2007年 政策提言のようなものA
2007年8月29日 レイランダー・セグンド

la civilisation faible
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 今年もすでに半分以上過ぎた時点で「2007年政策提言」とか言うのも、ずいぶん間が抜けていることは承知している。要は最近までにもやもやと溜まっていたことを、「2007年」という器に盛っておくことにしただけの話だ。@でも書いたとおり、あまり厳密な政策を考えているわけではないが、事柄を批評するだけでなく、何らかの代案を提言するという形にはそれなりにこだわって書いているつもりなので、そこに少しは新味を感じてもらえれば助かるのだけど・・・・虫がいい話だろうか。


3 沖縄の米軍基地縮小

 日米安保と米軍基地の役割を見直すことは、北東アジアの外交の広範な問題を含むため、一朝一夕に「米軍出て行け」というだけで済む話ではないことは承知している(基地があることの経済効果云々は論外のまやかしだと思うが)。

 と同時に、今さらくり返すのも気が引けるが、冷戦終結後の日本外交が、アジアの緊張緩和の好機を活用する方向にではなく、既得権益にしがみつく勢力の思惑や、国内の矛盾から目を逸らす意図もあってか、緊張を煽る方向で進展してきたのも確かだ。その流れの中で昨年、防衛庁が防衛省に「格上げ」になっても、“平和を愛する国家”の国民の間に、さしたる動揺は走らなかった。
 国内の平和運動の中では、今でも「防衛省」ではなく「平和省」を作るべきだという対抗案を立てて、この流れを変えようとしている人達もいる(平和省プロジェクトそのほか)。ただ僕は、このアイデアにはやや違和感を持っている。日本国憲法の趣旨を正しく活かすならば、本来「防衛庁」自体があるべきではなく、外務省だけでよかったはずだからである。戦争と平和の問題は外務省が「平和外交」にすべてをかけて打ち込む、それが本来の筋なのである。
 実際の話、戦後しばらくは「防衛庁」なんてなかった。その時期に、つまり1951年のサンフランシスコ講和条約以前に日本は「独立」していなかったんだから当然だという見方もあるが、日本軍部が解体されたにも関わらず、平和憲法の一方の推進者であるアメリカ(ちなみに、もう一方はあくまで日本国民である)が自ら変節して、徐々に日本を冷戦の枠組の中に駒として組み込む過程で、「防衛庁」も生まれたことは歴史の事実だ。すでに1950年にアメリカの要請により「警察予備隊」が発足していたこと、その取り決めはすべて吉田茂内閣と米当局の間で内々に進められたこと、51年の講和条約は最初の日米安保条約と抱き合わせで調印されたことなどを、見逃すわけにはいかない。
 改憲論者はしばしば憲法を「アメリカの押しつけだ」と言うが、アメリカの押しつけ自体がそんなに問題なら、なぜ「防衛庁」や「日米安保」という押しつけの方は堅持、どころか拡大・深化しようとするのだろう?それは押しつけではなく日本人が望んだから?冗談だろう。今の「平和ボケ」の日本人ならともかく、戦後間もない当時の日本人が、平和憲法を歓迎した時の10分の1の熱意を持ってすら、日本の軍事力の再興や日米安保体制を歓迎したはずがない。右翼や戦前からの残存保守勢力を除けば、せいぜいが(当時の自民党支持者ですら)「仕方ないだろう・・・」という程度の、消極的な同意をしたくらいなのだ。

 本来必要なのは、防衛庁を外務省の中の一角に「格下げ」する方向だったはずだ。すでに「防衛省」までが誕生してしまった今、それを言っても始まらないという面もあるけれど、ここに至る経緯を忘れずに、そうした方向の可能性を追求し続ける姿勢は捨ててはならない。
 「平和省」創設の路線が間違いだとは言い切れないけれど、『1984』よろしく平和省=戦争省という、言葉のすり替えで現実を隠すのに利用されてしまいそうで、なんだかゾッとしない。現政権の人間などは、むしろ積極的に「防衛省」を「平和省」と呼び習わしたいのではないか。僕らからすればギャグだけれど、本気でそう思いかねない危ない人間も、政界には多い。そういう連中に、この「平和省」というアイデアが盗まれたら──何しろ上っ面だけソフトにして、中身をきな臭いものにすり替えることだけは、たいそう上手な連中である。
 いずれにせよ、本来外交が機能していれば国際関係の緊張は避けられるという前提を国民に喚起するのに、「平和省」というアイデアが有効だとは思えない。かといってこのままでは、ただでさえ力量を疑われる日本外交が、ますますアメリカの「力の外交」の傘下に収まって手足が退化し、自立性を失っていくことに無感覚になってしまう。
 沖縄の基地問題とは直接関係のないようなことを言っているように思われるかも知れないが、そうではない。原則論と言えばそうなのだが、この原則を見落とした議論は意味がない。こうした外交の無能力が許される状況のしわ寄せが、集中している場所の代表格が、まさに沖縄なのだから。

○お台場に米軍基地を

 そこで僕が昔から、半ば感情的に主張しているのは、沖縄の基地を東京に持って来い、という主張である。埋立地を拡げてお台場のレジャー・スポットやテーマパークを作る金があるなら、そこを潰して基地にすればいい。
 僕が言っているのは今の座間や厚木、かつて砂川に作られようとしていたような「郊外」型の基地ではない。埋立地だらけの東京湾に作れと言っているのだ。
 空が混雑しているから危ない?成田や羽田の飛行機が迂回すればいいだけの話だ。
 環境が悪化する?それは心配ない。心配ないはずだから、沖縄にあんなにあるのだし、今も辺野古や高江の自然を叩き潰して作ろうとしているのだ。
 埋立地で足りなければ、天皇一家には京都の御所に引っ越してもらって、皇居を丸ごと基地に供用すればいい。米兵の宿舎には、議員宿舎をあてがえばいい。議員は全員自宅に戻るか、自腹でマンションでも借りればいい。簡単なことだ。

 無論、これは当てこすりに過ぎない。だが当てこすりであっても、言い続けなければ、沖縄に不当に米軍基地が集中する現状、その件でアメリカと本気で交渉する気がない政府の姿勢に、国民は無頓着なままだ。
 日米安保によりどうしても基地が必要なら、日本国の中心、政府のお膝元である東京都が、率先してその痛みを背負うべきだ。遊び場などもう腐るほどある。東京都民からは特別に基地維持税を取り立ててもいい。お国のためだ、仕方ないだろう、都知事さんよ?
 つまりは、経済発展のおいしいところだけをいただいて、地方に問題を押しつけるにも限度があることを、日本の人口の過半数に達する都市部の人間が思い知ること。原発の問題と同じ構図である。そこから、嫌でも外交の無策を実感し、国の方向性を切り替えなければいけないという機運が盛り上がるのではないか。
 もちろん、本当に上に書いたように、沖縄の基地機能を東京に持ってくることができればの話だ。実現の可能性はまずないが、それを想像するだけでも見えてくるものがあると思う。見えてくるもの、それは「日本国として、もうこれ以上一つたりとも沖縄に基地を増やすわけにはいかない」ということである。同時に、かといってどこに増やすんだ?ということでもある。
 ということは、どうしたって移転・移設という次元を超えて、大もとである日米安保の方向性を軌道修正するべく働きかけねば治まらない。そのために「東京に原発を!」というのと同じ発想で、「お台場に米軍基地を!」と声を大にして言えるような議員がいれば、と思うのだ。

○沖縄に中国軍基地を

 もう一つ、当てこすりとはちょっと意味合いの違う考えを言ってみたい。
 沖縄の米軍基地は一般に「中国の脅威」と結びつけて語られることが多いが、それは本当にそうなのか?という話である。沖縄は、中国や、北朝鮮さえもが超長射程のミサイルを備えた現在にあっては、日本の本土防衛にとって好都合な位置にあるとは力説しにくい。
 むしろ主眼は台湾の防衛だろう。それならば台湾に基地を移せばいいのだが、それだといくらなんでも露骨に中国を煽ることになるから、一歩退いた沖縄に常駐している、というのが通説としてある。ただ実際には、沖縄にあるだけでもその意図は十分に透けて見えるから、このままでは中国の警戒心を解くことなど不可能である。退くならもっとあからさまに退かないと、意味がない──。

 僕はそれより、もっと安上がりな、庶民よりの解決案を持っている。
 発想を転換して、中国の人民解放軍に、沖縄に常駐してもらうのだ。
 気でも狂ったか、と言われるだろうが、結構本気である。といっても、この場合の中国軍とは、数十人〜百人程度の使節団のような連中で、最小限の武器だけを携行し、やることは大使館の沖縄出先機関みたいな仕事、つまり軍とは言いながら実質事務員である。それプラス、沖縄に中国人観光客を呼び込むキャンペーンでもやってもらえば、なおいい。出張国営企業、みたいな感じでもある。
 だったら軍人である必要はないじゃないか、中国の民間業者が沖縄に来るなり、沖縄の企業と提携すればいいだけじゃないかと言われるかも知れない。しかしこれは、あくまで日本が国として招請している形で、相手の「国家機関」の人間に常駐してもらうことに意味がある。中国が沖縄を攻撃しないことを保障する、言葉は悪いが言わば「人質」として沖縄に滞在してもらうわけである。そのためには、肩書きは軍人である方が都合がいい。というか、軍人でなければ、中国側も、あえて人質になりに行くような任務を与えることができないだろうし。
 もちろん、これも外交によってこういう話に持っていくのである。「脅威」とされている連中を、国の主導であらかじめこちらに呼び込んでしまう。当然、中国がその話に乗ってくるためには、交換条件として米軍基地の縮小または後退が約束されなければならない。
 そこで、外交がものを言うのである。長期的に見て、アメリカにも中国にも損にならない道、というものを示さなければならない。それはたとえば、大田昌秀元知事が提唱していたような、沖縄をアジア・太平洋地域の貿易センターと位置づけ、その中で中国にもアメリカにも不可欠な役割を負ってもらうことが必要である。

 出先機関は最低一箇所の米軍施設を解体するのと引き換えに、その跡地を使わせる。出先機関の業務が軌道に乗った後であれば、民間の企業もぼちぼち沖縄に出向けるようになる。古代の昔から、大陸とは盛んな通商があった沖縄である。こうなれば、米軍はますます沖縄に居づらいだろう。
 その代わり、負けじとアメリカ企業が沖縄に進出してくるかも知れない。そこで中国企業とアメリカ企業のバトルが始まれば、米中関係が悪化し、せっかくの基地縮小の目論見が裏目に、なんて可能性もあるかも知れない。だがそこは温和な沖縄の人達が、うまく両者を取り持ってやっていってくれると信じたい。

 逆にもし、在沖米軍が台湾vs中国のバトルに介入するならば、中国は日本領である沖縄を叩く言い訳を手にしてしまう。沖縄に基地があることで、台湾をめぐる戦争に日本も巻き込まれる──といっても、結局は沖縄が粉々になった時点で、何らかの「手打ち」が成立するのかも知れない。すると、またしても日本は、沖縄を犠牲にして、本土の安全を優先することになる。そんなことが21世紀の民主国家に許されるだろうか?

 いずれにしろ「在沖中国軍」など、「お台場に米軍基地を」より、もっと非現実的な話だと一笑に付されることはわかっている。わかっているのだけど、じゃあ「現実」ってなんだ?と考えた時、在日米軍が現実的で在日中国軍はそうではないというのは、実はわかったようでわからない話ではないか。在日米軍ということ自体、戦前の日本人なら夢にも考えなかったことが、実現してしまっているのである。今の狭い歴史のスパンの中で常識とされていることが、そうそういつまでも常識でいられるはずもない。
 ただ本当に大きな問題は、日本がどうの、沖縄がどうのという以前に、基地のプレゼンスによって世界をがんじがらめにすることはアメリカの基本的な世界戦略であるということだ。その戦略をどう突き崩すか(またはすり抜けるか)を正面から考えるのは、このコラムでは荷が重過ぎるので、あえて突っ込んでいないことはお断りしておく。



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