2007年 政策提言のようなものB
2007年9月24日 レイランダー・セグンド

la civilisation faible
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4 死刑制度廃止

 死刑制度を廃止するべき大筋の根拠は出尽くしている。ごく大雑把に分ければ、以下のようなことだと思う(主に凶悪な殺人事件を念頭に)。

 @殺人はいかなる理由でも正当化されてはならない。殺人を裁くのに、国家の殺人をもってすることは倒錯である。
 A「死をもって死を償え」というのは、犯罪と同レベルでの応報の論理・感情である。だが刑法はそれより一段高いものであることが要請される。
 B遺族感情は均一ではない。感情の大もとには、犯人を殺してやりたいほどの憎悪が共通してあるとしても、実際にすべての遺族が死刑を求めているわけでもない。死刑廃止運動に加わっている遺族すら存在する。
 C冤罪の可能性が常にある。これは単に可能性としてあるのではなく、現実に幾度となくくり返され、今も日々起きている。
 D犯罪抑止効果がない。すでに死刑を廃止している国で、廃止によって凶悪犯罪が増加した事例は一つもない。
 E刑罰の目的は教育・矯正である。変わることのできない人間はいない(というより、変わらずにいられる人間はいない、と言うべきだ)。
 F刑を執行する刑務官の人権が考慮されていない。

 こういうことを書くと、必ず「○○のような残虐な事件はどうなんだ」とか「おまえの肉親を殺されたらどうなんだ」とかいった、こちらが事件内容の残虐さを知らないか、あるいは残虐さに鈍感であることを前提にしたような反論をしてくる者がいる。最近で言えば「山口母子殺人事件」とか、一昔前であれば「女子高生コンクリート詰め」の事件、オウムの一連の事件、そして通り魔殺人や幼女誘拐殺人、などなど。これらの公判のニュースには、「さっさと死刑にしてしまえ!」という目を血走らせたヒステリックな野次が、いつも金魚のフンのようにくっついてくる。
 だが上に挙げたような死刑廃止の論点は、どんなに残虐な事件であろうと、いや、近年巷を騒がせた残虐な事件を全部合わせたより10倍も残虐で・20倍もの人数を殺す事件が起きようとも、なんら説得力を失わない。もちろん僕の肉親が全員皆殺しに会って、僕が生きる希望をなくし、感情が抑えきれなくなれば、裁判を待たず、犯人目がけて自爆テロを敢行するかも知れない。いいか悪いかではなく、そういう可能性はある。友達が止めてくれるのを願うばかりだ。しかし、その時でさえ僕は、「死刑制度」に同意することだけはしないだろう。

 むしろ逆に、死刑に賛成だという人達の一体何割が、上に挙げたような@〜Fの論点について、子細に検討したことがあるのか。Link Specialの「福岡事件」のところでも書いたが、僕はたとえばC「冤罪の可能性」一つだけでも、本来十分に死刑廃止の論拠になると思っている。それがそうなっていないのは、死刑問題以前に、警察の取調べの問題など、冤罪体質とでもいうべきものが過去の遺物ではないという認識が欠如していたせいだろう(最近ようやく取り上げられることが多くなってきたが)。

 それにしても──僕が上の@〜Fの各論点に加え、あるいはそれ以上に問題としたいのは、存置論者と、存置論者ですらない一般の「無関心者」が、これらの論拠に正面から向き合うことを避けている背景そのものである。僕は、その背景とは、つまり犯罪を自分達の問題として、社会全体として償うという観点の欠如ではないかと長年思っていた。
 言い方を変えれば、@〜Fの後にGとして、「死刑にして片付けてしまうと、凶悪犯罪を社会として償うことができないままになってしまう」というようなことを付け加えたい。実際、そういう姿勢が人々の意識から脱落しているからこそ、凶悪な犯罪は後を絶たず、社会として学ぶところがないままに、ヒステリックな「死刑にしろ!」の合唱をくり返すのみ、なのではないだろうか。


提言:コミュニティ会議の開催

 そこでようやく、「政策提言」めいた話に移る。
 これは実は以前、友人と「女子高生コンクリート詰め殺人事件」をめぐって文通の議論をして、そこで僕が思う「社会として責任を取るとはどういうことか」のイメージを、彼に伝えるために書いたアイデアだ。以下、ほぼ元の文のまま転載する。
 たとえば「コンクリート」の事件なら、加害者の少年達に関わりのあったすべての人間が、大なり小なり有罪を自覚することが最低限必要だと思う。その上で司法行政の担当部局が、「なぜこんな事件が起きてしまったのか・自分達には何ができたのか・これからどうするのか」ということを話し合う地域の会議のようなものを義務として開催すべきだ。
 参加者は犯人の親・友人・教師・近隣の住民など、日常犯人と接する機会のあった人達すべてで、参加は強制。もし従わなければ罰則規定がある。近所の人とかで「なんでわたしが?わたしは関係ないですよこの忙しいのにキイキイ」なんて言い出しても容赦しない。逆にそれほどつき合いがなかった人でも、参加したいというなら歓迎する。
 すでにこうした人達は犯人の裁判の時にも顔を合わせたりするんだろうが、裁判は彼ら自身の問題がテーマではないし、面つき合わせて話し合えるわけでもない。また裁判は有罪かどうかを決めるため、その量刑を決めるためのものだが、こっちの会議は抽象的に「有罪」であることは前提の上で、問題を分析する会議だということ。単なる「反省会」「勉強会」ではない。
 もちろん被害者遺族の参加もあり。事件から間もない時期には、参加したいという心境になる遺族はそれほど多くないだろうが、本来遺族は、肉親の死の社会的な意味づけを知りたいと──事実、それだけがかろうじて実質的な“癒し”なのかもしれない──思うはずだ。彼らの参加資格は最優先で保証する。その上で、キャパの許す限り、一般の人達も傍聴者として、また時には質問者として参加することができる。
 会議は週1ペースくらいで延々何回でもやる。少なくとも参加者の大部分が意見は出尽くしたと思えるところまで、様々な問題を徹底的に議論する。遺族の判断はもちろん重要で、遺族が「こんな型通りの安易な結論しかないのか」って怒るようなら、重く受け止めなければならない。だからといって遺族は裁判官ではないし、遺族の意見を常に上位に考えるわけでもない。会議には事件の関係者とは別に、やはり犯罪学の専門家、司法関係者などもナビゲーターとして参加してもらい、実際的なアドバイスを受ける必要がある。
 話し合った内容は、司法機関を通じて公に文書などで発表する。誰もが公共機関で無料で閲覧できるようにし(もちろん獄中の犯人も)、それによってさらに広いコミュニティ(できれば全国津々浦々)で議論の材料とする。そこで内容の不備の著しいことが批判されれば、新たな会議の招集もありうる。つまり、この件はこれで落着、などということは永遠にない。いつまでもアクティヴな課題として社会に提起され続ける
 費用は国の被害者給付金などを増額してこれに当てる。その財源は一般の税金だけではなく、むしろ犯人が獄中で作業労働して得た賃金なんかを積極的に当てるのがいい。

 ・・・こうした措置を取れば凶悪犯罪はなくなる、なんて無邪気に信じてるわけじゃないよ。でも、社会の側のこうした取り組みが当たり前のものとして定着すれば、その手の事件を未然に防ぐのに少しは貢献するし、遺族の心にもほんの少しだけ実質的な慰めをもたらせるし、獄中の犯人の更生にもリンクして、側面支援することになるはずだよ。
 これはあくまで社会としてのできる取り組みの例だが、これだけをもって「だから死刑はいらない」ってことの証明にはならない。だけど、こうした取り組みの可能性を一切考えもせずに、ただ死刑を望むっていうのは、少なくとも事件を自分の問題として考えていない奴の言うことで、そんな奴にそもそも死刑賛成を口する資格なんかあるのか?と俺は思う。

 この最後の部分につなげてどうしても言いたいのは、凶悪犯罪者に対して「こんな奴と同じ社会に生きていけない」ということで死刑、すなわち社会からの抹殺を主張する者は、殺人の起こる下地を殺人者と共有しているということだ。つまりありていに言って、死刑を主張する人間は、被害者より加害者である殺人者に非常に近いところにいる。「こいつとの共存を否定せよ」という思考は、まさしく殺人者の思考そのものなのだ。
 ある死刑囚が、自分の殺人の「捉え直し」を、それこそ(比喩でなく)血反吐を吐くまで自分を追い詰めて考え抜いた、そうした文章を読んでハッとさせられたことがある。殺人者の思考とは、まさに「共に生きる関係の否定・破壊」がもとにある。共生力・共感力の欠如が、自分を殺人へと導いたと、それに気づくまで獄中で何年も考え抜かねばならなかったと、その死刑囚は懺悔している。この悟りの重さ、それに続く(死ぬまで続く)痛惜の気持ち、償っても償っても誰も救われはしない、それでも償わずにはいられないという地獄の思いに比べれば、死刑などそもそも罰ですらない、「罰の停止」「罰の放棄」でしかないという考えも浮かんでくる。

 死刑を廃止すべき理由については、僕自身まだまだ書きたいことが山のようにあるが、ここでは政策提言として、死刑に頼るのでなく、「社会として償う」方向性を喚起することだけにしぼった。
 犯人をどう処するかではなく、我々がどうするのかという点を的に据えたものなので、普通言うところの「死刑の代替案」とは違う。しかし僕の場合、「死刑をなくして、代わりにどうするんだよ?」という問いかけに対し、無期懲役の問題や刑務所の矯正プログラム云々を話題にする前に、まず卓上にガツンと置きたいのが「社会としてどう責任を取るんだ」という視点なのである。なぜならこの国において、その視点の欠如こそが、新たな凶悪犯罪を生み出す温床であり続けているからである。
 「被害者の立場を思えば」といって死刑を肯定する人々は、むしろ加害者の側に立っている。そうしたことをできるだけ国民の目から遠ざけておきたい国家もしかり、言うまでもない。だが、改心したかつての加害者は、自分の罪をまともに受け止める心の境地に達した時点で、もうその「側」にはいない。それでは、善良なる国民の「世論」が支えているとされる制度により、絞首台に立つ者は、一体誰なのだ?

 死刑制度の存置は、この国の人々の心を大きく歪ませている。世界の多数の国にならい、国連の要請に従って、これを廃止すべきである。


『死刑囚からあなたへ』/日本死刑囚会議・麦の会 編著(インパクト出版会、1987年)より。

 死刑問題全般については、webでは主に以下のサイトを参照している。
 死刑廃止info!〜アムネスティ死刑廃止ネットワークセンター
 無限回廊より 「死刑の現状」のページ



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