イスラエルに経済制裁を!
ガザ侵攻と「北のミサイル」―B

2006年7月21日 レイランダー・セグンド

la civilisation faible
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 小泉首相は渦中のイスラエル滞在中、「ホロコースト記念館」を訪問し、次のように述べたという。

「戦争の悲惨さ、そして人間の残酷さ・怖さを改めて感じるとともに、2度とこういうことを起こしてはいけないと痛感した。犠牲になられた方の悲しみと遺族の憤りを決して忘れてはならない。イスラエル国民の平和な国を建設しなければならないという決意を見ることができた」(7月12日)

 彼は滞在先から目と鼻の先で進行中の、イスラエルによるホロコーストのことは知らなかったようだ。「2度とこういうことを」どころか、大なり小なり200回くらいは他民族に対する虐殺を遂行してきた歴史も知らなかったようだ。「平和な国を建設しなければならないという決意」を持つ国が、幾多の国連決議を無視しつつ、平和を求める世界諸国の抗議の声も無視しつつ、戦線を拡大する有様に気がつかなかったようだ。さすが残酷な日本人の代表、まだまだ絶好調である。
 その日本とイスラエルの、共通の親分(昔のやくざの世界では貸元とも呼ぶ)であるアメリカも、好調ぶりにおいてはひけをとらない。国連安保理において、もう何度目になるや知れないイスラエルの軍事行動停止を求める決議案に対し、これまた何度目になるか誰も数える気も起きない拒否権を行使した(13日)。ボルトン国連大使が語ったその理由は、「決議案はバランスに欠き、情勢に悪影響を与える*1
 つまり彼の言うところは、イスラエル兵一名を「拉致る」ことは、100人を超すパレスチナの死者をもってしても償いきれない犯罪なので、あと100人くらいはパレスチナ人が死ぬか、武装組織にイスラエル兵をとっとと釈放してもらいその後ミサイルを5発くらい撃ち込まないとバランスが取れない、ということである。さらにこれが受け入れられなければ、あと1000人パレスチナ人を殺すかもしれないし、その後レバノンを空爆しシリアにもミサイルを撃ち込むかもしれない。そうなるとさすがに「情勢は悪化」ということになるかも、ああ楽しい、もといああ怖い、という意味だろう。
 そしてとうとうレバノンへも駒を進めたイスラエル首相は、アナン国連事務総長の「大規模な国際部隊の派遣」という提案に対して、「時期尚早」と語った(18日)。これは、まだ実戦で使ってみたい新型兵器がいろいろあるし(お得意さんからもそう頼まれてるし)、この際一通りアラブの虫けらにヤキを入れてやるまで待ってくれ、という意味である。
 アメリカも案の定この派遣に反対している。その理由がふるっている。「国際部隊にヒズボラを武装解除する権限があるかどうか疑わしい」というのだ。つまり、その権限があるのはイスラエル(とアメリカ)だけだと言いたいのである。
 その理屈で言えば、ヒズボラにもイスラエルを武装解除する権限がある。ヒズボラだって自衛のために戦っているのだ。イスラエル兵2名を捕虜にしたのも自衛のためである。無人機でイスラエルの艦船を攻撃したのも自衛のためである。ロケット弾によって2人の女性と一人の子どもを含む市民4人を死亡させ、120人以上を負傷させたのも、イスラエルがいつも言っているとおり、それは自衛のためなのである。
 だがしかし、アメリカが言うところの「武装解除の権限」とは、敵方の勢力を所在地域丸ごと跡形もなく粉砕するだけの軍事的実力のことなのだ。ならば確かに、ヒズボラや国連軍には、それはない。
 
 病人たちへの埒が明かないツッコミはそれくらいにして、本題に入る。
 去年(2005年)7月、パレスチナの171にのぼる団体が連名で「国際法および人権という普遍原理の遵守までイスラエルに対するボイコットと資本の引き揚げ、制裁措置を行うよう求めるパレスチナの市民社会からの呼びかけ」という声明を発表した。これは決してむやみな対立を煽るためのものではない。イスラエルの良心的な組織とも連携し、イスラエルの人々にも支援を呼びかけているものだ。
 僕は日本人としてこれに応じ、身近なレベルでのボイコットを広めたい。同時に、政府首脳や両院の政治家たちに、国家レベルでの経済制裁措置を取るよう、できる手段を使って訴えたい。

 ボイコットというと、特定の企業への感情的な攻撃であるとか、便利な生活を我慢して耐え忍ぶ、みたいなネガティヴなイメージがつきまとうところがあるが、選択の自由の実践という意味では、むしろポジティヴな行動である。普段なら政治的な問題意識とは無関係に行使している選択を、あえて意識して行なうに過ぎない。民主主義の実践の一部であり、選挙で議員や党を選ぶのと同じ、形を変えた投票行為の一つなのである。
 たとえばちょっとコーヒーが飲みたいな、と思っても、スターバックスには入らない。他の店を選ぶ。選ぶ余地があるほど恵まれた社会に生きている僕らにとって、これは大した労を伴う行動ではない。
 僕は普段、自販機のジュースをよく買う。でも、コカコーラは買わない。コカコーラが入っている自販機の中身はほとんどコカコーラ・ボトリングの製品なので、それも買わない。すると、街中の自販機のまず半分は使えないことになるが、それでもまだ半分残っているから問題ない。コーラを買おうとする友人には、「パレスチナ問題」を解説している暇はないから、とりあえず「コーラはやめたら?体に悪いぜ」とか言うこともある。マクドナルドについても同じような手を使う。いつかそうした話をできるタイミングができたら、「実は、なんで俺がマック嫌いかっていうとさ、・・・」と切り出せばいい。それでわかってもらえても、もらえなくても、人間関係がこじれるとは思えない(普通の大人同士なら)。
 要するに、できることをできる範囲内でやればいいだけなのだが、僕らの多くはその「できること」「できる範囲」を見誤りがちである気がする。本当はもっとできるのに、なんだか最初から無力感にとらわれているようなところがある。
 実はそれ自体が、見破らなければならない嘘なのだと思う。僕らの日常はさまざまな嘘に取り囲まれている。そこには悪事を隠蔽したり、不必要なことを必要に見せかけるオーソドックスな嘘だけでなく、人々が持っているポジティヴな力を、それが役立たずのつまらないもののように見せかける、あきらめさせる嘘というのも含まれている。そうした嘘に抗うことは、誰のためでもない、まずもって自分自身の自由を守るために必要なのではないだろうか。

 上の「パレスチナ市民社会からの呼びかけ」でも触れられているが、かつてアパルトヘイトで悪名を馳せた南アフリカ共和国の場合、世界規模のボイコット運動は相当に効いた。国連総会や安保理での制裁決議こそ、主に米英の横槍で実を結ばなかったが、一般の市民は粘り強く南アの仮面を暴き続け、抗議し続けた。特に文化の力を通してそれが伝わった面が大きい*2。それによる対外イメージの失墜は、実際の経済制裁措置に匹敵するものだった。
 確かに合州国最大のマイノリティーであるアフリカ系アメリカ人、すなわち黒人社会の存在は肝だった。アメリカは自国内で人種平等を唱えながら、人種差別政策を堅持する南アを支持するという、矛盾を抱え続けることはできなかったわけだ。黒人社会はこの問題に敏感だったし、彼らは無視するにはあまりにも数が多い。それと比べると、アラブ系アメリカ人ははるかに数が少ないし、同じく数は少ないユダヤ系アメリカ人と比べて、政治的・経済的に影響力が強いとは言えないのが辛いところだ(しかもイスラエルの問題は、いわゆる「人種差別」ほどわかりやすいテーマではないという点も難しい)。
 しかし、アメリカの黒人だけが反アパルトヘイトの急先鋒だったわけでない。南アとつながりのある、あらゆる国の市民が(南アの白人市民までもが)呼応した結果として、アパルトヘイト体制は終焉を迎えた。それも、たぶんに平和的な形で。
 忘れてはならないことは、かつてはネルソン・マンデラもANC(アフリカ民族会議)ともども、米英の政府から「テロリスト」と呼ばれていたことだ。マンデラを逮捕する工作に手を貸したのはCIAである。アパルトヘイト体制が終わると、アメリカ政府は手のひらを返したようにマンデラを「平和の使者」扱いし始めたわけだが、大国の主張が道義とは無縁であることを示すわかりやすい例ではある。

 ところで、若き日のガンジーが南アフリカにおいて、インド系移民に対する差別政策に抵抗し、「サティヤグラハ(真理の把持)運動」という、非暴力・不服従のボイコット運動の元祖のような活動を試みたのが1906年、今年はその100周年になるという。ガンジーはそこでの確かな手ごたえを故国インドに持ち帰り、イギリスからの独立闘争に応用したのだった。


*1 P-navi info7月15日付の記事その他を参照。
 大手のメディアに載らないパレスチナの最新情報はパレスチナ・ナビまたはP-navi infoから。現地メディアの翻訳記事のほか、日本人による報告など。寺畑由美さんというラファ在住NGOの方の手記はとりわけ、僕ら一般の日本人とまったく同じ目線からの文章で、胸に迫ります。

*2 ほんの一例として書かせてもらえば、僕が南アフリカという国をはじめて明確に意識したのは、ラジオでピーター・ガブリエル(英国のミュージシャン。白人)の『ビコ』という曲を聴いた時だった。題名どおり、南ア当局に逮捕され獄死した活動家スティーヴ・ビコのことを歌ったものである。普段は軽薄なことばかりしゃべっている、政治とは縁もゆかりもないような若いDJが「アパルトヘイトは許せませんよまったく!」とか言いながら流したのだった。それくらいに、日本でさえ反アパルトヘイトの意識は浸透していたが、その媒介になったのはこうしたポップ・カルチャーだった。
 スティーヴ・ビコについては、その後R・アッテンボロー監督の『遠い夜明け』という映画もあったが、その映画が公開されるころには、すでにアパルトヘイト体制の命運は尽きようとしていたように記憶する。


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