現実主義者であるために

2005年10月21日 レイランダー・セグンド

la civilisation faible
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「俺たちは獣だ。それが掟だ。」―『ドクター・モローの島』より



 憲法改正をめぐる論議の中には、昔から納得がいかないことが多い。なかでも僕がどうしても黙っていられないのは、改憲派は「現実主義」で、護憲派*は「理想主義」であるという自動的な色分けがされてしまうことだ。
 これはとんでもない話ではないだろうか?だって、この色分けの時点で、もう護憲派に勝ち目はない。最初からハンデをつけられているようなものだ。

 しかし一体、こういう場面で何食わぬ顔で出てくる今はやりの「現実主義」とは何なんだろう?
よくあるのはこういう主張である。
「自分は平和主義だが、9条改定には賛成、なぜなら現実主義だから」
 そのこころは、ざっとまとめるとこうなる。
@現に自衛隊がすでにある。自衛官がかわいそうだ。
A現に他国の軍事的脅威(主に中国・北朝鮮)がある。いざというとき、どうする?
B歴史はくり返す。人類は戦争するものだ。
Cちゃんとした軍隊がないと、外交上つけこまれやすい。
D戦前みたいなことにはならない。文民統制があれば大丈夫。軍紀が乱れなければ大丈夫。

 これらに対し、簡単に反論を試みてみよう。
@自衛官は現行憲法下で複雑な立場になることを承知で入隊している。他人が気の毒がる理由はない。
A9条を改正し(今以上に)「脅威に備える」体制を拡充すれば、それは他国にとっての脅威を増し、他国はさらに脅威を増す。逆効果である。まして日本は東アジア諸国に攻め入った前科があるが、東アジア諸国が日本に攻め入った前科は(鎌倉時代の元寇を除けば)ない。
B悪しき歴史をくり返さないようにするのが進歩である。また、人類は元々たまにしか戦争をやっていない。平和な時間の方がはるかに長い。たいていの人は平和の方が好きだからである。歴史は大掛かりなイベントしか記録しないので、年表を見ると戦争ばっかりしているように見えるかもしれないが。
C自衛隊は年間予算世界第三位の軍隊であり、平和憲法を持たない第三世界の好戦的な?軍隊と比べても、はるかに「ちゃんとした」軍隊である。ただそれ以前に、軍隊がなくてもつけこまれないようにするのが本来外交の役目である。
Dそれができそうでできないから、“戦前”があった。歯止めがかからない国民だから、ああいうことになった。

 ざっとこんなところかな(なんなんだこの虚脱感は)。
 ちなみに、「平和主義者」だが「現実には脅威がある」から軍事力の増強を肯定するという理屈で言えば、ヒトラーもスターリンも、ブッシュも小泉も金正日もみな立派な平和主義者である。間違いない。
 しかし、なんで今さらこんな反論をしなけりゃならんのだろう。「平和主義者だが現実主義」なんていうもっともらしいロジックにはまる人は、その前に「現実」を吟味したろうか?軍事力は民衆を守ってはくれないという「現実」を吟味すればするほど、憲法と歴史の因果連関を知れば知るほど、変える必要があるのは憲法ではなく現実の方だという「現実」に行き着かないわけにはいかないはずではないか?
 何度でも確かめる必要がある。このコラムでも書いたし、ダグラス・ラミスの書籍紹介でも強調したことだ。「現実」に憲法が見合わないから憲法を変えるというのでは、憲法の存在理由がなくなってしまう。いつだったか、益岡賢氏がうまいことを書いていた。殺人事件が多いという「現実」があるから、殺人を認めるように法律を変えろというようなものだと。まったくだ。
 それならいっそ、憲法を廃止してしまうというのはどうだろう?
 それは極端な意見だと言われるのだろうか。しかし「現実」に合わせて憲法を変えるという理屈がまかり通るなら、そんな憲法は飾り物に過ぎない。国の最高法規である憲法は、何度でも確認するが、国民の名において政府(それが右か左か、いい政府か悪い政府かなどということは関係がない)の権限を規定するものだ。少なくとも民主国家においては。それに政府側の要望を「現実」と称して反映するくらいなら、いっそ廃止してしまう方が、何かのアリバイ工作に利用される心配がない分、いいのかもしれない。

 無論、これは一つの考え方を述べただけで、僕自身は憲法廃止に賛成なのではない。しかし、憲法改正の声は聞こえるのに、それと同じか、近い陣営から、憲法を廃止せよという声がまったく聞こえてこないというのは、何か不自然な、偽善的なものを感じる。
 実際その昔、「別冊宝島」のある本で、間抜けな若いライターが護憲派をなじって、「憲法ってそんなに偉いのか?じゃあ憲法に死ねと書いてあったらボクたちは死なねばならないのか?」と鼻息荒く書いていたのを読んだことがある。さすがに最近はそこまでのトンマは表に出て来れないのかもしれないが、民主国家における憲法の根本原理を軽んじているという点では、多くの改憲派はこれと基本的に同類である。表立ってなくしちまえとは言えないから、「現実」に即したものに変えよ、などと言っているのだろうが、そうそう「現実」に合わせて変えられる憲法に、最高法規としての重みなど望むべくもない。

 大体が、彼らの言う「現実」に即さないからといって、どんな不都合が生じているというのか?また、それは誰にとっての不都合だというのか?日米地位協定も周辺事態法/有事立法も、いずれ牙を剥くかもしれない、我々にとっての不都合である。沖縄の広大な面積を占有している米軍基地は、まごうことなき沖縄県民にとっての不都合である。而して、これらは現行憲法があるための弊害だというのか。冗談ではない。
 日本国憲法はこれまで、「解釈」に次ぐ「解釈」によってその本質を捻じ曲げられ、あるいは無効化されてきた。そうして連綿と築かれてきた今の現実の――つまり憲法の精神を「現実」の都合に応じて棚上げすることくり返してきた、そのあげくに漂着したこの現実のしわ寄せを、どうして憲法が引き受けて自己破産しなければならないのか。さんざん毒物を注入して病気にしておいて、もう助からないから安楽死させましょうと言っている暗黒医師。それが「現実主義」なのか。倒錯もいいところではないか。

 もう一度くり返す。変える必要があるのは憲法ではなく現実の方だ。
 憲法は「現実」を追認するためにあるのではない。よその国の憲法はともかく、少なくとも日本国憲法は、そんなものであったためしはない。変えるものとしての現実を、「国民の不断の努力によって」理想に近づけるための規範としてあるのだ。
 その理想がたやすく、素早く実現されるとは誰も思っていない。思うとしたら、それこそ非現実的というものだ。
 たとえば僕は、自衛隊はいずれ「国境警備隊」と「災害救助隊」に再編するべきだという考えに賛成である。後者は特に国内向けの部隊と海外向けの部隊とを、あらかじめ用意しておくのがいいと思う。これが実現するなら、今の自衛官以上の待遇を保障するために、今より少々余分に税金を取られてもいいと思うくらいである。だがそんなアイデアが実現するとしても、かなり先のことになるだろう。だからといって、このアイデアを捨ててしまうわけにはいかない。多くの人々にヴィジョンを共有してもらい、皆で少しずつアイデアを煮詰め、具体的な法案等に近づけていくしかない。
 だって、それが本当の現実主義ではないか?現実を変えるために、少しずつ、その成果を実感できることが稀であるくらい少しずつ、それでもやっていこうというのが、本当の現実主義ではないのか?
 すぐに実現されないからといってその理想を放棄してしまうのが「現実主義」だなどというのは、とんでもない話だ。それは現実追認主義だ。現実主義と現実追認主義とは違う。

 現実追認主義(敗北主義とも言う)と平和主義が両立することは、残念ながらないだろう。それが歴史の教訓というものだ。両立しているように見えても、それは表面だけのことである。あるいは現実を追認することが平和への基礎になると信じられる人は、自分がこの惑星の上で、極めて特権的な立場にいることを理解していないのだ。何も考えないで、長いものに巻かれろ式に大国や大国の傀儡である政府の言いなりにすれば――たとえば軍事力を増強するとか――平和が生まれるというのなら、苦労はない。もしそれが本当なら、本当だという証拠を僕に示してほしい。そして安心させてほしい。僕は喜んで、一切の政治的・社会的関心から身を引き、個人的な快楽の追及に一生引きこもりたい。ぜひぜひそうしたい。
 だが何か、ある種の脳手術でも受けない限り、そんな「証拠」を目にする見込みはないだろう。僕らが(見ようと思えば)目にできるのはその逆の証拠、現実を追認することで僕らがこの惑星上の弱者(もちろん日本人の場合だってある)を圧迫する側に回っているという証拠ではないか。

 「平和主義者だが現実主義」ではない。現実を見据えれば、平和主義者になる以外に人類がサバイバルする道はないのが当たり前なのだ。だがその平和は、現実を追認することでは近づいてこない以上、変革によってたぐり寄せるしかない。その変革とは、「改憲」とはおよそ正反対の政治プランによってしか実現されようがない。
 それが「現実」だ。現実主義者になろう。


*  「護憲派」と一口に言っても、9条を中心にしたその捉え方・主張は「創憲」「活憲」など、いろいろ微妙に違いがあることは承知している。僕の文章中では、安直な改憲に反対する勢力を総じて護憲派と呼んでいる。


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