わかりやすいことを言ったほうが勝ち

2005年9月2日 レイランダー・セグンド

la civilisation faible
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歴史はくり返す。
一度目は悲劇、
二度目は茶番。
(ヘーゲル)




 一つの社会の末期状況の話。
 世の中に、難しいことはいくらだってある。僕だってわからないことだらけだ。でもわかろうと思っている限り、それを恥じる必要はないし、肩肘張って「わからなくては!」と思いつめる必要もない。物事は必要に応じてわかっていくもので、それは普通のことだと思う。

 だが今この国にある状況は、ちょっと違う。
 多くの場合、わかろうとする必要を人々が感じていない。
 それが、「どうせわからないし」というあきらめや、「わかりたくないもない!」という反発から来るものなら、まだしも「そんなこと言うなよ」と慰めたり励ましたりもできるだろう。実際、一昔前はそれがよくある状況だった気がする。
 だが、どうも最近人々がわかろうとする必要を感じていないのは、そうではなく、自分達はわかっていると思っているかららしいのだ。
 なぜわかっていると思うかといえば、わかった気にさせる状況が人の暮らしを覆っているからだ。この“先進的な情報化社会”にあれば、それだけで自分達は必要な情報を得られている、また十分な教育を受けている自分達は十分な理解力も備えていると、あっさり信じられているようなのだ。
 そんな状況の中で、「わかりやすいこと」を言う者は、正しいことを実践する裏表のない正直者、と見なされやすい。逆にわかりにくいことを言う者は、何か人をだまくらかそうとする魂胆がある奴、あるいは頭のいいのを鼻にかけたひねくれた嫌な奴、と思われやすい。
 だからわかりやすいことを言ったほうが勝ち。ヒトラーしかり、小泉しかり。

 ↑という、上の記述自体が、話を単純化してわかりやすくしていると気がつく人は賢明だ。
 小泉をヒトラーになぞらえたくなる気持ちはわかるが、仮に彼がヒトラーのクローンだとしても(おお、『ブラジルから来た少年』)、問題はそのこと自体にあるのではない。ヒトラーに騙される我々の方の問題である。
 どうして我々は騙されるんだろう?それは、騙される方が(その時は)何だか安心だし、気分がいいからだ。じゃあ、どうして気分が良くなってしまうんだろう?
 そういったことを、一人一人が胸に手を当てて考えることなくして、小泉≒ヒトラー説に乗っかっていても何も始まらない。
 同意なくしてヒトラーなし。

 とはいえ、少なからぬ人たちが小泉とヒトラーの近似性について言及し始めたことは、興味深い事実だ。しかも、立場を異にする人たちによってそれがなされたことが、ますます興味深い。
 まず亀井静香の発言*1だが、これはどうも党内での政敵追い出しプロセスを“ヒトラー流”と言っているだけの、かなり感情的な話のようなので、あまり真に受けてもしょうがない。

 それとは別にTVなどでもお馴染みの政治評論家・森田実氏が、「森田総研」のサイト等でくり返し行っている現政権批判は、質・量ともに目を瞠るものがある。さすが本職、と言ってしまえばそれまでだが。
 ヒトラー云々と絡めた話としては、「森田実の時代を斬る」〜8.25および8.27あたりの論説。ここでのポイントは、ヒトラーに小泉がどう似ているかの話というより、アメリカがなぜ「小泉ヒトラー」を望んでいるか、というところである。正確には、どうして郵貯民営化がアメリカを利するか、の話というべきか。
 不遜を承知で言わせてもらえば、僕はこの森田氏、「角栄擁護派」のイメージが強くて、今まであまり真面目に話を受け取ってこなかったが、食わず嫌いは良くないと反省させられた。今も彼の政治論に全面的に共感、というわけにはいかないけれど、少なくとも竹中平蔵みたいな山師より、まともな思想を持った人であることはわかった。って、それじゃ褒めたうちに入らないか。

 さらに、昨年5月の段階で「小泉純一郎氏とヒトラー」という、そのものズバリの題でコラムを書かれたのは音楽家の宇佐美保さんという方。肝心なことをぼかさない、いい意味で「わかりやすい」文章の好例であり、また引用されている人達の話(中村敦夫、浅田次郎ら)もふくめて、心から共感できた。そう、浅田次郎って「反戦自衛官」だったんだよなあ・・・。というわけで是非読んでください。

 その他「小泉+ヒトラー」で検索すると、驚くほどの数の記事がヒットする。それぞれ「こういうところが似てる」「こういうところは似てない」と、様々な分析を試みていて、それを頭ごなしに否定する勢力(まあ、たいていお寒いネット右翼の類だが)の言説に比べれば、色々と勉強にはなる。
 しかしいずれにしろ、問題なのは小泉≒ヒトラー説の妥当性なんかではないと思う。「小泉ヒトラー」は、下手をすれば、いや、しなくても既に、我々をわかったような気にさせるもう一つのわかりやすいクリシェ(常套句)になりつつあるのではないか。
 「小泉は東条英機同様、もっと上の人間から辞めさせられる可能性があるのだから、ヒトラーのような終身独裁者と比較するのはおかしい」というのも、もっともな話だ。いくらでも取替え可能な部品の一つに過ぎない。その意味では、むしろムッソリーニを思い出す方が有用かもしれない。ムッソリーニ個人というより、ムッソリーニが成功させた勝利の方程式のことを。
 「ファシズム」という言葉はムッソリーニのファシスト党(イタリア語のファッショ=束、団結みたいな意味)から始まった。それは「社会主義」の名の下の「国家資本主義」に等しいものだった。
 おそらく我々の多くは、「ファシズム」という言葉から、ハイル・ヒトラー!式の「軍国主義」や「全体主義」のイメージを、短絡的に思い浮かべがちである。だがそうではない。ファシズムはある種の資本主義のことである。それが軍部や富豪や地主たちに支持され「軍国主義」に結びつき、また旨みを知った一般の国民に支持されて「全体主義」として完成した、という方が本当だろう。それは最初から軍靴の響きとともに「わかりやすく」やって来たわけではない。
 「ファシズムは、正しくはコーポレイティズムと呼ばれるべきだ。だってそれは国家と企業の“協調合体”によって成り立つのだから」*2
 こう言ったのは、誰あろう、ムッソリーニ本人である。
 だが国民向けには、これよりもっと「わかりやすい」セリフを連呼していたのだろう。「北アフリカはイタリアの生命線である!」とか。
 ご存知のように、日本はこれを「大陸は日本の生命線である!」に言い換えた。中国侵略は日本軍部と大企業による大陸私営化プログラムである。だがそれは、不況にあえぐ国民のための「改革」プログラムであり、「五族協和」の錦の御旗とともに正当化されたのだった。
 今、小泉やその取り巻き達は、「民営化」の名の下で何を正当化しようとしているのだろう。選挙の前だろうと後だろうと、僕らはそれを注視し続けなければならない。
 
(この項、当初はDownstreamに書くつもりでしたが、長くなりそうなのでこちらにしました。ちょっとまとまりの悪い文章につき、面目ありません。)


*1  「ニュースステーション」でも同様の発言があったそうだが、こちらは講演での発言。
    http://newsflash.nifty.com/news/tp/tp__yomiuri_20050831i417.htm
    まあ、どうでもいいっちゃ、どうでもいい。

*2  出典不明。というか忘れた。いつか探しておきますm__m。

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