淵の森の話

2006年2月17日 レイランダー・セグンド

la civilisation faible
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 僕は日頃、通勤のために最寄り駅まで自転車で向かう。途中、小さな森の横を通り、小川にかかる橋を渡る。続く急な坂を駆けのぼって、駅前に出る。
 この森というのを、僕は最初「林」だと認識していた。住宅街の中に取り残された、川べりの林。すぐ背後には家や駐車場が迫っている。たまたま宅地造成がその手前でストップしたから残りました、という感じである。「森」と「林」の境目というのは、もともとはっきりしないものだろうが、少なくとも僕にとっては、今でも「林」のイメージに近い。

 そんな、森だか林だかわからない中途半端な場所だが、昔から妙に惹きつけられるものがある。僕は植物など全然詳しくはないけれど、ここの森は“顔がいい”という気がするのだ。
 僕の地元はもともと「武蔵野」の一角だから、その名残をとどめる雑木林の類が、あちこちに点在している。ここよりもっと大きくて、多様な樹木が見られる公園や小山のような所もある。駅前の神社にある、ケヤキの大木もなかなかのものだ。生命力という点では、そちらの方が上のような気もする。でも、“顔がいい”のはこのちっぽけな森の方だ。何かかろうじて踏みとどまっているという、けなげさを感じるからだろうか。
 姪っ子たちを連れて散策しに来たこともある。ウチに遊びに来たはいいが退屈している二人の姪っ子を、どこか連れて行く場所はと思案していて、ええい近場だからあそこでいいや、と思いついたのがこの森だった。森の中に続く遊歩道らしきものがあるのは知っていたので、時間つぶしになりそうだと思ったのだ。
 だがいかんせん小さな森だから、遊歩道などすぐに終わってしまった。入り口付近に「淵の森の自然を守りましょう」みたいな立て札があって、その時初めて名前を知ったのだが、この大きさで「森」って言うかあ、と正直思ってしまった。と同時に、「淵の森」っていい名前だな、と思ったのも事実だ。
 横を流れる川は、決して深い淵があるわけではないが、川面から土手までは切り立ったような場所がある。そのあたり、枝の覆いかぶさったあたりから見下ろすと、なかなか「淵」っぽい雰囲気がするのだ。

 そんな川の雰囲気が、この森に微妙な風情を与えている面も確かにある。でも僕は、生えている樹々それ自体の“顔のよさ”にも、昔から何とはなしに惹きつけられてきた。
 夏だと、黒々とした枝と幹に、薄緑の葉が生い茂る、そのコントラストが目に心地いい。結構高さのある木もそろっているので、遠目にもその色合いの良さはよくわかる。
 冬はもっといい。葉がすべて枯れ落ちた樹々は夕闇に映える。メルヘンである。僕は冬の夕暮れ、坂の上からこの森の方を望むたび、息をのみ、陶酔してしまう。夕闇と、宵の明星と、影絵のような樹々。
 だがメルヘンというだけでもない。冷え切った大気の中、空に向かって枝が伸びている。その枝が、まるで無数の毛細血管のように見えるのだ。ちょうど肺の中の毛細管が、可能な限りの酸素を体内に取り込むために、微細に枝分かれしているように、この森の樹々も、地球という「肺」の中で精一杯手を伸ばしている。そう、地球は「肺」だ。われわれ生き物は「肺」の中で暮らしている。樹木や植物は呼吸を担う器官、だからああいう姿をしているのだ。植物が呼吸しているというよりも、地球という「肺」が、植物を通じて呼吸している──そんなイメージが頭を駆け巡ってしまう。

 とにかく、この森は“顔がいい”。そう感じる人は少なくないようで、手前の橋で立ち止まって、森と川とを眺めている人をよく見かける。近所の幼稚園の園児たちが、保母さんに連れられて来ているのにもよく出くわす。あたたかい時季には、橋のたもとでアコーディオンの練習をしている人がいたりする。
 そして最近、近所のコンビニに寄った際、横の壁にビラが貼ってあるのに気づいた。あの森のごみ拾いと下草刈りをやる恒例行事への参加を呼びかけるビラだった。そうか、やっぱりちゃんと手入れしている人達がいるんだなー、──というか、あの森はなるべくしてなった“顔がいい”森なのだということを、それで納得したのだった。
 数日後、休日に駅の方に向かう途中、森の横を通ると、軍手をはめた数十人の人達がいるのが目に入った。ああ、あれは今日だったっけ、とビラの企画を思い出した。
 ちょうど一通り作業が終わったところのようで、参加者に甘酒が配られていた。年配の人が多いが、子供連れも少しいる。リーダーらしきおじさんが「コロッケも食べてください。ただ数が足りないんで、半個ずつで・・・」などと話している。ということは結構参加者は多かったわけだ、よかったじゃん、などと他人事のように聞き流しながら、僕はそこを通り過ぎた。

 翌日、新聞をめくっていて驚いた。地方版のページで、この行事のことが記事になっていた。
 それに驚いたのではない。驚いてしまったのは、この「淵の森」保全運動の会長というのが、誰あろう、あの宮崎駿その人だったと知ったからである。
 宮崎駿が僕の地元近辺に住んでいることは、かなり前から知っていた。それを知った時も、嬉しくは感じたけれど、さほどびっくりはしなかった。僕が抱いていた氏のイメージに、わりと一致するものだったからかもしれない。
 しかし今回はさすがに驚いた。森の保全活動といえば、狭山湖の「トトロの森」のこともあるし、氏が関わることになんの違和感もない。けれどよりにもよって、もう何年も前から行き来している、あの変哲もない道の途上に、それがあるとは。自分が毎朝毎夕、「いいなあ、いいなあ」と思っていたものを、あのオッサンも「いいなあ」と思っていたとは。いやそれどころか、それをいいものにするために、一枚も二枚も噛んでいたのがあのオッサンだったとは。
 じゃあ、あの時甘酒をふるまっていた人達の中に、宮崎氏もいたのか。あのコロッケがどうこうわめいていたのが、アカデミー賞監督だったか(違うか)。自分がホームページで偉そうに作品論なんぞをものした対象の人物が、自分にとって思いっきりベタな所に出没していた。世の中狭いんだか広いんだか・・・。しかし僕がどうこう思う以前に、ここは宮崎氏にとっての「地元」だったというだけの話なのだが。

 姪っ子たちはそういえば、あの「三鷹の森ジブリ美術館」にはまだ行っていない。以前行こうとしたが、あまりにも予約が混んでいて断念した。それ以来、うやむやになっているようだ。
 だが今度会った時には、「君たちは宮崎監督が手がけたもう一つの森にはすでに行ってるんだぞ(しかもタダで)!」と慰めてやれるのだ。よかったよかった。でも、そんなのいいからディズニー・シーに連れてけとか言われそうな昨今ではある。ファック・ユーだ。
 思えば「淵の森」だって、人の手が入った「人工物」には違いない。だがそれと、テーマパークの人工性とでは、話がまったく別だろう。人の手が入っている度合いの差などではない。本質的な価値の差である。“顔がいい”テーマパークなんてあるだろうか。あるとしても、意味がもはや同じではない。森は生き物だが、テーマパークは生き物じゃない。
 そして森は生き物ということで言えば、淵の森も、屋久島の森や白神山地と同じく、生き物なのである。僕は元々「自然百選」とか「世界遺産」みたいな発想に対しては、ある種の違和感を拭えないところがある。ちょっと言い方が悪いかもしれないが、自然にランク付けをしたり、選ぶ人間の側から権威付けをしたりすることで、自然が守れるとはあまり思えないのだ。大事なことは、地元の人間が地元を守ること、それに尽きる。自然か人工か、という二項対立でもない。そんなことを自省的に考えさせられる出来事だった。


資料:

http://www.propel.ne.jp/~gorilla/fuchinomori/
淵の森保全運動 活動報告書

http://5.pro.tok2.com/~akitsu/yousu/ak5-fuchi.html
http://toba.livedoor.biz/archives/50119376.html
どちらもご近在の方のレヴュー。写真が素敵です。

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