『墨攻』

監督・脚本 ジェイコブ・チャン(2006)

la civilisation faible
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 中国・日本・香港・韓国の合作映画である。
 原作は90年代に人気を博した森秀樹作画のコミック。そのコミック自体、92年に中島敦賞を受賞した酒見賢一の同名小説が原作である。ジェイコブ・チャン監督が基にしたのは、香港でもヒットしたというこのコミックの方で、同じくこのコミックのファンだった香港を代表する俳優アンディ・ラウが主演を務めている。プロデューサーとしての顔も持つラウ自身、映画化の構想を持っていたが、チャン監督に先に映画化権を取られてしまったのだという。しかしラウが主演を演じることで、結果的には二人がこの作品のために手を結ぶ形になったわけだ。

 簡単にストーリーを紹介すると、紀元前370年ごろの中国の戦国時代(秦による統一の手前の時代)に、墨子の教えを実践する革離という墨者が、大国・趙に呑み込まれようとしていた梁という小都市国家(これは架空の国)の救援に1人赴き、優れた防衛のための知略をめぐらし、見事趙の軍勢を退けたのだが・・・・という話。
 すると、「三国志」の諸葛孔明のような天才「軍師」が、ふんぞり返った大軍をスマートにやっつける痛快な活劇か、と思ってしまう人が多いかも知れない。映画のキャッチ・コピーも「10万の敵にたった1人で挑む」なので、そう思われても仕方ないのだが、実はそんな話ではない。このコピーは、厳密には正しく内容を伝えていないと思う(映画のキャッチ・コピーなんて往々にしてそういうものだけど)。


  墨家の偉大と限界

 「非攻」や「兼愛」という言葉に代表される墨家の思想とは、平たく言えば「1人の人間を殺せば殺人だが、戦場で100人殺せば英雄」という戦乱の世相に真っ向から異を唱え、戦争の正当性を否定した平和主義である。
 ただ手法においては、ガンジーのような絶対非暴力の平和主義とは違い、墨家は独自の強力な戦闘集団を養成していた。この集団は、ありとあらゆる「専守防衛」のための技術を研究していた特殊部隊のようなものである。墨家は出来る限り侵略を行わぬように大国の君主の説得に尽くし、それが無理となれば、侵略される側にこの「防衛専門部隊」を派遣し、防衛戦を指揮させ、侵略軍を撃退した。その実績と共に墨家の名は中原に広まり、一時期は儒教と勢力を二分するまでに支持を集めていたと言われる。
 今我々が使っている「墨守」という言葉も、この墨家の優れた「守り」の事跡から生まれた言葉だ。対して「墨攻」というタイトルは形容矛盾のようでもあり、「守り」と「攻め」の境界のあやうさを暗示しているようで意味深である。

 つまり、墨家の説く「非攻」の「攻」とは、もっぱら侵略・併合の戦争を指していた。それに対し、防衛のための戦争は正当かつ必要な行為であると考えられていた。
 ところがこの映画では、「正当な防衛」自体が、さらなる侵略戦争の激化を呼び起こすという展開を含んでいる。
 主人公革離は墨家本体の指示に背いて、独断で梁国の救援要請に応じてやって来た。映画では説明されないが、実はこの頃の墨家のリーダー(創設者墨子から数えて4代目)は、弱小国防衛の価値を見失っていたから、というのが物語の設定である。救っても救っても、戦争の根は絶てない。それならいっそ、絶対的に強い大国一国が全土を平らげてしまった方が、絶対平和につながるのではないか──そうした観点から、墨家は新興国家・秦による統一に手を貸す方針を固める。革離は「そんなのは墨家のやることではない!」と反発し、一人梁国に向かったのだった。

 しかし歴史的なスケールにおいてはともかく、映画において革離が直面する展開を冷静に検討すれば、梁の要請に応じなかった墨家本体の判断は正しかったのかも知れない、と思えるフシも多々ある。
 最初の戦闘で革離の戦術にしてやられ、膨大な犠牲を出して退却していく趙軍の兵士たちの顔には、「おぼえていろ!」という憎しみの表情が浮かんでいる。これは、よく時代劇などで悪漢が捨てゼリフで吐く「おぼえていろ!」とは違う。もっと深い、人として当然の感情の発露なのだ。この部分をチャン監督はしっかり観る者に印象付けようとしている。
 侵略してきたのは彼らだが、彼らだって人間だ。苦楽を共にした仲間を無残に殺されては、逆ギレと言われようと何と言われようと、憎しみが湧き上がるのは人情である。そして革離自身が、彼の戦術によって惨死していく敵軍兵士の姿を見て打ちのめされてしまうという情景と、この趙兵たちの表情はセットになっている。ここは「墨守」という名の戦争=「墨攻」の本質の一端が浮き彫りになる、重要な部分だと思う。

 あるいは「10万の敵にたった1人で」と言っても、革離は戦いの経験のない百姓たちまでを「軍隊」に編成し、軍・民の隔てない国家総動員体制による戦いを計画・指揮するのだ。敵将の言葉を借りれば「民衆を持ち駒にして」いるとも言える。実際それによって結構な数の死傷者を出してしまい、観る者としては、これなら最初から大人しく降伏していた方が、革離が言うように「男は奴隷、女は犯される」としても、命まで失う者ははるかに少なくて済んだのではないか、と思えてしまう。
 王をはじめ官僚達は降伏を考えていた。百姓たちの中にも、「この国が守られたからといってそれがなんだ。俺達の苦しい生活は変わらない」という声がある。至極もっともな意見だろう。
 それに対して革離は「奴隷の平和など本当の平和ではない。どっちにしろ地獄を見るなら、防衛のために戦った方がいいと思わないか!」とけしかける。結果、最初の戦闘で勝利した梁の民衆は奴隷にならずに済み、革離は救国の英雄に祭り上げられる。
 そんな彼はしかし、もし趙国がどこかの国に侵略されそうで、自分が防衛を招請されたら、喜んで出向くと言ってはばからない。それはもちろん墨家の原理そのものである公平さの証しなのだが、そのためにはまず、墨家集団の篭城戦術が無敵であるということが前提になるだろう。無敵でないのなら、多大な犠牲を払ってなおかつ勝利できなかった場合、その後の民衆の運命も含めて、一切をどう償えるというのか(史実によれば、防衛に失敗した墨者集団は責任をとって集団自決したという)。
 あるいはどの国であろうと、侵略軍としてやってきた兵士は躊躇なく殺していいのなら、その「殺す」ことと、「兼愛」の精神とは両立するのか。侵略していた兵士が生き残って、侵略される側になって革離に救援を求めれば、助ける。だがその兵士は同じ人格を持った一人の兵士なのだ。同じ一人の兵士をある時は殺すべしとし、ある時は殺してならぬと言う。その使い分けによって、本当に戦争の根は断てるのか?人民が国家の虜囚であるままで、局面ごとに正義と悪の二分法を適用するだけで?
 ある時は殺すなと言い、ある時は殺せと言っている、一人の同じ人格である革離自身が、最初の悲惨な「防衛戦」の後から、本当にこれが唯一の方法なのかと迷い始める。そして最後まではっきりとした答えは出ない。これが答えかも知れない、というものが出ても、次の現実がそれを覆していく。延々そのくり返しなのだ。


  不完全なる革離という男

 しかしそれは、この映画の失敗点であるとか、中途半端な点なのではない。むしろこの映画の狙いなのである。
 ジェイコブ・チャンという監督は、革離の平和理念が完全であるとも、この時代のこの条件下では正解だったとさえも、おそらく思っていない。だが、「非戦」をめぐる重要な手がかりがここにはある。それを、観た人ひとりひとりが考えてもらいたい、そういう描き方になっているのだ。コミックや小説では頭を剃った僧形(といっても仏教伝来以前の中国だから、仏教徒という意味ではないが)である主人公を、短髪の牧童風に変えたのも、彼を悟りきった偉人の類ではなく、様々なことに答えが出せない生身の人間として描くことにこだわったからだろう。
 原作にはない、逸悦という女騎馬隊長とのラヴ・ストーリーを織り込んだのも、この意図からに違いない。原作のファンからすれば余計だと思うかもしれない要素だが、この彼女とのぎこちない愛のやり取りがなければ、革離という人物の限界や欠点、本性が見えにくい。
 革離は常に正しさを追求する。だが人間はいつでも正しさを選ぶわけではない。そんな人間のことがわからなければ、墨家の言う「兼愛」(すべての人類を等しく愛する)以前に、「愛」の何たるかがわからないでしょうと彼女は言う。革離はここで動揺し、事実上人生の転換になる契機をつかむ。墨者として、ではなく、1人の人間として、逸悦の愛に応えるか否かの判断を迫られるからだ。
 他の役者陣に比べ、このファン・ビンビンという女優は全体としてそれほどいい演技をしているとは僕は思わないが、この徹底して理性的で、強靭な精神力を持ちながら、結局は悩める1人の男に過ぎない主人公の「不完全性」をあぶり出すという意味では、十分な仕事をしている。

 ちなみにコミックの方でも原作小説の方でも、革離にこういった迷い──防衛のために「戦う」のが唯一の道なのか、とか、俺の人生は戦いの中にしかないのかといった──があるようには、あまり描かれていない。とりわけ酒見賢一の原作では、革離はストイシズムに凝り固まった一種の原理主義者(それが自らの墓穴を掘ることになる)のように描かれている。コミックの方ではもっと融通の利く人間臭いキャラクターになっているが、人間心理に恐ろしく精通した鋭さは見せても、“弱さ”を感じさせる部分はほとんどない。
 僕は小説もコミックも物語としては存分に楽しめたけれど(特にコミックは、梁城を去った後の物語がまた面白い)、どの革離に一番共鳴するかと言ったら、やはり映画の革離ということになる。というか、映画の革離には小説やコミックにはない「影」があって、その「影」が現代に生きる者の「影」と一番重なるような気がするのだ。


  革離は「勝利」したのか

 その「影」は、革離/アンディ・ラウが単独で醸し出しているというより、当たり前だが、周囲の人物の陰影の深さに対応してあぶり出されるものだ。悩んでいるのは革離だけではない。誰もがそれぞれの、切実な理由で悩んでいる。セリフが一つ二つしかない脇役も含め、一人一人に長編インタヴューを申し込みたいくらいに魅力的な登場人物たち。みんな話せば長くなる、それぞれの「影」にまつわる物語があるはずだと思える、それだけ人間がよく描けている映画だということだ。
 ここには、真の意味での悪人が1人も出てこない。かといって、善人も出てこない。みんなそれぞれ、悪の面も善の面も持っている。
 強いて最も悪辣な人物と言えば梁の王様かも知れないが、この人でさえ、悪を為す場面と善を為す場面を状況に応じて使い分けているだけとも言える。王の立場で王の権力を持って確信犯的にそれをやるから恐ろしいのは確かだが、もし彼が普通の庶民なら、誰も彼を強いて悪人とは見なさないだろう。むしろ、そのマキャベリ的な頭の冴え方は、強国に囲まれた弱小国の首領なら、これくらいはしたたかでなければやっていけないだろうと納得させてくれる。原作やコミックでの、単なる臆病なスケベじじいである王と比べるまでもなく、見事な人物造形だと思う。

 逆に革離だって善人の代表なのではなく、単に悪を為す人間の心というものに鈍感なだけ、という感じだ。
 ある意味彼はバカなのである。頭がいい善人ならば、適宜わかりやすい「ズルさ」「欲深さ」をちらつかせて、つまり「俺も結構ワルなところありますぜ」というアピールをして、為政者たちの猜疑心をなだめることもできるのに、革離にはそれができない。だから自分が助けた梁の為政者達から危険視されるはめになる。墨者は見返りを求めない、その代わり墨家思想によって国家を牛耳ろうというのではないか?と・・・・決して政治に向いている人間ではないのに、墨家思想という別次元の「政治」を持ち込まずには仕事ができない立場上、既成の権威を知らず知らず敵に回してしまう。墨者の宿命というだけでなく、革離という男はそうした状況での立ち回りが苦手なくせに、そうした状況を自ら招きやすい男、でもあるのだ。
 そんな不器用な彼の不言実行や裏表のない心に敬意を抱き、慕ってくれる人間がいる。映画では逸悦の他に、最初は革離を信用しなかった梁の王子や、革離によって弓隊の隊長に抜擢された青年などがそうだ。だが彼らの存在──純真な彼らが革離に心酔するということによって、かえって革離は「謀反の疑いあり」として逆境に立たされる。保身だけのために生きている官僚によって革離ははめられ、城を追放される。革離を慕う者たちには粛清の嵐が吹き荒れる。古今東西、人類がくり返してきた裏切りと反動の物語だ。
 彼らいわば「梁のニュー・ジェネレーション」の革離に対する心酔のまなざしというのは、映画を観ている我々の革離に対する視線を代弁している。だからこそ彼らがおのおの悲劇的な最後を迎える時に、何より胸が痛むのだ。
 そして我々は、若き弓隊長の死を知った部下の弓兵たちが、「もうやってられねえ!」とばかりに弓を捨て、矢を捨て、装束を捨て、城外へ去っていくのに胸を痛めると同時に、その後姿にどうしようもなく共感し、ドス黒い怒りと悲しみの中に灯る、ほの明るいきざしのようなものを感じるのではないか?そうした複合した感情を喚起させるこのシーンは、この映画の感情的なハイライトだと思う。武器を捨て、自己満足と裏切りの政治が渦巻く祖国に見切りをつけて去っていく彼らこそ、「墨攻」の産み落としたかろうじて唯一の収穫であり、そう言ってよければ「勝利者」なのかも知れない。無論それは、革離が手を引く戦争孤児たちと同様、「勝利」の空しさを全身に刻みこんだ人間、というだけの意味の「勝利者」でしかないが。

 一方、完全無比なる「敗北者」となった趙の大将軍・巷淹中は、敗北を認めることで自軍の生存者たちを最後の最後に救う。それは間違いなく賢明な決断なのだが、問題は鉄の軍人である彼にそれを決断させるには、軍事的に徹底的に彼を負かすしかなかった、ことである。革離の「墨攻」に理があるのも、まさにこの点だけだったのではないか。
 巷淹中と一対一になって説得する段においても、「軍事的な裏付け」は絶対に必要だったのである。本来なら、「わしには意地がある──死んでいった無数の兵士達のためにも、勝たねばならぬ。わしの肩には死んだ彼らの思いが背負わされている──」などと、まるで「靖国神社」の論理で大戦末期の日本政府のように戦闘継続を正当化する巷淹中に対し、革離の放った「死者の名を借りて弁明か!」という反論で、勝負あった、のはずである。だが、それでも巷淹中は、自分が卑怯な弁明をしていることに気づいたとしてさえも、仕方ないだろう、私は軍人なのだから、といって開き直ることができた。そんな相手だから、軍事的に「これでもか!」という敗北をなめさせるしか、撤退を決断させる道はなかったのだ。
 もちろんその最後の「これでもか!」は、原爆のようなケタ違いの残虐によるものではなかったわけだが、自ら指揮して始めた戦争に終止符を打つために、さらにもう一つの戦争を上塗りしていくような解決法しか見出せなかった革離は、果たして「勝利者」と言えるのか。
 巷淹中は「一人にしてくれ。敗北をかみしめたい」と言って、革離と別れる。しかし、革離が「勝利をかみしめる」ことがなかったのも絶対に確かだ。それは彼が愛する女性を救えなかった、ことだけに由来するのではない。


  その他の見どころ

 決して完璧な映画というのではない。惜しまれる点もいくつかある。
 たとえば個人的には、川井憲次による、TBS「世界遺産」のテーマ曲みたいな、ありがちなエスニック風の音楽はあまり好きじゃないし、作品の深さについて行けてない気がした。音楽の挿入されるタイミングもありがちで、白けるところがある。どことなくマンガチックというか、マンガを原作にしているのだからそれでいいという話もあるが・・・・「日本代表」としてはもうちょっと独創的なものを作って貢献できなかったかという、不満が残った。ただ、日本以外の国の人が聴いてどう思うかは、僕には判断できないけれど。
 そんなことを補ってあまりあるほど、長所が光る作品でもある。特に中国・韓国・香港・台湾から結集した役者のキャスティングは、脇役まで含めて見事だ。中でも韓国の国民的俳優、趙の将軍役アン・ソンギの存在感には脱帽する。僕なら、この人だけ2時間観ていても飽きない。
 また、原作ではまるで存在感のない脇役である梁の方の将軍・牛子張を演じたチン・シウホウという香港の役者も心に残った。この人物は、「革離派」の面々とは違う意味で悲劇的な最後を迎えるのだが、それが物語にさらに重層的な深みを与えている。チャン監督の脚本・演出によって「発掘された」と言ってもいいようなキャラクターだが、それに肉付けしたこの役者の抑制の利いた演技にも拍手を送るべきだ。

 ところで、この手の「歴史もの」「戦記もの」の映画というと、大量のエキストラにものを言わせた軍勢の俯瞰シーンなんかを売りにしていることが多いが、この映画の俯瞰シーンはそういう「量で圧倒する」類のものではない。うまく言えないが、なんというか、もっと戦慄する。この世の見納めの景色を見ているような、見てはならぬものを見てしまったような不安な気分にさせられるのだ。
 前半の、趙の軍団が黄土の大地に戦陣を敷く絵はすごい。古代の当時、城壁の穴からこんな光景を目の当たりにした者は、ああ今日俺は死ぬな、と覚悟しないわけにはいかなかったろう。それくらい「死」を間近に感じさせる絵なのだ。現代の戦争に比べたら、原始的で他愛のない兵器の寄せ集めでありながら、どんな現代兵器の壮観よりも生々しく「死」と「破壊」をすかし見させるようなところがある。生身の兵士一人一人が寄り集まって軍団の形を構成していながら、それ自体が一つの「戦争」という名の巨大生物のように見える。人類はなんというグロテスクな生き物を生み出したのか──あるいはそもそも人類に「牧歌的な時代」などあったのだろうかと、慄然たる思いにとらわれる。
 時代考証に裏打ちされているというだけでなく、戦争の何を見せたいのか、制作側のブレのない意識がこうした絵を可能にしたのだろう。

 見どころの尽きない作品だが、良い作品のご多分にもれず、この映画の最大の長所は、観る者に解答を押し付けないことだ。答えは観客自身が出す。そうするしかないように、作品が自然に仕向けるのである。
 そんな作品の発端である墨家の思想を、日本人がまず掘り起こした。それが中・韓・台湾・香港の映画人との共同作業によって、ここまで力強い映画に紡ぎ上げられたこと自体に、北東アジアの人間として深い感動を覚え、希望を感じる。


*この文章はブログ弱い文明の2007年2月7日エントリーを加筆・修正したものです。

* 映画「墨攻」DVD http://www.amuse-s-e.co.jp/bokkou/

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