わかりやすくても勝てない野党−1

2005年9月11日 レイランダー・セグンド

la civilisation faible
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 日本共産党は不吉である。
 彼らはもう長いこと、「反対ばかりしている党」と揶揄されている。
 しかし僕はそれが悪いことだとは思わない。反対することに道理があるのなら、誰が何と言おうと反対するべきである。今の彼らより、もっともっといろんなことにしつこく反対する党があってもいいくらいだ。
 僕の共産党に対する不満は、だから「反対ばかりしていること」にあるのではない。
 彼らが、その「反対」を現実に具現化できたためしがないから、不満なのである。
 たとえば最近の参院での郵政法案否決のように、反対派の一翼としてそれを実現できることは、たまにはある。だがそれは共産党の実力というより、相手の与党勢力の内部分裂のおかげである。共産党のイニシアチヴによって、公約通りの「反対」が実現したことなどあるのか。僕は知らない。少なくとも僕が政治に多少なりとも関心を寄せるようになった1980年代後半以降、そのような記憶はない。
 むしろ、彼らが反対してきたことは、増税にせよ福祉切り捨てにせよ自衛隊の海外派遣にせよ、ことごとく実現してきた。まるで共産党が反対すると必ず(反対じゃない方に)実現されるという、絶対の法則でもあるかのように。
 だから不吉なのである。憲法9条も心配だ。僕は最近、「頼むから“反対”しないでくれ」とすら思うようになった。「あんたらが“反対”すると実現しちゃうんだから!」と。
 いっそ「反対の反対!」とか言ってくれないかな。「反対の賛成は賛成の反対なのだ」(C)バカボンのパパ、とか。

 冗談はともかく(冗談?・・・)、もっぱら小泉政権のポピュリズム手法を念頭に、「わかりやすいことを言ったほうが勝ち」だとあげつらった僕だったが、それはもちろん「騙される国民が悪い」というニュアンスを下敷きにしての見解だった。
 だが、対する野党も、その手法という点では大差ないということを、今さらながらに(ほんっと今さらだけど)痛感した、このたびの選挙戦である。むしろ、わかりやすいことを言ってすら騙すことができないんだったら、そりゃ万年野党も当然だわなと、これまた今さらながらに納得した。
 飛び交っていたのは「改革」という呪文、「マニフェスト」という呪文、「反対」という呪文ばかり。本当は、それらもはじめから呪文だったわけでない。それぞれの現実から出発した、内実のある言葉だった。
 だがそれを真に社会と共有するための努力の前に、意味をこそげ落として簡略化してしまう。結果、耳ざわりのいいスローガンだけが残り、「わかったようなわからんような」おなじみの世界が到来する。その理由・思惑は各党・各政治家さまざまだろうが、ありていには、詳しく説明すると自分達のボロや悪事がばれてしまうからだろう。
 だがそれでいい、その方が国民にとっても理解しやすいから、と言い張る政治家が、自民党ならともかく(昔からその手法だもの)、よりにもよって野党の側にも多いとなると、―ずいぶんなめられた国民もあったものだと思う。

 一方で、呪文というものは本来、感情を排した乾いた響きの文句になっているから、ある種耳ざわりの良さがあるものだ。対して日本の政治家が街頭で繰り出す呪文は、どうしてああもウエットで、これでもかというくらいに芝居じみているのだろう?
 ああいった音声を、気持ちいいと感じる人がどれだけいるのだろう?ほとんどの人は(特に若い人ほどそうだろうが)、生理的に反発してしまうのではないだろうか。そして挙句、話を聞こうという意欲も理解しようという気力も失せてしまう。政治家自身が、その声によって人びとを政治から遠ざけているのだ。
 それは単なる「声質」だけの問題ではない。声が「きれい」とか「きたない」とかの問題ではない。

 駅前を通るとき、共産党の応援演説とおぼしき、女性議員のつやつやした声が耳に飛び込んできた。

「皆さん?郵政民営化なんて、国民にはなあんのメリットもないんです」
 そのとおり。
「そればかりか、今よりもサービスが悪くなってしまうのですよ!」
 それは必ずしもそうではない・・・というか、そういう問題でもないんだが。
「儲かるのは、アメリカと日本の大銀行だけなのです」
 日本のは儲からんだろ・・・まあ、傾向としてはそんな感じだろうね。
「皆さん?年金はいったいどうなるんでしょう?」
 もう次の話題か。どうなるんでしょう。こっちが聞きたい。
「皆さん?医療費も高くなる一方なんです」
 知ってる。何か有効な手は?
「皆さん。たしかな野党が必要です」
 ・・・何が「たしか」なの?
 ・・・今まで、いつ、どこで「たしか」だったの?

 だんだん腹が立ってくるのである。まあ、「たしか」じゃなくても野党は必要だけどな。くそったれ。
 言っていることが的外れということではない。むしろ問題意識は、自分と共通するところが多い。社民党にしても民主党にしてもそうだ。それは演説など聞く前からわかっている。だって選挙公報にでも何にでも書いてあるんだから。
 じゃあ、演説では何が違うのか。
 声である。先述の、芝居っ気たっぷりの声。高校生の弁論コンクール準優勝みたいな真面目そのものの声。時に応じて、悪代官に手ごめにされた町方の娘・涙の訴えみたいなトーンが加わる。
 これは女性の場合で、男性の声ならもっとマシかというと、そうでもない。なんか、気が滅入ってくるから解説はやめておくが。
 いずれにしろ、これらすべてが「わかりやすさ」の名の下に正当化されるのである。

 しかし、その「わかりやすさ」とは、大概の有権者に「言いたいことはよくわかった。だがおまえには入れない」と思わせる「わかりやすさ」なのではなかったか。だからわかりやすいことを言っても、延々と勝てない歴史が続いているのではなかったのか。
 まあ、何をもって「勝利」とするかも、政治家の先生方と僕みたいなチンピラとでは認識が違うのかもしれないけど。


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