ミーダーン:パレスチナ・対話のための広場
結成集会に参加して

2006年9月6日 レイランダー・セグンド

la civilisation faible
HOME


 9月2日に大久保地域センターで行われた「ミーダーン:パレスチナ・対話のための広場 結成集会」というものに行ってきた(infoはこちら)。
 ミーダーンというのはアラビア語で「広場」、英語の「フォーラム」に当たる言葉だそうである。主に7月以降、(久々に)大規模なイスラエルのレバノン侵攻を受けて、僕の住む首都圏ではいくつかの抗議行動や講演会などが行われている。そんな中でも、有識者による講義という「お勉強会」に終わるのでなく、参加者同士の対話を重ねて恒常的な何かを模索する、という方向を打ち出しているこの会の発足趣旨には、かつてなく自分の問題意識に近いものを感じたのだった。
 残念ながら、第一回の今回はほとんど一般参加者(100人程度だったろう)の討議の時間はなく、不満の声も聞かれた。僕も確かに不満だったが、実のところ今回の個人的な目玉は、尊敬する現代企画室・太田昌国さんの生トークを初めて聴くことでもあったので、その点では満足だった。

 太田氏と並ぶもう一人の講師は、千葉大教授の栗田禎子さん。僕はその名を存じ上げなかったが、主にエジプト・スーダンをメインに、中東の近現代史を専門とする方だそうである。ご本人は「第一回が私なんかでいいのか」と恐縮なさっていたが、どうしてどうして、その問題提起は「中東問題」については一通り知っていると自負する僕のような者にとってさえ、いくつか目からウロコの視点を含んでいた。
 中でも特に衝撃的だったのは、シオニズム*1はナチズムの正統な後継者である──人類は1930年〜40年代にファシズムと戦ったように、シオニズムと対決しなければならないだろう、という指摘。
 これに対しては、後で参加者の一人から「それは言い過ぎではないか、シオニズムとナチズムではおのずと異なるではないか」というような反論があった。だが栗田氏のここでの話のポイントは、両者の宗教的性格の有無や、人種・民族の捉え方等々の、つまりは「思想」としての細かな差異ではない。暴力と人種主義を正当化し、新たな植民地主義を正当化するイデオロギーが世界を覆っていく、その先兵としてシオニズムの有様が、まさにかつてのナチズム/ファシズム台頭の有様と重なる、ということなのだ。
 この話はまた、「パレスチナ問題」を異国のローカルな問題として捉えるのでなく、日本社会の在り方から捉え返すという、ミーダーンの趣旨とも通じる。アメリカの中東再植民地化とシンクロして拡大するシオニズム。僕が思ったのは、その同じ流れが、アメリカに追随する日本においては、右派の策動による改憲、靖国の復権という形をとっているのではないか、ということだ。サパティスタのマルコスが言う「第4次世界大戦」という言葉も頭をよぎる。

 一方の太田氏は、未完のゴダール映画『勝利まで』(パレスチナ解放闘争のドキュメンタリー)の話を皮切りに、専門家ではない素人の我々がどうやって「ここ」と「よそ」の結び目たりうるのか、「自分がいない場所」について語る・表現することの意義をどう見出すのかといった、これまたシビアな問題提起を行なった。そこではパレスチナ/中東問題の枠にとどまらず、言論によってこの世界の在りようと切り結ぶための、いくつかのヒントが示されていたように思う。

 ただ、お二人の話には気づかされ、触発される点が多かったとはいえ、疑問な点、違和感を覚える点もあった。
 その一つに「解放のイメージ」という言葉がある。これは会のパンフにも「中東における解放のイメージが見えにくくなってしまった状況の中・・・」といったフレーズがあったが、二人の講師の話を通してさらに肉付けされていた。
 確かに、──オスロ合意の欺瞞が自己崩壊し、ハマスやヒズボラのような宗教組織を母体にした強硬派の台頭もあり、情勢は混沌としている。だが、混沌自体はこの地域において、今に始まったことではない。昔から、よくもこんな狭っこい地域にこれだけの政治的混沌がひしめいている、という見本のような場所がパレスチナだった。
 太田氏も栗田氏も、60〜70年代には「解放のイメージ」はもっと単純だったと言う。つまりそれは「社会主義」が健在だった時代においては、社会主義革命にそれを託せた、という話である。確かにPLO諸勢力も、左翼的なイデオロギーで運動を牽引している時代があった。マルクス・レーニン主義路線をベースに戦ってシオニズム体制の解体、祖国奪還、そして民族解放という道筋を信じていたパレスチナ人は少なくなかった。そしてまた、パレスチナ人の闘いが世界の左翼潮流に与えたインパクトも大きなものだった。
 しかしそれ以前に、昔も今も変わらないのは、パレスチナの「解放」はパレスチナ独立国家を樹立すること、である。同じくはっきりと、「シオニスト・イスラエル」の解体がその前提であることも変わらない。イメージもへったくれもない。それについて、「社会主義」が何らかの成果を収めたわけでない以上、(過酷な現実を生きる彼らだけに)いつまでも夢を見続けてはいられなかったのではないか。つまり1990年以降の社会主義圏の崩壊という外部条件とはあまり関係なく、パレスチナ人たちは自分達の事情で「社会主義」路線に見切りをつけていた(つけざるを得なかった)のではないか、ということがある。僕の見方では、82年のレバノン侵攻−PLOのチュニスへの転進があって、その「見切り」が決定的になったように思う。87年に始まった占領地のインティファーダは、既にかつての路線とは異なる新しい潮流を背景にしていた。

 気のせいかもしれないが、どうも解放の「イメージ」が今は見えにくい・・・という言説からは、パレスチナ独立国家が、何か非の打ちどころのないユートピアに近いもの──かつての社会主義が思い描いたような──として出現しなければ「解放」ではない、というニュアンスがそこにあるような気がする。パレスチナ国家は「いい国家」でなければいけない、というような。
 だけど僕の考えはこうだ。そこに至るプロセスの難しさはあっても、最終的にパレスチナという国がそこにできればいい。そこで生じる問題は、その時に考えればいい。なぜなら、それは世界のどこの国でも生じうるような問題だが、そのような「国」になることすら許されずに苦しんでいるのがパレスチナ人だからだ。せめて普通に「問題を抱えた国」になることが、パレスチナの「解放」であって何が悪いというのだろう?
 かつての南アフリカ共和国はそのアパルトヘイト政策を放棄し、ANCが第一党になり、マンデラが大統領に就任した。これらは本来劇的なことでもロマンティックなことでもない。ただ「白人原理主義」という、誰が見ても異常な状態に終止符を打っただけだ。そしてそれによって、南アフリカ国民にバラ色の世界が開けたかと言えば、そうではない。経済問題をはじめ、元からある問題に加え、新たに生じた問題も山積している。だからといって南アフリカは「解放」されなかった、と言う人はまずいないだろう。「解放」とは、人々が当たり前の自由・権利を手に入れ、それによって生じる様々な問題に対する責任も引き受けること、ではないか。

 同様に、太田氏が触れた「革命の軍隊が民衆抑圧装置に変貌する〜軍隊と民主主義は両立するのか」という問題も、それ自体大切なテーマであることは、それこそ太田氏の執筆・翻訳によるサパティスタ関連の本に親しんでいる僕は、よくわかっているつもりだ。だけど今、パレスチナにおいてそれを考えなければならないというのは、納得しづらい。というのは、パレスチナ人の置かれた立場というのは、中南米の先住民や、あるいはチェチェンなどとは前提が違う、似て非なるものだと思うからだ。
 たとえばメキシコ先住民の場合、自分たちを不可分の一部とする新しいメキシコの創造、といったことがテーマである。チェチェンの場合は、ロシアからの分離・独立である。いずれも、彼らが今いる場所は、(良くも悪くも)国際的に認められた主権国家の内部だ。しかしパレスチナの場合、そもそも主権国家と(正式に──というのはこの場合アメリカの承認を得て、ということだが)認められていない、真空地帯に1948年以降置かれ続けている。あたかも生まれながらの幽霊か、透明人間のような立場。それが国内においてではなく、国際的にそうした宙吊りの状態にいるということこそ、パレスチナ人の悲劇の源泉なのである。
 もちろん、今のハマスやヒズボラなどが、いずれ非軍事的な組織になっていくことはあらゆる意味で望ましい。パレスチナ人自身が民意をもってそれを働きかけていくことができたら素晴らしい。だが手にするべきものを手にしないまま、今のパレスチナ人にそれを要求するのはフェアだろうか?(まして彼らが再三要求している、イスラエルとの間に割って入ってくれる国連軍さえ認められた例がないというのに!)──そうではなくて、軍事力に対する批判は、イクバール・アフマドの言う「暴露すべき敵の矛盾を逆に覆い隠してしまう武力」*2という観点からなされるのが、パレスチナの場合には的を得ているのではないだろうか。

 素人考えではあるが、大体そんなあたりが僕の考えたことだ。
 ミーダーンには期待している。今回の会合だけでも、今2006年の事態を迎えて、もっと効果的な、新しい何かを生み出さなければという、運営委員と参加者の気迫のようなものが、少しだけど感じられた。これは、かつて何度か参加したことのある同種の会合では感じられなかったような雰囲気だった。決してそれら昔の会合や活動がダメだった、というわけではないのだけれど。これは自分たちにも降りかかってくる、日本問題でもあるのだ、という意識を持っている人が昔より多くなったのではないか、と僕は推測する(それとも、僕がそう思いたいだけだろうか?)。
 具体的な形が見えてくるのはまだ先になるだろうが、これまでのパレスチナ支援の手法とは一線を画する何かが、日本発で生まれるかもしれない。いや、生み出さなければならない。それくらいの気概を持たなければいけない状況だろうし、でなければ「解放」という言葉を持ち出すに値しないと思う。
 「解放」の当座の目標は拡張主義的シオニズム体制の終焉だろう。それはパレスチナ問題ではなくイスラエル問題なのだから、イスラエル人が立ち上がらなければ始まらない。パレスチナに対する連帯は、同時にイスラエルにあって国を変えようとする人々との連帯であり、共同作業として行われるしかない。僕としてはミーダーンがそこに加わることを期待して、今後もできる限り参加していきたい。


*1 シオニズムには解釈の違いや、「改訂派」などのヴァリエーションもあるが、第一回シオニスト会議(1897年、バーゼル)で採択された綱領にある、「大国政府の承認のもとに、ユダヤ・ナショナリズムを興し、ユダヤ人の植民活動によって、パレスチナにユダヤ人のホームランドを建設する」というのが最も基本的な定義だろう。

*2 7月26日付の拙稿イスラエルに経済制裁を!ガザ侵攻と「北のミサイル」―C後半部を参照してください。

Back   HOME


inserted by FC2 system