“バイアス”なんかこわくない
−1 原則論的に

2006年2月5日 レイランダー・セグンド

la civilisation faible
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 子供の頃から、僕の親父は格言や四字熟語の類を得々と語りたがる癖があった。それらの中でも、僕がはなっからムカついていたのが、「健全な精神は健全な肉体に宿る」というやつである。僕は当時から体があまり強い方ではなく、そのことに少なからぬ劣等感を持っていたので、当然のように癪にさわるのだった。
 長じて、何かの本で、この格言の出所はプラトンだということを知った。それによれば、プラトンには若く美丈夫な少年の弟子がいたのだが、この少年の手癖の悪いことに悩まされ、「健全なる肉体に健全なる精神が宿る──んだったらいいんだが、そうはいかないのが世の中なんだよなー」と別の弟子にこぼした。それが何を間違ったか、前半部だけが独立して後世に伝わった、のだそうだ。へえー。
 しかし、その話の真偽はどうあれ、現実の社会を見れば、この格言(として本当に今時通用してるのか?)の的外れなことは一目瞭然だろう。世界の犯罪者の大多数は、平均以上に健全な肉体の持ち主である。でなけりゃ、刑務所で暮らせないだろう。
 逆に健全でない肉体を持ちながら、人類社会に貢献した偉大な人の例はいくらだってある。こういう人たちはむしろ、健全でないところを持っていたからこそ、人の苦しみを理解する能力に長けていたり、あるいはそれをバネに頑張ることができたのかもしれない。
 大体が「健全」という言葉自体がうさんくさいのだ。それが文字通りに「健やか」で「全き」存在の性質を指すのなら、「そんな人間はいねー!」の一言で終わりだ。しかも、ある程度以上、健康は金で買える。ということは、金持ちほど健全な肉体を維持する条件に恵まれているのだから、一般に金持ちほど健全な精神の持ち主が多い、ということになる。へえー。まさしくへえー、だそりゃ。どうなんですか堀江さん。
 今さら言うのも気恥ずかしいが、僕はやはり、人は皆何がしかの弱点や欠点を持っているからこそ、お互いを気遣ったり、いたわったりできるのだと思う。「健全」じゃないからこそ、人は人に優しくできる。

 ところで、さて、僕が今回論じたいのは、こんな格言の当否ではない。
 僕が大人になるにしたがって理解したもう一つのこと、それは親父がこの格言を好んで口にした背景である。子供の頃、それは体の弱い息子に、もっと体を鍛えろとハッパをかける意図だと理解していた。だが、実はそれ以上に、体が強い自分を自慢したい、そして尊敬されたいがためだったことがわかってきたのだ。
 僕の親父は──これは決して息子としての過剰な「アンチ身びいき」の意識から言うのじゃなく──体が丈夫なことだけが取り柄のような人である。でもって、人からほめられるということに異常なほど(周囲の人が引いてしまうほど)飢えている人なのだ。そういう経験が乏しい人生だったのだからやむをえないのだが。
 つまり「健全な肉体に健全な精神」という格言は、すでにして健全な肉体の持ち主である彼が、労せずして自分を正当化し、持ち上げ、金箔で飾り立てることを可能にする、便利なおまじないのようなものだったのである。というか、今でもそうなのであるヽ(´▽`)/。

 ただ、今度は親父をかばうわけではないのだけれど、このような振る舞いは、世の中でそんなに珍しいことではないだろうとも思う。確かに僕の親父の場合は根が単純なだけに、アホくさくてわかりやすいのだけど、多かれ少なかれ似たような傾向は誰しも抱えているものじゃないだろうか?
 その傾向を、その人が持つバイアスという風に呼んでいいかと思う。簡単に言えば、自分に都合のいい世界観、みたいなものである。

 biasという英語の意味は、本来は先入観とか偏見、あるものに対して始めから持っている好感または反感のことである。しかし日本で、僕がしばしば目にし耳にするのは、議論の際などに「バイアスのかかった意見・主張」といった言い回しで使われるパターンである。すると、まさにこの使い方は、議論の一つのパターンそのものを示唆するものともなる。
 ここでの“バイアス”は、あらかじめある特定の党派や集団のイデオロギーが反映している、あるいはバックにそういう団体がついている、みたいなニュアンスであることが多い。もう一つの便利な言い方を使えば、「偏っている」ということである。右翼のバイアス・左翼のバイアス・共産党のバイアス・財界のバイアス・オウム真理教(もといアレフ?)のバイアス・・・・、といった具合に。つまり、ある集団の十八番であるようなイデオロギーの断片が個人の主張の中に見え隠れしている時に、それに対して突きつける「エンガチョ!」「おまえはすでに偏っている!」が“バイアス”なのである。

 だけど、何か変だ。
 バイアスを指摘することが的を得ている場合、それは、論争している相手が、自分のよりかかっているイデオロギーの存在に全く無自覚であるような時である。かなり初歩的なケースという気もするが、そういう場合なら、相手に対して「よりかかっている」という事実を、そのよりかかっているものの名前までも、教えてあげるのは親切な行為とも言えるかもしれない。実際バイアスというものは、自分ではよっかかっていることに気がつきにくいのが特徴みたいなものだからである。
 だからこそ一方で、そのバイアスを指摘する親切な人達が、あたかも自分には何のバイアスもない、基本的に公正中立無色透明無菌無臭なわたくしですという前提で話を進めていくのを見ると、ちょーっと待ってくれ、と言いたくなる。 あんたには“バイアス”はないのか?・・・というより、すべての人に“バイアス”はあるんじゃないのか?と聞きたくなるのだ。
 一見、既存の政治や宗教のカテゴリーには属さないものでも、自分にとって世界はこうあってほしいという、ぼんやりとした理念のアウトラインのようなもの、それがその人の思考に一定の影響力を有している限りにおいて、すでに立派な“バイアス”ではないのか。そうしたゆるやかな“バイアス”は、誰もが持っているはずだ。その意味では、史上最強の“バイアス”は、「(近代社会の)常識」というやつかもしれない。多くの人が、それを“バイアス”だと認識していないものの方が、はるかに始末が悪い。
 さておき、相手の主張が、単に既存のバイアスの域を出ないものであることを指摘したり、苦言を呈したりするのは間違ったことではないだろう。だが、相手のバイアスを指摘した瞬間に、自分のバイアスが消失するわけではない。他者の“バイアス”を指摘することで自分の正しさが立証されると考えているのなら、そんな議論は始まった時点で終わっている。何か、鼻持ちならない勘違いというか、一種の退廃ですらある。問題はバイアスの有無なんかではなく、その中身が考え方として理にかなっているかどうか、のはずである。

 たとえば、アメリカのやっている戦争に反対か?と聞かれれば、反対だと僕は答える。すると、僕は北朝鮮の手先だろうか?なぜなら、北朝鮮当局も、アメリカの戦争に反対している。つまり、レイランダーという奴の思考には、北朝鮮のバイアスがかかっている、と。
 もちろん、ものすごくくだらない、次長課長のコントにも使われないような詭弁である。だが、「バイアス=悪」という発想は、突き詰めればそういうことにもなってしまう。僕から見れば結構知的な人たちまでが、こうしたばかげた落とし穴にはまって、穴の中を右往左往している現状が、もうずいぶん前からあるような気がする。
 結局、“バイアス”をひたすらネガティヴなものとして忌避する心理がおかしいのだと思う。それは同時に、“バイアス”を口実に行動参加を拒む心理ともつながっている。世の中これではいけないと思いながら、既存の運動に失望している人たち。彼らは“バイアス”に無頓着な人たちをあざ笑うが、その行動力に恐れをなしていたりする。いや、はっきり言って僕自身にそういうところがあるから、よくわかるのだ。そういう人というのは、この世のどこかに“バイアス”のかかっていない、清潔で、モダンで、芸術的なまでに高次元の社会変革運動があることを期待していたりするのではないか。
 だが、そんなものはない。それが現れなければ闘えないというなら、僕らは永遠に闘えないし、闘わないだろう。
 社会に対して自分の意見を訴えたい、反映させたいと願うなら、自分のバイアスを自覚し、責任を持つことだ。バイアスがないふりをするのでなく、いつでもそれを議論の俎上に乗せる用意があると表明することだ。既存の(とりわけ政治勢力の)バイアスに絡めとられるのが嫌ならば、そうする他はない。そしてそうする覚悟ができている人にとって、「バイアスがある」と指摘されることは、「あなたには利き腕がある」と指摘されるのと同じくらい、「だから何?」なことなのである。それは○○党とか○○教とか○○主義ではなく、おれの(わたしの)バイアスだ、と言い切る心意気が必要なのだ。

 僕の親父には自分をいい気持ちにしてくれるバイアスがあった。彼をして「健全な肉体=健全な精神」と信じこませる、いや信じたくさせるもの、それが彼のバイアスである。
 それに反感を抱く僕には僕のバイアスがある。「人は健全じゃないから優しくなれる」などと考えるのは、そのバイアスの為せるわざに違いない。僕はそれを自覚しているし、それに賭けている。
 カッコつけて、もう一度書いておく。“バイアス”をこわがっているようでは、俺たちは闘えない。俺たちが相手にしているのは、そんなヤワな敵ではない。


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