前回の話の続き。
選挙後にアップする形にはなってしまったが、この文章にしても前回の−1にしても、いわゆる“敗因分析”の類ではない、ということは断っておきたい。なんとすれば、負けたのは野党ではなく、大局的には国民全員だと思うからである。
前回は特に共産党を例にあげたが、別に共産党に特に問題があると思っているわけではない。それこそわかりやすい例だからだ。わかりやすさがわかりにくいという、わかりやすい例なのだ(なんじゃそりゃ)。
しかし、いったい何が「わかりやすい」のだろう。言うべき肝心のことを言わないで、何がわかりやすいというのだろう。
言うべき肝心のこと、それは各党の外に向けた自己批判ではないか。
共産党でいうなら、なぜ自分達は口で「反対」を叫ぶだけで、それを実現できないのか。なぜ支持層を拡大できないか。なぜ他の政党と連合を組んででも議会でイニシアチブを取れないのか。なぜ「民主集中制」に変わる党運営システムを構築できないのか。過去の社会主義圏との関係の総括はどうなっているのか。市民運動との関係は、世界の新しい左翼潮流との連帯は進んでいるのか。
説明すべき事柄はいくらでもある。これらを党大会だとか「赤旗」の読者だけに説明するのでなく、共産党なんてくだらねー、アブねーと思っている大多数の国民にこそ語らなければならない。
なのに聞こえてくるのは、被害者意識と内輪の自己満足だけだ。与党の連中はひどい奴らなんです。こんなに日本を悪くしてしまったのです、云々と。
奴らにそんなことをさせるがままにしている自分達の責任は感じないのか?自分達がだらしないばかりに、国民をこんな状態に放置してしまって申し訳ない、という謝罪はないのか?
冗談を言っているのではない。選挙期間中であろうとなかろうと、もし街頭で共産党の党員が感情を抑えた声で、淡々と、謝罪の弁を始めたら、―─単に物珍しさから、というだけでなく、人びとは足を止めるのではないだろうか。
「みなさん。わが党はこれこれしかじかの
失敗をしました。私たちはこんなに
矛盾しています。原因はこれこれしかじか・・・だと思います。対策としてはこれこれしかじか・・・だけどうまく行く保障はありません。でもみなさんが支持してくだされば、ここまではやれます。なぜやれるか。難しい話ですが聞いてください。みなさんの教育水準なら十分わかります。みなさんの持っている情報はこうです。加えて私たちの持っている情報はこうです。そこから先は、私たちにもわかりません。でも、ここまではやれます。やれとおっしゃるなら、やります。みなさんの命令で、私たちは
決断します」
共産党に限った話ではない。野党の議員や候補がこういう話し方をしているのを聞いたことがあるだろうか。
いや、かえって与党のベテランあたりの方が、勝者の余裕からか政権担当経験の強みからか、これに近い話し振りをしていることはたまに見かけるだろう。しかし、それと野党の人間がやる場合とでは、おのずと意味が違うはずだ。
国民を惹きつける度合いからいっても、いい勝負だろう。政治におよそ興味のない、ある意味浮動層以前の国民(全体の少なくとも3分の1を占める)に対しては、明らかに吸引力において勝る。それが即座に票に結びつくものではないにしても、長い時間をかければ確実にシンパを形成することにつながるし、与党に対して数の論理を超えた圧力――道義的な圧力をかけることにつながるだろう。
だが彼らは、こうした語り口を選ばない。そういう発想が浮かばないならともかく、むしろこうした語り口が「わかりにくい」もの、したがって有権者を政治から遠ざけてしまうものだと考えているのである。あるいはイメージ戦略の観点から、ネガティヴな印象を与えることは損であると思っているか。
しかし野党ともあろうものが、そんなセコい自己保身が透けて見える姿勢をとっていて、国民の共感を集められるものだろうか?とりわけ、共産党や社民党のような弱小政党が自己保身に走って何がどうなるというのだ!
民主党にしても同じようなものだ。確かに大所帯である彼らには、共産党や社民党に比べて守るべきものが多かった。そしてそれが彼らの手足を縛り、身のこなしを重くした。例のごとく「マニフェスト」を掲げることで、“情動”に対する“理知”の勝利を当てこんだのだろうが、そこに優等生的なにおいを嗅ぎ取って、嫌気を起こす国民が以前より増えている(いろいろプライドを傷つけられることが最近多い国民であるから!)ことまでは読めなかったのか。
どうあれ、国民の目からは、それはしょせん守りの姿勢に見えてしまったということだ。逆に守るべきものの多い民主党が、にもかかわらず、こんな寄り合い所帯の党なんてどうでもいい、国民のみなさんが救われるためなら、われわれを与党と利益集団にぶつける砲弾に使ってください!それでわが党がぶっ壊れたってかまいやしません!と訴えたなら、「それほどまでにこの国は危機なのか」と、無頓着な国民も意識しないでいられなかっただろう。
感情的だろうか。僕が言っているのは理想主義に過ぎる、だろうか?だが現に小泉はそれをやったのだ。本来野党が持っているべき「道義的優越」という最大の武器を、彼はいつの間にかかっぱらっていたのである。
小泉は理屈でもヴィジョンでもなく、(あるはずのない)道義的立場をアピールし、この道義を守るためなら自民党をぶっ潰してもいいという、その「本気度」をアピールすることによって、このたびもまた、大勝をつかんだのである。それによって、またしても党内の森派
(*1)が力を増し、「自民党を潰す」どころか、小泉をシンボリックな頂点に、森派で脇をかためた「ネオ自民党」を打建てることに成功したのだ(ただ、それが本当に彼らにとって良かったのかどうかは、今後の動向次第で微妙だとは思う)。
くりかえすが、こんなものは敗因分析でも勝因分析でもない。小泉一派がこういうことを目論んでいたのは周知のことのはずだ。これをさせないために、なぜ野党は小泉の手法を見越して「国の危機」を訴えなかったのだろう?なぜ小泉の手法を逆手にとって「私たちにこそ
改革を担当させてください―それをさせてくれないのは彼らです」と訴えなかったのだろう?
表面的な「わかりやすさ」
(*2)のヴェールにとらわれるのは、彼ら(与党)のルールにのっかるだけのことだ。カウンター勢力が仮にそんな方法で票を伸ばすことがあっても、そんな成功は短期的なものだ。なぜならその手の手法にかけては、与党の技術の蓄積にかなわないからである。だからといって自暴自棄に「むずかしさ」を前面に出して勝負しろというのではないが。
別の「わかりやすさ」を追求し、具現化しなければ、今後の野党は戦えない。今後の、というより、もうずいぶん前からそうだったはずなのだ。少なくとも、土井たか子ブームで躍進した「わかりやすい」社会党が、戦後二人目の首相まで輩出しながら、さまざまな揺れ返しと紆余曲折を経て分解してしまった頃から。
たとえば、表面的な「わかりやすさ」などを振り回さず、堂々とロジックで勝負した田中康夫・長野県知事のような成功例が、お手本になるだろう。
田中知事が証明したのは、言わずもがなのこと、日本人はそんなに頭悪くない、わかりにくいことでも誠心から順序立てて説明すれば、わかるだけの頭を持っているということだった。
僕は、田中康夫という政治家の言説には、100パーセント同意するわけではない。「
新党日本」の存在意義についても、なんだか付け焼刃のようで、まだまだ不透明な感じだ。だが彼が県知事選に打って出た際の姿勢や、知事になってから行政の取り組みには、真の「改革」の名に値するものがあると思う。その最大の功績は、「脱ダム化」を筆頭に、何が本当の
公益か、政治家先生に教えてもらわなくてもわかるのだということを、多くの県民に思い出させたことだろう。民主主義の観点からは、まったく正統なことである。知事ではないが、自民党を追い出されて以降の田中真紀子の新潟での足場の固め方も、これと共通した思想に根ざしていると感じさせる。
だが両・田中氏のこういうスタンスを、「非正統」と見なす政治風土は、いまだ全国津々浦々に広がっている。今度の選挙結果からは、何より東京や大阪のような大都市圏の方が、そういう傾向が強まっているという、皮肉な(でもないか)現象が見受けられた。
それならそれで、野党が目指すべきは長野県のような「非正統」を、地方でいくつ作り出せるか、―─その地方という「非正統」によって「正統」を包囲し、孤立させることだろう。孤立させることで、その「正統」の正統性を無効化できる。それはまた、中央集権的ナショナリズムを孤立・解体させることにもつながる。
今回の選挙で、北海道・沖縄という「両極」だけに違う風が吹いていた、とする評がある。たしかに象徴的なことだが、それを「両極」だけの現象にしてはならない、と思う。(*3)