改革という呪文

2005年8月26日 レイランダー・セグンド

la civilisation faible
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これが新しい音
あたかも古い音
真新しい地面につけられた
首輪の傷跡のような
(Rage Against The Machine
“Ashes In The Fall”)





 「問題な日本語」という本が売れている、らしい。
 たとえばコンビニの店員が「1万円からお預かりします」なんて言う。こういう日本語の乱れを検証するという、例によって例のごとくの本である。少し前には「ら抜きことば」や「女子高生ことば」なんかが槍玉に上がったが、基本的にはその延長上にある問題提起である。
 「1万円・お預かりします」を「1万円から」と言うのは、おそらくその方が軽快なイントネーションを生むからだろう。僕は「から」を入れない方が好きだが、入れたくなる人の気持ちもわかる。どっちかに強制的に統一するより、並存していていいのでは、と思う。
 だから、そういうことを憂慮するのが全くの的外れだとまでは言わないが、さほど大きな問題だとは思えない。何とすれば、江戸時代の町人の言葉だって、平安貴族からすれば大いに乱れた「野卑な」ものだったはずである。
 もちろん、この「問題な日本語」という本の執筆陣も、言葉のプロだけあって、そのくらいのことは承知している。言葉は生き物である。時代とそこに暮らす庶民の意識を反映してどんどん変わっていく。それが普通なのだ。そういう前提の下に書かれてはいる。

 だが、それがわかっていても、僕はこの本を本質的にバカバカしいと思う。
 なぜならこの本には、この国で一貫して日本語を――否、外来語も含む言葉全般か――徹底的にないがしろにしてきたのは、一も二もなく日本の政治家達であるという視点が、見事なまでにすっぽ抜けているからである。
 一般の庶民が日本語を乱すとしても、それは悪意によるものではないし、せいぜい大半は「言葉遣い」のレベルである。しかも用法を間違ったとしても、それで損をするのはほとんど自分たちだけだ。
 だが政治家達は、嘘を押し通すために平気で白を黒と言う。白を黒と言える神経がなければ政治家は務まらない、と言わんばかりに。
 日本の政治家こそ、間違いなく最大の日本語破壊者である。憂慮どころでは済まない。罰せられたっていい。
 言葉の用法に異議を唱える本でありながら、そんな話が一言でも、冗談交じりにすら言及されないというのは、今どきかなり不自然なことのような気がする。この本に限らないかもしれないが。

 たとえば近頃、というかここ10年くらい、耳にタコができるほど聞かされてきたのは「改革」という呪文である。
 小泉首相が飽くことなく繰り出す「改革」という言葉は、僕には何かの呪文のようにしか聞こえない。一般の国民にとって何がどう「改革」されるのか、依然として見えてこないからだ。
 それもそのはずだろう。それは「改革」ではないのだから。

 郵政民営化というドグマをめぐる細かい議論は他所に譲るとして、それが一般の国民にとって切羽詰った課題でも何でもないことだけは確かである。この課題が意味を持つのは、小泉やそのブレーン達や、国内の支持基盤である右派と「勝ち組」のニューライトにとってである。
 背景には、アメリカをその主軸とする新自由主義経済の推進という力が働いている。彼らは何から何までアメリカのやり方に倣うことによって、地球における「勝ち組」にもなりたいのである。あるいは既に「勝ち組」だった日本の基盤を、(遅きに失した感はあるが)冷戦後の新情勢に合わせて、より情け容赦ない形で作り直したい。それによって「強い国」になりたいのである。そのために邪魔になるものは取り除きたいのである。
 つまり郵政民営化というドメスティックな問題がどっちに転ぼうと、それだけで一件落着というわけにはいかない未来が我々には待っている。
 だが「痛み」は我々のものらしい。「改革」の恩恵は特にないが(あってもめぐりめぐって忘れた頃にポツっと一滴落ちて来る)、「痛み」を引き受けなければならないのは我々だというのである。

 こんな「改革」に納得できる国民のいることが不思議だ。というか、そんなもん改革じゃねえだろ!の一言で済みそうなものである。
 だがそれができない。見抜けないからだ。
 小泉一人の功績ではない。それは日本の政治が戦後の長い時間をかけて築き上げてきた、「言語無意味化計画」の成果なのではないかと、今さらながらに思う。

 そしてその報いが、当の政治家達にも及んでいる。彼らは言葉で国民を説得する能力を、ほとんど苦笑してしまうほど欠いている(だからくだらないパフォーマンスに頼らざるを得ないのか)。
 小泉に反旗を翻した「国民新党」がいい例である。
 彼らは「改革は改革でも、弱者を切り捨てない改革を」という。それはまったくそう願いたいのだが、考えてみれば異様なスローガンである。弱者を切り捨てたところに改革があるということ自体が、民主社会ならばありえないのだという、根本的な矛盾をなぜ突くことができないか?「国民」の名を冠した政党として、名倒れもいいところである。
 あるいはまた「世の中には改革しなくてもいい事柄もある。日本の伝統・文化がそれだ」などと、小泉派がむしろ喜んで同調しそうなことまで言う。伝統やら文化やらを、いつでも権力者の側から規定できるという発想である。それも「国民」の名において、である。
 どんな国のどんな時代であれ、伝統や文化は常に「改革」されてきたし、これからも「改革」され続けるべきである。それはその伝統や文化が真に国民のものである限り、当たり前の話だ。
 変えたら悪くなるものは変えなくていい。それは「改革しない」ことではなく、それが「改革ではない」からやるべきではない、というだけの話である。
 なぜこんな簡単な話を普通にできないのだろう?「改革すべきことと、改革すべきでないことがある。それが我が党の立場です」と彼らはくり返す。「それで“守旧派”と呼ばれても仕方ない」と開き直る。そうではなくて、「改革すべきでないこと」は、正確には「改革ではないこと」だと、なぜはっきり言えないのだろう。
 それは彼らが国民の視点からそれを見ていないからではないか。しょせんは敵対する勢力と同じ視点からしか、状況を捉えられないからではないのか。だから敵と同じレトリックに立って「反」を唱えるしかないのではないか。
 そんなわけだから、この「国民新党」も、僕には「彼らの新党」にしか見えないのである。

 そうはいっても、9.11選挙を前にして、選択肢はそう多くはない。
 いつだったか佐高信が言っていた、「クリーンなタカ派とダーティなハト派、どちらかしかないとしたら、どっちを選ぶ?」という、「究極の選択」みたいな局面も、選挙区によっては出てくるだろう。あるいはそれこそ「弱者に厳しい“改革派”と、弱者に優しい“守旧派”」かもしれない。史上最低の首相に退場願うためには、背に腹は変えられない、という局面が。

 長期的な展望はそれとは別だ。僕らはこれから、本当に「言葉」というものを取り戻していかなければならない。政治家の虚ろな言説に惑わされない言葉を。選挙が終わったら民主主義も終わる、ではお話にならない。

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