“バイアス”なんかこわくない
−2 左翼のバイアス

2006年3月31日 レイランダー・セグンド

la civilisation faible
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 なんだってこんなことをグダグダと書くのだろう。自分でも、取り越し苦労みたいな、妙なところにこだわっているかなと、思わないでもない。しかし実際、その「妙なところ」が問題の根本にある。それがこの国の状況の、一つのポイントには違いない。

 左翼という言葉がある。
 僕はいわゆる学生運動や革新諸政党に存在感があった時代を、リアルタイムで経験していない。成人した頃には、既にそれらはモデルチェンジが必要な時代遅れのもののように見なされるムードが出来上がっていた。どっかの山師の言い方を借りれば、「高度資本主義による経済成長が豊かな社会を実現したので、社会主義の存在理由がなくなった」のだそうだ。
 それでも、「豊かな社会」にだって問題がないわけじゃない。それは誰もが知っている。ただ、それをごく私的な「事故」「事件」のごときとしてではなく、社会の在り方・行き方という視点から批判を加えると、なぜか空気がひんやりし始める。それにかまわず、さらに議論を続けると、今度は逆にむし暑くなってくる。一種想定外の敵意に囲まれている自分に気がつくのだ。
 「敵意」と言ったら大げさかもしれないが、少なくともうっとおしいものへの警戒心のようなもの。この人はなぜ今頃こんな話をしているのか、という。われわれの社会は、もうちっとは新しい段階に入ったはずなのに、という。
 そこにマルクス主義の用語のような、いわゆる「左翼的言辞」が含まれているかどうかは関係ないのである。ただ自分たち自らの働きかけによって具体的な変革を政府に、企業に迫ること。平和や人権の活動を推進すること、など。・・・要するに民主主義を深化させる試み全般を述べているに過ぎないのに、それがイコール反体制的思考の産物、すなわち「左翼のバイアス」の成せる業、ということにされてしまうのだ。それに代わって、彼らが新しい時代の視点のごとく持ち出すのは、「経済的観点」という名の奇妙に視野の狭いゴーグルだけだったりするのだが。
 これはもっぱらベルリンの壁崩壊以降、国内ではバブルが始まった頃から強まった傾向だと思う。それまでなら、同じ意見を言っても「よくある(左寄りの)代案」くらいに受け止められていた。それがいつしか、「急進左翼」の人騒がせなデマゴーグ呼ばわりされかねない。そういう風潮が、少しずつだが確実に強まっていると思う。
 ここまで来たら、(一部ではすでにそういう状況だが)政治について批判的に語ること・意見すること自体がアウトサイダーの行為と見なされるようになっても不思議はない。日本のような均質志向の同調社会(やたらに「個性」を持ち上げるのがその裏返しの証拠だ)では、アウトサイダーは殊更つらい。権力は巧みに「常識」の側に立って人々の情動に訴える。「彼(彼女)はしょせんアウトサイダーだから、無責任なことばかり言えるのだ」(*)と訴えれば、ああそうなんだと人々は思うだろう。
 もちろんこんな短絡的なレッテルなど、無視することができるなら、それでいいのである。だが僕は、こういった非論理の圧迫に包囲され、自分が持っている「左翼のバイアス」にナーヴァスにならざるをえない人たちが、(自分も含めて)結構多いことを知っている。でも、それは明らかに不当なことだ。不当なことだと認めるべきことだ。

 ではどうすべきなのだろう。「左翼」に代わる新しい概念が必要なのか。それとも「左翼」の概念を(時代に合わせて?)より押し広げるべきなのか?・・・何か小難しい理論が必要なのだろうか。
 それよりむしろ、言葉本来の意味に立ち返ることの方が先決ではないかと僕は思う。C・ダグラス・ラミスが『ラディカル・デモクラシー』の中で述べている。
  民主主義は左翼である。そこに含まれる意味も明白である。「左翼」という政治的メタファは、1789年フランスの国民議会に参加した人民代表の席(の位置)から来ている。「国民の側に立つ」という意味以外なんの意味もない。民主主義者であればそれ以外に立ちようがないではないか。
(P45、太字、(  )内はR.S.)

 もちろんラミス氏は、「左翼にいるからといって必ずしも民主主義者であるとは限らない」とも付け加えている。ロベスピエールからレーニンを経由して金正日(笑)に至るまで、例には事欠かない。ただ民主主義者なら、左翼の席がとりあえず本来の位置というだけだ。
 そのこと自体は今も変わっていない。なるほど現代日本の「国民議会」は、表向きすべて「人民代表」の席ということになっている。だがその「人民代表」のうち何%が、本当に「国民の側に立」っているのか。少なくとも、同じ国民からの批判を、「アウトサイダーの発言」ゆえに「無責任」と断ずるような思考様式の持ち主が「人民代表」であるというのは、なかなかすさまじい冗談ではある。
 かといって社民党や共産党、あるいは民主党「左派」などに、「代表」の役割を期待するだけの「民主主義者」など意味がない。その役割は自分から始まるという認識がなければ、それこそただの「旧左翼」かもしれない。
 「民主主義は左翼である」という場合の「左翼」とは、そんなものではない。「変革を担うのが左翼である!」なんて肩肘張ることでもない。要するに「民主」という言葉に置き換えられない「左翼」なら、存在する価値なんかない、ということだ。それこそ立ち戻るべき唯一の「左翼」である。そしてこんなものは本来、当り前の価値観だろう。なのに民主主義とは何の関係もない「左翼」が一人歩きして、民主主義とは何の関係もない現実を世界の各所で作り出すのに貢献しまくったものだから、いかがわしい“バイアス”に成り下がってしまった、という事情があるのだろう。
 しかし、どだいそんな事情は知ったこっちゃない。「左翼」が興隆しようと滅びようと、人間がそこにいる限り「民主」は不可欠なのだ。僕らが追求しなければならないのは「民主」であり、そのために必要なのは、最近岩国市で行われた住民投票のような実践の積み重ねだ。これが日常の風景になれるような、実績の積み重ねである。
 しかし「左翼のバイアス」をあげつらう人たちの目には、そうは見えないのかもしれない。「住民投票も悪くはないかもしれないが・・・いや私が言いたいのは、政治とはいろいろ難しいもので一筋縄ではいかないもので・・・慎重に推移を見守りたい」などと、政治家みたいな口ぶりでかわしにかかるのかもしれない。彼らにとって民主主義とは、ただおとなしく朗報を待つこと、なのかもしれない。だから僕はうさんくさいのは“バイアス”よりも、それがあると闘えないという意識の方だと思うのだ。
 まあしかし、『国家の品格』なんていう、サイテーに子供だましの本を読んで溜飲を下げてるような連中には、民主主義なんて酷な要求なんだろうな、という気もする・・・。


* これは、昔自民党の閣僚が野党議員や在野の批判者に反論する際に述べた実際のセリフだ。誰だったかは憶えていないが、特に憶える必要を感じないくらい、いろいろな政治家が口にしていた、ありふれたセリフでもある。
 しかしあらためて、こんなふざけた言い草があるか、と思う。事実は逆に、同じ議会の、同じ社会の一員として、責任を感じればこそ批判せずにはいられないのだ。問題があるのを知りながら批判を控える方こそが、無責任というものだ。第一彼ら与党閣僚の多くは、自分のスポンサーや票田の地元住民(のほんの一部)に責任を持っているだけだ。「アウトサイダー」も含めた社会全体、国民全体に責任を負っている自覚があるなら、こんなセリフがでてくるはずがない。

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