いを受けた。本多勝一の『南京への道』など、一連の「南京事件」をめぐる本を読んで間もなかったこともあり、機会があればぜひとも「記念館」その他、事件と関わりの深い場所を訪れたいと思っていたのである。

 細かい話ははしょるが、有意義な旅行だった。
 といっても、肝心の記念館(正式名称は「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館」)の中身自体は、実はそれほど印象に残っていない。展示されている資料などは、ほとんど前述の本多氏の本その他で見て読んで知っていたので、特に新味はなかった、というのが正直なところ。中国の人が聞いたら怒るかもしれないが、僕はある意味そういうものに関して“耳年増”なタイプで、たとえば長崎の原爆資料館を修学旅行で訪れた時も、大してショックを受けなかった。もっとグロいものを目にするのを覚悟していたのに、肩透かしを食らったような感じだった。あまりいばれることでもないが。

 逆に悪い意味で印象に残ったのは、たとえば入ってすぐのあたり(だったか?)、ガラス越しに見ることのできる「発掘された人骨の山」である。これは、この記念館が大規模な処刑地の一つの上に建てられたことに由来している。建物自体、大きな墓の形に似せて作ったそうで、つまり入場者は巨大な墓の中に入っていくようなものである。ならば中に人骨があっても別に驚くには当たらない、のかもしれないが・・・。
 本多氏も本の中で指摘していたが、僕も「これはちょっとどうよ」という気がした。別に実物の人骨にびびって鼻白んだわけではない。逆に素人目には、それが本物の人骨なのかどうか知りようがないし、あるいは「事件」で殺された人のものなのか、それとは無関係のもっと古い時代のものなのかも、確かめる手立てがないのだ。というか、そんな下世話な詮索を誘発してしまうということ自体、中国の人たちの本意ではないはずなのに。
 そして本物であるならば、いや本物に違いないからこそ、なおさら殺された人骨の霊たちに対して、これはむごい仕打ちではないか、と感じてしまったのも事実である。
 これを企図した責任者に言わせれば、「いや、これが現実なのだ。我々は歴史の現実を直視しなければならない。殺された同胞たちはこのように展示することを許してくれるはずだ、むしろこういう形で祖国へ協力できることを喜んでくれるはずだ」ということになるのだろう。
 だがそれが「現実」であることを理解するのに、本物の人骨がそこになければならないとは、僕にはどうしても思えない。切り取られたばかりの花が一輪、土の上にたむけてあるだけでも、同じことを理解できるのが人間の想像力というものではないのか。
 逆にそんな想像力が欠如した輩には、いくら「実物」を示したところで、「フーン、本物かねえ?(withニタリ顔)」などといやらしい逃げを打たれるのが関の山である。本物であることが証明されたらされたで、今度は「本物の人骨を展示するなんて、死者を敬う気持ちが欠如している、やっぱり中国人は民度が低い」などと言い出しかねない。盗人猛々しいにもほどがあるが、要するに何かにつけ、他民族の欠点や過ちを、自民族の行為を正当化する口実に使おうと、いつでもスタンバイしているコウガイビル(*1)のような輩が存在する。そういう輩が大学教授や都知事を務めている国がある。

 そんな話は別にしても、僕が違和を覚えるもう一つの理由として、この人骨の主たちは死んでまで「国家の虜囚」であり続けなければならないのか、という問題がある。
 たとえば中国政府は(どこの国もまあ同じだが)、こういった事件を民衆に示すにあたって、「見よ、だから強い国家が必要なのだ。こうした侵略を打ち払うために、国民党は何もできなかった。共産党こそが、今あるように人民が安心して暮らせる(軍事的に)強い国を作れるのだ。これからも愛国心の名の下、団結しよう!」という論理を持ち出す(皮肉なことに、これは戦争の傷跡も生々しかった中華人民共和国の成立当初などより、経済発展著しい最近になって、むしろ露骨に持ち出されるようになった論理だという面がある)。
 だが僕はこの考えに反対である。人類の歴史において、軍隊があれば民衆が守られるという理屈自体が、ほとんどの場合本末転倒のこじつけに近い、と僕は思う。多くの場合、軍隊なんぞがあるから、民衆の犠牲者が出る。南京事件の場合―南京事件でさえ、と言うべきだろう―首都防衛のためと称して勝ち目のない指令を出し、案の定無理だと分かるやさっさとトンズラをこいた国民党軍の指導者のせいで、逃げそこなった大量の武装解除兵士が市内に流れ込み、日本軍に「残党狩り」の口実を与え、市民の犠牲を拡大した、という側面は否定できない。
 もちろん、「じゃあ、とっとと降伏しておけば虐殺はなかったというのか!」と言われたら、それは違う。南京のような都市だろうと、もっと田舎の農村だろうと、日本軍の行く先々で虐殺はあった。中国人の抵抗の強い・弱い、ある・なしに関わらず。それは、はっきり言うが軍隊というものの(人間というものの、ではない)本質である。日本が中国を侵略したのであって、その逆ではないことを絶対的に確認した上で、それでもそれは単なる「軍隊の本質」だ、と僕は言いたい。
 中国人の中には、僕の言うそれは「侵略軍」の本質であり、「自衛軍」の本質ではない!と反論する人も多いだろう。大陸における旧日本軍がまごうことなき「侵略者」の体裁を備えていたことも、それに対抗する中国軍、とりわけ共産党の八路軍が、まさに人民の模範ともいうべき果敢さと礼儀正しさとを備えていたことは、僕だって重々承知している(それが共産党による政権奪取を可能にした大きな理由の一つだ)。だが、それは各々の立場の、状況の違いから生じた差異であって、固定的なものではない。何より近代のほとんどの戦争は、「自衛のため」という名目で始まったことを忘れるわけにはいかない。特に、未来を見据えた場合には。
 あるいは、当地の日本軍の目立った特性として、婦女子に対する暴行のひどさがあった。南京事件は「大虐殺」以前に「大強姦」事件でもあった。だから殺されなくてもレイプはされる、それに甘んじた方がましだったのかと問われれば、それもそうだとは答えられない。よりにもよって日本人の僕がそんなことを言えるわけがない。
 僕がここでこだわっているのは、あくまでも惨禍の規模である。「強い国」を志向することが、民衆の安全を保障するというのは幻想ではないのか、中途半端に対抗力を備えた軍隊が存在しなければ、「南京大虐殺」は「小虐殺」かせめて「中虐殺」で済んだ可能性が高いのではないか、という問題である。現実には「小」だろうと「中」だろうと、殺された者にとっては何の慰めにもならないことは承知した上で、である。
 アホかお前は、「中途半端に」ではなく「絶対的に強い」軍隊があれば、「小虐殺」すらなかったはずだろうが?という問いも、ここでは別問題である。なぜなら軍事力に「絶対的に強い」「これだけ強ければもう安心」という基準など、実は存在しないから。それは現代に近ければ近いほど、歴史が証明している。だがとにかく、そんな話についてはいずれ稿をあらためて。

 ちなみに、僕は上のようなことを、「記念館」の展示を眺めながら思っていたわけではない。日本に戻ってから、さらに南京事件の資料等に新たに触れる機会ごとに、少しずつ少しずつ、考え足していったのである。

 記念館の話に戻ろう。
 僕が本当に強い印象を受けたのは、展示物の最後の方に、日本人が書いた「南京事件」に関する書籍が集められ並べられている一角があったことである。先述の本多氏の本なども、もちろんあった。
 自分が持っている、読んだことのある本が、異国の地でこんな形で展示されているのを見るのは、なんだか奇妙な感覚だった。と同時に、その書籍の陳列を眺めていて、やっと僕はこれは日本人がしでかしたことであり、自分はその日本人なのだという、最も当たり前な現実に、実感として行き着いた。それまでだらだらと館内を見て回っている時にはほとんど平常心だったのに、急に僕は恥ずかしさに襲われ、そわそわしだした。平常心でいた数十秒前までの自分を思い出して、恥ずかしかったのだ。一体何を気取っていたんだ俺は。僕は日本からの旅行者ですけど、別に冷静ですよ〜という顔をあえて誇示するように、気を張って歩いていたさっきまでの自分は、一体何なんだ?

 記念館を出て、僕らは太って悲しげな顔つきが印象的な館長さんと、外庭で記念写真に収まった。
 小石が平たく敷き詰められた広い外庭に、いくつかのレリーフと彫像が置かれていた。彫像は、我が子をさがし求める母親の像(正式なタイトルは知らない)といった感じのものだ。やや前のめりの姿勢で、遠くを見据え、我が子を抱こうにも抱けない空虚な手を、無意識に少しだけ持ち上げている。その目線の先は、白い霧に包まれて見通せない。
 霧というのは、この時期揚子江からやってくる霧である。僕らが訪れたのは真冬で、それはすなわち事件のあったのと同じ季節である。あの時の南京も、日により場所によってはこんな深い霧が立ち込めていたのだろうか。こんな霧の中で、銃声と悲鳴が絶え間なく響いていたのだろうか。
 人骨の展示などより、僕はこの霧の生々しさにショックを受けていた。

 南京滞在はわずか2泊だったが、いろいろなところを見ることができた。ツアー・リーダーの方のツテのおかげで、現地のガイドさん(本職ではない。慈善団体「紅十字会」の人など)を始め、たくさんの親切で好意的な中国の人達の歓待を受けることができた。僕らの旅行の目的は了解していたはずだが、誰一人そのことに関して、たとえば「あなたたち日本人はもっと歴史を知るべきだ、反省するべきだ」などといった話を持ち出す人はいなかった。誰一人。
 たとえば記念館を出た後に、そこから程近い雨花台という史跡公園に向かった(*2)。実は僕ら一行の中には、父親が戦後まもなく南京で捕らえられ、虐殺の責任者の一人として処刑されたという、年配の女性が含まれていた(この日本兵のことは、事件関係の書籍でも取り上げられている)。その人にとっては個人的な「慰霊の地」参りを兼ねた旅行だったのである。公園の一角に、その処刑された場所があり、彼女はそこに線香を手向けた。中国人のガイドさんたちも一緒に、皆で手を合わせて黙祷した。近くで遊んでいた子供たちが、不思議そうな顔で僕らを見ていた。
 市内のカラオケ・バーに行った際には、ガイドさんのツテで、南京大学の日本語学科で学んでいる女子大生の一団が、遊びに来てくれた。
 彼女たちの多くは、日本企業に就職するのが夢だという。僕の横に座った人もそうだった。彼女はまた山口百恵をほとんど「崇拝」していて、「百恵さんのことなら何でも知っています」と、僕が山口百恵の関係者でもあるかのように、熱っぽく語った。農家の庭先でつつましく野菜の泥を落としていたりするのが似合いそうな、「純朴」を絵に描いたような人だった。
 ステージには僕ら日本人と中国人が、かわるがわる立って歌った。店には地元の人達も歌いに来ていたので、自然と日中対抗歌合戦的様相を呈することになった。その内の一人のおっさんは、僕らが日本人の一行だと知って、「北国の春」(の中国語版。当時中国でヒットしていた)を見事な歌唱力で熱唱して、深々とおじぎをした。お返しに、僕らの中で中国のヒット曲を知っている人が、その曲を女子大生とデュエットして、喝采を浴びた。僕の横の例の彼女は、「いい日旅立ち」を、こちらは日本語で完璧に歌いこなした。「ああ♪ 日本のどこかに わたしを待ってる 人がいる─

 上海では別のガイドさんも、バスの車内でマイクをもって、こちらはオリジナルの「北国の春」を歌ってくれた(しかし上海も南京も北国ではないのだが)。歌はともかく、話す日本語にちょっと変な癖があって、そのせいで僕らをかなり笑わせてくれた人である。
 このガイドさんが、空港へ向かうバスの中で、最後の挨拶として、こんな演説をした。

「一つだけね、言わせてください。
これからも、中国と日本の間には、何か問題が起きることがあるかもしれません。でもね、国と国が、政府と政府が何をやろうが、関係ないんです。私達が、一般の国民同士が勝手に仲良くしてしまえばいいんです。今回の私達のように。それが一番なんです。それだけは忘れないでください。ありがとうございました」

 パチパチパチ。
 そう、何か付け加えることがあるだろうか?これはこのガイドさんに限らず、僕らがこの旅で出会った、ほとんどすべての中国人の想いだったと思う。
 付け加えることがあるといえば、それは僕がこの人たちの想いに応えるべく、これといったものを形にできないまま、今日まで過ごしてきてしまったことである。そういうことではいけないと、最近つくづく思ってしまったのである。
 それでこの文章を書いた。だがこれで終わるわけじゃない。


*1 都市部にも出没するヒルの一種。詳しくはこちらをどうぞ。ひそかに人気者です^^)。

*2 最初にこの文章を書いたとき、これを中山公園(中山陵)の出来事と書いてしまいましたが、後から記録を調べ直したら、こちらの誤りでした。すいません。

追記:
 リンクページでも紹介している「寺島研究室・別館」に、6月29日付けで寺島教授のレポートが掲載されています。

  日中「国際理解教育」シンポジウムで考えたこと
  (なぜか文字が大きいので、文字サイズは「小」にして読む方がいいみたいです)

 僕の本稿と直接関係があるわけではないですが、様々な点で興味深い問題を提起していると感じました。
ぜひ、合わせてお読みください。


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