「良心的反日」のために−2

2005年7月5日 レイランダー・セグンド

la civilisation faible
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 本来、およそ「反○○」という物言い全般に、僕は懐疑的になるタチの人間である。ましてそれが、一方の対象をひたすらコケにすることに執心しながら、他方を無批判に受け入れるようなものならば。
 実際、中国や韓国で表面的に突出する「反日」にも、そういった傾向がないとは言えない。だがそれがすべてだとも言えないのも、また事実である。「反日」であることが自分の国を無批判に「愛する」ことにつながらない、そこにも「良心的反日」は存在する。
 であるなら、同時に「良心的反中」や「良心的反韓」もありえる。原理としてそうである。「反日」だけが特殊な反(アンチ)であるわけじゃなし(*1)。中国や韓国等を批判しながら、返す刀で日本を切る、というスタンスに立てば、これまで見えていなかったものが見えてくるかもしれない。
 ただ、僕はそんな言い方をしながら、「反日」とそれ以外を相対化して見せたいわけではない。「良心的反日」という立場を認めるなら、もう一歩踏み込んで、日本人である自らが進んでその立場に立てばいい、と主張したいのだ。何も外国人だけに「反日」をやらせておくことはない。いや、我々が進んでやるなら、外国人がそれをやる理由なんてなくなるだろうし、ならばこれ以上平和に貢献できる立場もないのだ。「良心的反中」や「良心的反韓」は、そっちの国の人に任せておけばいい。そう、すべての国の人が、おのおのの国でそうすればいい。

 もちろんこんなことを書いても、「何をくだらん世迷言を・・・」と思う人が多いのは承知している(だから書く価値があるんだけどね)。
 おまえの論理にしたがっていたら、命がいくつあっても、いや、国がいくつあっても足りんわい、と言うのだろう。こっちが「反日」をやれば、向こうはもっと調子づいて「反日」をやる。日本を破壊し、転覆し、占領し、支配するまでやるだろう。やつらが「良心的反中」や「良心的反韓」をやってくれるなんて、どうしたら当てにできるのだ?と言うのだろう。
 一見もっともらしい、現実的な反論のようだが、これを言う人達は、自分達自身が、やっつけたい相手に塩を送っていることに気づいているだろうか?中国人や韓国人が「反日」をやるロジックをまんま肯定していることに気づく脳みそがあるだろうか?そういう意味でも―つまり二重の意味で―自分達こそが「反日」の起こる原因であり、「反日」が永久に終わらない理由そのものであることに、日本最後の日には気がつくのだろうか?
 もっと単純な話、「人のふり見てわがふり直せ」という小学生でも知っていることわざの意味を、彼らは知っているのだろうか。

 だけど、そんなのは屁理屈だ、と言うのであろう。もっと素直に、自分の国を愛して何が悪い?と言いたいのであろう。
 それなら答えよう。というか、実はもう答えているようなものだが、言い直しておこう。

 「国」を愛するのは悪いことだ。
 なぜなら、それは今、目の前で苦しんでいる人を愛することを妨げるからだ。
 今目の前で苦しんでいる人を愛することなしに、我々の暮らすこの地が良き場所になることはありえない。ありえないのに、それ抜きで愛されることが可能な「国」とは、愛されることを要求する「国」とは、一体何なのだ?
 それは人を奴隷にする「国」だ。人を人形に、イミテーションにする「国」だ。
 そんな「国」を愛することが、悪であるのはわかりきっている。ピラミッドを愛せ、というのと変わらない。

 もちろんこの場合、「目の前で苦しんでいる人」の定義が焦点になる。自分にとって「目の前の人」イコール日本人だというなら、それはそれで構わない(ちなみにその“日本人”には「反日」の僕も含まれるのかな?)。
 だが、それが常にそうであると決めてかかることが僕には理解できないし、その必要も感じられない。誰しも自分の親兄弟や友人が「目の前」であるのは、ほぼ常にそうだが、そこから“日本人/日本民族”に視野を広げられるなら、世界のすべての――そしてしばしば「日本人より苦しんでいる」人々に目が向くのにも、それほど苦労が要るだろうか?(*2)。苦労が要るとしたら、それは我々が置かれているシステムに、何かそういうところがあるからではないだろうか。
 そういうところ、つまり、・日本>地球・とか、・日本>県・とかいうのが標準的な国民(國民の方がイイかな)の意識であるべきという、非常にソフトな、だけど執拗な刷り込みが(・日本代表>Jリーグ・なんていうのも、個人的には昔から不満だったりして)。

 あるいはこんな例を思い浮かべてみてもいい。車道に飛び出してしまった子供がいた。そこに体を投げ出してかばおうとする時、その子の国籍を知っている必要があるだろうか?結局、目の前の人=日本人という固定観念で生きている人ですら、いざという時、身を挺してその子を守ってくれるなら、僕はもう、なんにも、なんにも不満はないのだ。その人は会社員だろうが首相だろうが、右翼だろうが左翼だろうが、ホームレスだろうが3丁目のオカマだろうが、立派な人だ。できるかどうかは別として、僕もまた、そうありたいと思っている。しかし、いったいそれは特別な理念だろうか?
 いつだったか、駅のホームから落ちた日本人を助けて、自分は亡くなったという韓国人留学生がいた。その人が日頃どんな理念を抱いていたかなど知らないが、ニュースなどで聞いた限りの情報では、いたって普通の人だったように記憶している。
 しかし、何か特別な理念や特別なモットーを身に着けていれば、誰でもとっさにあのような行動ができるというわけでもないはずだ。逆にとっさの出来事だったから、相手が何者だかなど詮索するゆとりはないし、そんな瞬間にこそ、人間の本性が出たのだろう。そして僕は、それができた人はもちろんほめたたえられるべきだが、できなければ人間としてダメ、とも言えないと思う。僕らは、人間には──すべての人間には、あの人のようなことができる可能性があると、知っているだけで十分だと思うのだ。知っていればこそ、「反日」だの「反中/嫌韓」だのという現象に対して、おのずと取るべき態度は見えてくるのではないだろうか。
 あらためて。「目の前の人」が誰であるかについて、他人にそれを定義する権利など僕にはない。各自勝手に選んでくれればいい。逆に政府やメディアが「目の前の人=日本人」という前提を絶対的なものとして押し付けてきても、それに従ういわれはない、ということだけはくり返し表明したい。
 それは凍りついたオートマティズム(byジャン・ジュネ)だ。差異のイデオロギーがオートマティズムに乗っかるとき、必ず弱者が虐待の憂き目に会う。


*1 強いてあげるなら、「反米」だけは特殊なアンチ、と言えなくもない。というのも、(ソ連解体以降は特に)アメリカが何においても最も影響力を持つ、「唯一の超大国」であるという特殊事情があるからだ。「反米」は、U.S.A.という一国に対するアンチという側面と、世界で最も強力なステイト・パワーに対するアンチという側面の両方に、いやでもまたがってしまう。後者はまた、世界を覆いつくさんとする新自由主義的経済構造に対するアンチにも重なる。放っておいても「反日」や「反中」などより、まるっきりターゲットが広いのだ。
  そういう意味では、現代社会で唯一意義のある(国名付きの)アンチは「反米」なのかもしれない。しかし、そうであってすら、僕は「反米」を声高に主張することに抵抗を覚える。まず、的が広過ぎて、かえってリアリティがなくなるし、どこか他人事のような「アンチ」に聞こえてしまうからだ。
 上の「良心的反日」のロジックに立って、唯一意義があるのは「アメリカ人による反米だ」というなら、まだ正解に近いと思う。いずれにせよ、何でもかんでも安直に「反」をつければそれと戦っている気になってしまうのは、いけません。気をつけませう。 


*2  ましてその苦しみに我々が加担しているならば、である。というか、僕の憤りの本質は、実はそっちにこそあるのだが、それはいずれ項をあらためて書きたい。

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