日本代表を「誇り」にするな
2006年5月21日 レイランダー・セグンド

la civilisation faible
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 ワールド・カップが近い。
 なんて書き出しで何か書く人が、大量に現れる時期である。僕もサッカー・ファンのはしくれとして、乗っからしてもらおうと思う。といって、サッカーそのものを論じるつもりは、あまりない。それほどの知見もないし。
 日本代表について言えば、僕の予想はグループ・リーグ敗退である。まあ、短期決戦の大会では何が起こるかわからない。予想が当たっても当たらなくても、どっちでもいい。正直、今の日本代表に興味が持てないからだ。やってるサッカーがこぎれい過ぎて、型にはまっていて面白くない(*1)。あくまで個人の趣味だけど。
 確かに、トルシエの頃に比べて進歩している面もある。それは選手個人個人がいろんな場所でもまれ、経験値を高めたことによるもので、別にジーコの功績ではない。2002年大会の時から、次の大会では中田英らの世代が、脂の乗り切った状態で迎えることになるだろうとは、予想されていたことだ(現実には下り坂に入ってしまった選手もいるような・・・)。「予想」ではなく「期待」されていたこと、たとえばチームとしての「決定力不足」の解消というテーマでは、4年間で特に進展はなかった。
 ・・・・不満を言い出せばキリがないのでやめておく。別に日本代表がどうなろうと、サッカーは続く。僕は代表のファンであるより前に、サッカーのファンである。ただ、サッカー・ファンだからこそ、最も身近な所でプレーしている日本の選手たちに人一倍の愛着を持っているし、その日頃のプレーの質がもっと向上すれば、もっとリーグが楽しくなる、というだけだ。
 大体サッカー・ファンなら、近頃のワールド・カップが世界最高峰の舞台とは言いがたいことくらい知っている。それを知らなきゃ悪いというわけではないが、知らない人に「日本代表を無条件に応援するのは当たり前」みたいな調子のことを言われると、正直「ハァ?」と思う。そういう人達は、日頃本当にサッカーを観ているんだろうか。Jリーグが一時のブームから観客動員が下降傾向にあった頃、「日本人にはサッカーは向いてない。やっぱり野球だ」などと意味不明なことをくっちゃべっていた、それに「ああそうかも」とうなづいていたのは、こういう人達ではなかったのか。
 サッカーに興味がなくても、とにかく「日本代表」だから好き、という人達もいる。そういう人達にとっては、「日本代表」は一種のブランドなんだろう。ブランドとイベント。この2つのキーワードで人生を成り立たせてしまえる人達は幸いかな。

 ここのところ、スポーツ関係で「日本代表」が躍進した、結果を出したという出来事が多かった。もちろん、そのこと自体に文句をつけるつもりはないのだけれど、それにここぞとばかりに乗っかる国内のムードには、なんだかさもしい根性を感じないではいられなかった。
 別に今に始まった話でもないが、ここ最近の新国家主義的な政治・社会の動向と相まって、いよいよ鼻についてきたというか。幼稚なナショナリズムが浸透する土壌というのが、いかに育まれるものなのか、それが透けて見えたというか。

 特に僕がこだわりたいことが一つある。「誇り」についてだ。
 しばしば、活躍した選手のことを「誇りに思う」と言う人がいる。「日本人として」をその前につけることもある。
 僕は、これが根本的に納得できないのである。なぜ他人のことを易々と「誇り」に思うことができるのか。
 人間は、自分が頑張って成し遂げたこと、手に入れたものに対して「誇り」を持てばいい。あるいは、成し遂げることが叶わなかったとしても、ベストを尽くしたことに対して誇りを持っていい。というより、そもそも「誇り」とはそういう意味の言葉である。
 人がやったことに対しては、それが立派なことだと思うのなら立派であると認め、祝福すればいい。その人を尊敬し、好きになってもいい。自分も頑張ろう、とお手本にしてもいい。
 ただ、「誇り」にするのだけは間違っている。人が達成したことを、自分の手柄のように思ってはいけない。それは何というか、人間として相当に恥ずかしいことだという気がする。自分には自分のやることがあるだろうに。
 たとえば選手の肉親とか、指導にあたったコーチとかスタッフとか、共に切磋琢磨してきた同僚達が「誇りに思う」というのはまだわかる。その選手と苦労を共にしてきた、支えてきた人達なのだから。
 しかし、たとえばポテトチップスを食べながらテレビの前で応援していただけの赤の他人が、あるいは競技場でみんなとお揃いの応援グッズを振り回して騒いでいただけの赤の他人が、なんで「誇り」を口にできるのか。
 もちろん選手たちは、そんな人達にも礼儀正しく、「みなさんの応援のおかげです」と挨拶するだろう。プロ・スポーツならとりわけ、その「みなさん」のお金で選手は食っているのだから、挨拶するのは当然である。でもそのことをもって自分の手柄のように考えるとしたら、いくら何でも厚かましいと思う。

 ところが、ここに一言「日本人として」という言葉を付け加えると、その厚かましさがうまい具合に隠されるというか、正当化されるような面があるのだ。
 実際には日本人だろうがアメリカ人だろうが、それを成し遂げたのは自分ではない別の人間である。なのにそれが日本人だと「誇り」に思えるというのは、あたかも日本人というのが、一個の人格から分裂した均質なクローン生命体であるかのような感覚に従っているからではないか。
 たまたま日本人に生まれたということを、自分の「誇り」にするような思想の持ち主は、堕落していると僕は思う。個人としての未熟さを、「国」や「民族」とのつながりを盾に帳消しにできるという幻想。この幻想の利点は、努力が要らないということだ。何もしないで自分が偉くなったような気になれる、麻薬のようなものである。
 麻薬というのは、痛みを消すためのものだ。この麻薬は、やることのない凡庸な自分という厳しい現実を正視することの痛みを、感じなくさせるのである。そればかりか、そんな自分の人生の意義までも、なんだか知らないが保障してくれるのである。
 スポーツに限らない。日本の伝統や、経済力、先端技術の成果なども、こういう人達にとっては、他者との関わりの中に連綿と育まれたものという認識では決してありえず、ただただ民族の優秀性=自分の優秀性を証明する素材であるのみだ。別に自分が寿司やトランジスタや青色ダイオードを発明したわけでもないのに。そしてそれら「民族の優秀性」を示す(と彼らが信じる)材料を使って、他民族──とりわけ他のアジア諸国──の劣等性を主張することに躍起になる。
 二言目には「国益」だの「愛国心」だの、ついでに「著作権」だの、口角あわを飛ばしたがるこうした連中が、「小泉ジャパン」のサポーターになる。実際それ以外にはなれないだろうが。

 だから彼らが乗っかるのは、スポーツでも常に勝った者、好成績をあげた者だけで、期待に反して(その期待は主にマスコミが無責任に煽ったものだが)結果が出せなかった者に対しては、途端に熱が冷めていく。まるで「最初から大して興味なかった」「私は関係ありません」と言わんばかりに。強い代表は「私達の誇り(という名のブランド)」、弱い代表は「私達とは関係がない」。
 それって何かに似てないだろうか。戦時中、あれだけ軍国主義にのめりこんでいたどこかの国民が、敗戦後「我々はだまされていたんだ。好きで戦争など支持していたわけじゃない」と言って「自己責任」を放棄した有様と。

 それはさておき、たとえばスポーツの応援では、弱い方こそ応援のしがいがある、という面を否定する人はいないだろう。いわゆる「判官びいき」とは別に、である。これから段々力をつけていく、強くなっていくという過程を見守るのが、新鮮でわくわくするのだ(2002年までのサッカー日本代表がまさにそうだった)。
 あるいは弱小のものが強豪を打ち倒すという「番狂わせ」も、スポーツの醍醐味である。さらには「ヒール(悪役)」を愛する楽しみというものだってある。
 そんな様々ある楽しみ方よりも、「日本人としての誇り」「日本が強いこと・勝つこと」が常に無条件に上位に来るという考えから脱却できないのは、なんだか気の毒な人達である。
 自分が強い側にいないと心細いのだろう。何しろ、自分では何もしない人達だから。戦うということをしない人達だから。弱い相手にはとことん強いが、強い相手にはとことんおべっかを使う。情けないメンタリティである。その情けなさが、自分ではない誰かの活躍によって覆い隠され、「誇り」感知装置がブルブル作動するのを楽しみに、日々過ごしている。幸い、その手のイベントには事欠かない国である。
 ちょうど国会では教育基本法改定(*2)の審議で紛糾しているが、上のような人達はある意味社会全体が施した“教育”の犠牲者とも言える。勝負に勝った者、成功した者だけに価値が認められる社会。今後ますます「勝ち組」と「負け組」の二極化が進むであろう社会。
 もし彼らが、負けても次があるから楽しみが続くと思えるような、あるいは負けても誇りが持てるような生き方をすべきだという価値観を養っていれば。負けた者にだって「誇り」はある、自分が努力して手に入れたものには誰のものとも比較できない価値がある、ということが当たり前に実感できる社会があれば。
 どうせなら、そういう概念を教育基本法に盛り込んだらどうかと、真剣に僕は思う。だが現実は逆で、どんなうすらバカでも臆病者でも、愛国心さえあればそうでない奴より価値があるということを、国家の側から規定するための改定である。

 サッカー日本代表もまた、そうした国家の意思に国民を従わせるためにその“ブランド力”が利用される可能性を、常にはらんでいる。欧州などと比べて、国家に対抗する「地方」「地域」の独立性が弱いことが、一層その可能性を強めるのだ。
 今回の日本代表については、負けて反省材料をしっかり持ち帰る方が日本サッカーの今後にとって健全なことじゃないかと思う一方、代表の選手の何人かが僕は好きだし、彼らが日々奮闘しているのを知っているから、勝ち進めればいいな、とも思う。複雑な気持ちだ。
 いずれにしろ彼らが勝とうが負けようが、僕はそれを「誇り」になどしない。くどいようだが、したくてもできやしないのだ。


*1 一般にはトルシエ時代は戦術に縛られ、ジーコになってからは選手たちが自由にやっている、などと語られているが、これは短絡的な見方だと常々思っている。彼らは型にはまったサッカーを「自由に」やっているに過ぎない。だから相手に読まれることが多く、勝ち切れない。これが僕の見方だ。

*2 与党改定案の欺瞞について、益岡賢氏が解説している。憲法改定案と同様、ポイントは「国民による規定」から「国家による規定」へのシフトだと思う。
 http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/articles/masuoka060517.html

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