CRISIS? WHAT CRISIS?

2006年8月27日 レイランダー・セグンド

la civilisation faible
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力を持つ者と持たざる者との衝突において
自分の手を汚したくないと望むことは
力を持つ者の側に立つことを意味する
(ザ・ポップ・グループ「There Are No Spectators」)




 レバノン/イスラエルに対する停戦決議が発効し、焦点は「ヒズボラの武装解除」の有りや無しやに移った。――というような子供騙しの言説が、頭の腐った魚のような商業メディアと自称「国際政治ウォッチャー」の口から垂れ流され続けている。
 実際には、くり返されるヒズボラへの挑発や一般住民に対する威嚇など、イスラエルの何でもアリなふるまい*1によって、いつ本格的に破られるかわかったもんではない停戦である。しかもガザでは(一部ヨルダン川西岸でも)相変わらず、「テロリスト狩り」を名目とする不法な集団懲罰の嵐が吹き荒れている。ナチスのワルシャワ・ゲットー掃討をほうふつとさせるこれらの国家テロは、日本のニュースにはほとんど登場しない。今度パレスチナ人がニュースに登場するのは、自爆作戦のような報復行為に及んだ時だろう。
 つまり、いつもと同じくり返しなのだ。大規模な軍事行動が止んでも、「イスラエル問題」は停止しない。それでも日本のメディアの報じ方は、このたびのイスラエル問題や「靖国参拝問題」を筆頭に、いよいよもって世界の現実から背を向け、偽善の塔に引きこもる調子である。もう、一種腹をくくったというか、現実を伝えないことに国益(企業益)を見出そうと決意したかのようにすら見えてしまう。
 そんなわけで、本当はもう古いネタだから載せるのはやめようと思っていたが、やはり記しておくべきなのではと思い直したのが、以下の話である。

 7月10日にNHKで「テクノクライシス」というドキュメンタリー番組(シリーズの1回目だったか)が放映された。たまたま僕は終わりの方だけを観た。ちょうどその箇所が、偶然なのか何なのか、イスラエルとヒズボラの紛争に関連した話だったからである。
 番組全体の主眼は、最先端のハイテク技術が軍事目的などに「転用」されることの危険を伝えることにあるらしかった。その中で、渦中のイスラエルとヒズボラが爆弾を積んだ無人飛行機を遠隔操作して、互いの陣地の奥深くを攻撃できるようになったという、最近の「憂慮すべき状況」の話が出てきたわけだ。
 これは後日(7月15日)、ヒズボラの初の無人機による攻撃で、レバノン沖のイスラエル艦船*2が大破したという出来事もあって、いっそう真実味が増したように感じた人もいるかもしれない。しかし双方の軍事力の歴然たる差を考えたら、そんなのは「だから何?」な話にすぎないはずである。

 ヒズボラがそのような兵器を開発したにせよ、あるいはイランから*3それを供与されたにせよ、その技術的水準は農薬散布用のリモコン・ヘリコプターに毛が生えた程度のものだろう。仮にもっと高度なものだとしても、要するに今まで使っていたロケット弾やバズーカの類より射程が長くなり、狙いにくい場所も少しは狙えるようになり、それによってイスラエルの軍事力に少しだけ近づいたことを意味するに過ぎない。つまり結局のところ、双方の力のバランスを変えるような代物ではない。一体、それのどこが「クライシス」なのだ?
 番組では、既に実用化されているイスラエルの無人機による住宅地「誤爆」*4のせいで、レバノンの民間人に死者が出た事件(最近の“カナの虐殺”を予見させるような―だが例外的事件でもなんでもない!)を前もって取り上げ、一見「公正中立」を保っているかのようだった。だが、これはNHKがよく使う手である。中東の事情に明るくない人の目には(つまり大多数の日本の視聴者の目には)、続けて登場するヒズボラの無人機開発の話題の方が、@順番が後であること、A「我々も今後はハイテクを使うぞ!」と息巻くヒズボラの議長+髭面のむさい男達でいっぱいの集会の映像、BおどろおどろしいBGM、などのせいで、いやでも「クライシス」として頭に焼きつく仕掛けになっているのだ。

 危機感が高まったところで、我らが平和を愛する日本の出番である。
 番組によれば、平和を愛する日本は軍事やテロに使われない平和を愛する技術開発に邁進している。その例として、平和を愛する防衛大学(なんでやねん)の実験チームが、従来のリモコン・ヘリコプターにGPSを応用した平和を愛する制御装置を取り付けたものを開発中である。これは一定のエリアから出ると、自動的に平和を愛して落っこちる仕組みになっている。なるほど、これならテロリストに盗まれても兵器には使えないな。さすが平和を愛する技術立国、日本だ。
 あほか。

 番組では続けてもう一種類の平和を愛する「改良版」が紹介されていたが、僕はそれ以上観る気をなくしてチャンネルを変えたので、後はよくわからない。しかし、わからなくてもいいものだということだけは、命に代えても断言できる。少なくとも「イスラエルとヒズボラ」の文脈において、平和を愛する日本のテクノロジーは、茶番以上茶番未満の役割しか担うことはない。
 理由は簡単である。もしもヒズボラが(あるいはハマスが、ファタハの“鷹”が、イスラム聖戦機構が、アルカーイダが、でもいい)満足なハイテク機器を手に入れられなくなれば、それは要するに現状維持、というだけの話だ。対してイスラエルは、そんな機器をどこからかちょろまかしたり密輸したりしなくても、自分達で開発するか(どう考えても日本の大学なんぞより高度な技術的蓄積を有している)、その分野で最先端を行っているアメリカに相談すればいい。現にそうしてきたのだし、これからもそうするだろう。
 つまり、日本が「兵器に悪用できない」コピー・ガードまがいの技術を世界に浸透させたとしても、持てる側(イスラエルや欧米)はそもそもオリジナルを作れるのだから痛くも痒くもない。痛くも痒くもあるとしたら、それは予算のない途上国やヒズボラのような武装組織だけである。ならば日本の技術は、むしろ格差を、持てる方に有利に広げるだけだ。それこそ「クライシス」ではないのか?いや、格差が今以上に広がらないとしても、かの地の情勢において、「特に何も変わらない」ということこそ、すでに紛れもないクライシスなのだ。アラブの民、とりわけパレスチナの民は数十年そのクライシスを味わい尽くしてきたのだ。良識ある政治家やら科学者やらTVディレクターやらが雁首をそろえて、どうしていい加減それがわからない(わかりたくない?)のだろうか。
 もちろん、ヒズボラのような組織がイスラエルと対等の軍事力を持つよう応援しよう、などと言いたいわけではない。主権国家だからといってイランが核武装することも、ちっとも望ましいわけではない。でも、その背景に思いいたす余裕くらい、僕ら日本人にはあるだろう。現状のままではいられない、という人達がいるのである。そしてあまりにもしばしば、その人達の声は無視されて(押し潰されて)きた。侮辱され続けてきた。
 問題はそうした理不尽を生み出す構造にあることは明らかである。技術的な、あるいは人事的な枝葉末節の話ではない。構造に手をつけなければ治まらない問題がここにはあるのだ。

 だがNHKに代表されるメディアの「公正中立」は、そうした構造に手をつけることを許さない。構造に気がつかない、わけではない。その構造に触れることを意図的に避けるように報道し、議論の幅を狭めた形で国民に引き渡すのが穏当な報道、と思わせたいようだ。たとえば靖国神社の問題も、近頃は昭和天皇の御心がどうだの、A級戦犯がどうだのという話に矮小化し、論点をすり替えている。
 同じような作為はガザ/レバノン侵攻の報道にも通底する。発端はイスラエル兵の「拉致」であり、それ以前のことは考えてはならない。破壊行為はお互い様であり、意固地になっているのもお互い様であり、・・・・何もかもが「平等」に描かれる。
 だがこの際(何度でも)はっきり宣告してやる。そんな「平等」は支配する側、力の勝る側のおためごかしに過ぎない。そんな「公正中立」は、イスラエル・アメリカの側に立っての「公正中立」だと。
 NHKのこの手のドキュメンタリーは、民放のような過剰な演出を排し、丹念に事実のみを拾い上げているという堅実な印象ゆえに、世間の信頼を得ているようなところがある。だが実際には、そこで示される事実がすでに過分に選別的なのであり、9.11以降、それはますますネオリベラル権力寄りの選別になってきていると感じる。

 僕もこの間、当事者双方に「平等に」停戦を呼びかける請願などにせっせと参加してきたが、それは単純に人命第一の発想からである。とにかく戦闘行為を停止させない限り、犠牲者が(とりわけイスラエルでない側に)大量に出ることははっきりしていたので、これを止めることが最優先だった。
 だが「イスラエル問題」は停戦によって「停戦」にはならない。停戦によって問題が解決したかのように錯覚させるメディアの問題も、イスラエル問題の一部である。端的に、それはイスラエル問題が日本人の問題でもあるという証拠の一例なのだが、それ以前にこの国のメディア・クライシスを物語る証拠と言うべきだろう。「今に始まったことじゃない」という人もいるかもしれないが、この状態を放置するなら、危機は単にメディアのレベルにとどまらない。
 危機には背景がある。今僕らが目の当たりにしている危機には、そこに至る要因と長い過程の積み重ねがあった。危機を脱するにも、長い辛抱と抵抗の積み重ねが要るのだろう。


*タイトルの「CRISIS? WHAT CRISIS?」は、英国のロック・バンド、スーパートランプの1975年のアルバム・タイトル(邦題『危機への招待』)から借用。

*1  「イスラエルによって殺された4人の国連監視員たちは、10回も、イスラエルの連絡将校に電話し、爆撃の停止を強く要請した。イスラエル軍は爆撃停止を約束した。そして、実際に停止したが、それは、監視員たちが殺された後だった」―
 7月25日のイスラエル軍機による国連監視員殺害についてのTUP速報より。記事では、2000年以来常駐していた国連レバノン暫定軍の公式記録を基に、今さらながらではあるが、イスラエルがどれほど恒常的に領空侵犯をくり返し、レバノンの主権を脅かしていたかが解説されている。これを読む限り、現在の「停戦」も、有名無実化するのは既定のことのように思える。そうなってもまだ、問題はヒズボラにあるというのだろうか?

*2  このイスラエル艦はなぜ南部レバノン沖にいたのか。それを伝える報道には接していないが、普通に推測すれば、ヒズボラ支配地域への砲撃を準備していた・もしくは行なっていたのだろう。それが攻撃されたからといって、何か意外なことでもあるのか?それこそ自衛の範疇と言えなくもない攻撃である。それが大層なニュースになるということは、今までのヒズボラにはそういう「自衛」をする能力がなかったという裏返しの証拠ではないのか?

*3  しばしばニュース解説などでは、ヒズボラのバックにイランがいる、ということが殊更のように指摘されるが、一体何が問題なのだろう?
 片やイスラエルは地域随一の洗練された軍事強国である上、アメリカから毎年20億ドル近い軍事援助を受け取っている。単に額だけの問題ではなく、アメリカは本来なら門外不出の最新兵器・特殊兵器などを、イスラエルにはあっさり供与することが多い(今回のガザ・レバノン侵攻でも米軍が開発した新型兵器が使われたらしい)。しかもこれはイランが現在のようにアメリカから敵視されるようになるはるか以前、中東の番犬としてイスラエルと並ぶアメリカ製兵器の供給国だった時代から続いている関係である。こっちはなぜ問題にならないのだろう?

*4  番組では、これが本当に「誤爆」だったのかどうか遺族は納得していない、今も議論が続いている、・・・というようなまとめ方で終わっていたが、そもそもイスラエル軍部が言うような「誤爆」だとしたら許されるという問題なのか?賠償しなくてもいいのか?という視点は、きれいに抜け落ちていた。よくあることだ、残念ながら!

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