「良心的反日」のために−1

2005年6月8日 レイランダー・セグンド

la civilisation faible
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 お約束の現象がまたやってきた。
 海外で何か事件が起きる。気になるのはまず「邦人の安否」。そりゃそうだ。ここは「邦人」の暮らす国。心配は心配よねえ。他人事ではあるけれど。ヤジ馬根性でもあるけれど。・・・という、お約束の現象が。
 それだけなら、別に僕は構わない。勝手にしさらせ、である。

 しかしこのたびはヨーヘーさんであった。給料をもらって殺し合いに参加することを、志願して引き受けた人のお話であった。
 別に「傭兵」が倫理としていいか悪いか、そんな問題に僕は今さら興味はない。論じたい人は論じればいい。僕は御免だ(「傭兵」ではなく「警備員」だ、などという話は却下。そんな冗談につきあってるほど暇じゃない)。
 それよりも、そもそも自衛隊員でもない「傭兵」に対して、なぜ国が救出に乗り出さねばならないのか、という方が奇妙な話ではある。今度という今度こそ、まさに自己責任であり、雇われていた会社の責任だ。国に何の関わりがあるのか。あえて言うなら、今度という今度こそ、「国」にとっては迷惑な事態の出現ではないのか?(僕は「国」じゃないからどうでもいいけど)だがそんな論調は、意外と影を潜めている。不気味なほど、と言ってもいいくらい。
 聞けば、彼は元自衛隊員だが、自衛隊のおざなりな実戦訓練に失望し、本物の戦闘を経験したくてフランス外人部隊に入ったような経歴の持ち主だという。日本社会においてはビミョーというか、扱いに困る一種の「鬼子」的存在である。くり返すが、そんな人だから安否を心配しなくていい、と言いたいわけではない。昨年の「人質事件」の3人などと比べて、国やメディアはずいぶん礼儀正しく、親切心もあらわに対応していることに、皮肉の百も二百もぶつけたいところだが、ひとまず置いておく。確かにそれも見過ごせない点だけれど、気になることはそれ以前にあるからだ。

 僕の興味が嫌でも向いてしまうのは、冬山登山の遭難者のように、災害の被災者のように、強盗事件や暴力事件の被害者のように、この「傭兵」も日本人ゆえにその安否に関心が持たれるという、それが依然として多数の日本人にとっての「中東問題」なのか、という一点である。
 いや、なのかどうかを教えてもらいたいのではない。本当はもうわかっている。カマトトぶってごめん。依然としてそうだからどうしましょ、という話なのだ。

 つまり、イラク人が100人死のうと1000人死のうと、ニュースはニュースらしく淡々と流れていく。それでいいのかもしれない。ニュースなんてそんなものかもしれない。
 だがそれならどうして、日本人の「傭兵」一人が死んだの死なないだのいうことに、ニュースはこんなにも時間とスペースを割くのだろう?
 ここは日本だから。そんな答えが返ってくる。いいだろう。しかし、日本に暮らす者は日本人にしか興味を持ってはならない、わけではあるまい。ここは日本だから、日々不条理な苦痛や死を甘受せざるをえない外国人がどれだけいても、その外国にいる日本人のミリタリスト一人の生死を心配するほうが自然だ、というわけでもあるまい。
 あるまい・・・よね?
 ならばどうして?
 報道のトーンのことを言っているのではない。「傭兵」に同情的か、あるいは「傭兵」の身内の人達に同情的か。んなことはどうでもいい。
 トーン以前の問題である。なぜそもそも、身内の映像やコメントを垂れ流すのだろう。誰がそんな情報を欲しがるのだろう?それを見て、聞いて、何がわかるというのだろう?ましてやなぜ、身内の者が「殺害映像」を観たか観なかったかが、問題にされるのだろう?それがどれだけ残虐な映像であったかということが、なぜ報道の焦点になるのだろう?
 ここが日本だから?
 クエスチョン・マークの洪水状態になってきたが、今しばらく我慢していただきたい。
 結局のところ、「傭兵」氏とその同僚は、職務を完遂できなかったわけだ。ある意味ざまあみろだし、ある意味残念でござんした(同じか)。
 ところで、逆にその職務を完遂した場合、ひょっとしたら(ひょっとしなくても)死ぬことになったはずのアラブ人やその身内の者達は、なぜ報道の焦点にならないのだろう?「傭兵」氏やその家族を襲った悲劇の数百倍、数千倍の規模でそれは起こっている。なのに、なぜそれらは「事件」ではなく、たかだか「事件の背景」として、目を凝らさねば判らないような遠景へと押しやられるのだろう?

 そんなつもりはない、と言うのだろう。公正・公平をモットーに掲げるメディア各局は、ちゃんと現地の人たちのことも取り上げてますよと。アリバイ作りのためにでもね。
 取り上げていることは僕だって知っている。だがその取り上げ方には、なんでこんな量的差が存在するのか。単なる時間とスペースの量ばかりではない。そこに注入される甘ったるい感情の総量が、桁外れに違っている。こんな「公平」がありえるか、というくらいに。
 感情を煽り立てるような報道に感情的に反発しているようでは、世話はない。それは重々わかっている。もともと大手メディアの報道には、ほとんど何の期待もしていない。
 第一、ニュースがそうであるのは、視聴者がそれを望んでいるからだ。アラブ人の頭が吹き飛ばされようと手がちぎれようと、同情はするけれども、そんなものはお茶の間で見たくない。絵的には「油にまみれた海鳥」の方が好ましい。汗にまみれて働く日本人、の方がもっと好ましいかもしれない。もっと言えば、同情に値する「日本人の物語」こそ、お茶の間が要求するものである。
 つまり、同情には2種類ある。日本人に対する同情と、それ以外のもの(動物を含む)に対する同情である。
 あのさあ、

 日本人って、そんなに偉いのか?

 この年になるまで知らなかった。

 そんなに日本人が偉いというなら、ここではっきり宣言しよう。
 僕は“日本人”を返上する。今日からは、そうだな、土星人ということにでもしてもらおう。
 とにもかくにも、“日本人”の側にいるより、“人間”の側にいたいから。ただそれだけの理由。土星人も人間だという前提の上だけど。
 そう、これは僕の「反日」宣言である。

 イラク人やその他ガイジンが何人死のうと、それより日本人1人の安否を気にする方が“自然”である、それが日本人の“こころ”であると言うのなら、金輪際そんな“自然”や“こころ”とは、僕は縁を切りたい。
 別にイラク人が好きなわけではない。日本人より外国人一般が好きなわけでもない。ただ、犯罪の加害者でありながら被害者に責任を転嫁して正義ヅラをする、そんなグロテスクな社会に耐えられるほど、神経が太くないだけだ。日本に生まれ育ったからといって、そんな誤魔化し行為に自動的に強制的に加担させられるのは御免なだけである。

 「良心的反日」をここに宣言する。みなさんもどうですか?


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