『ルート181  パレスチナ〜イスラエル 旅の断章 』

"Route181,fragments of a journey in Palestine-Israel"
 a film by Eyal SIVAN & Michel KHLEIFI (2003)
ラーマッラーの兵士


la civilisation faible
HOME

 part.2    裸の王様と「掟の門」


 ドキュメンタリーの常道として、画面からは人物にインタヴューする監督の声だけが聞こえ、姿は映らない。カメラの視線は人の目線の高さそのままで、動きも自然だ。何か斬新な絵を撮ってやろうという作為は一切感じられない。道すがら、目に入るものを淡々と映しているだけという感じ(本当は膨大な量から選別・編集したのだろうが)が続くことによって、まるで自分が現地に行って、直接見て、話を聞いているような気分になってくる。
 それだから、不意に引き起こされるアクシデントは生々しい。生々しいけれども、それは普通の(日常の)ことでもある、と自然に納得できてしまう。
 映画は最初から予感に包まれている。何かが起きるだろう。起きなくてはならないはずだ、人間があえぎながら暮らす土地なんだから。何事もないとしたら、何かが間違っている。何かが起きたとしたら、しかしそれは日常のことである。

 中部のある検問所で、若い兵士の「おい!」という呼びかけに、「何が“おい”だ!おまえそれが人に向かって言う言葉か!!」と激怒する監督(シヴァン?)。機嫌の悪い完全武装の兵士をつかまえて説教する人もすごいが、それをまた一部始終冷静にカメラで撮っている人もすごい。観ている僕は喧嘩に巻き込まれているような気分になって動揺するが、同時に、これが当然であるように、妙に納得している自分にも気がついている。監督の怒りは他人事ではないからだ。
 撮影中に、向こうからアクシデントが降りかかってくるならともかく、監督ともあろう人が自らいさかいを起こすなんて、普通なら(面白い場面を作ろうという)作為を感じてしまうところだ。だがこの映画はそうではない。ここまでさんざんユダヤ人の他者を無視したようなお気楽なおしゃべりにつき合わされてきて、ここでキレなかったら逆に不自然だと思えるのである。
 パレスチナ人の村の住民追放に参加した経験のあるキブツの老人が、二人に向かって「君たちは──どうも怪しい」と突然気がついたように言うシーンも象徴的だ。老人はその追放にまつわる気の利いた(と老人は思っている)ブラック・ジョークに、二人がニコリともしないので、そう思ったのである。しかし普通の観客からすれば、この老人の方がよっぽど「怪しい」、ブラック・ジョークそのもののような人物に思えるだろう。
 それは、二人のスタンスが相手から引き出したものである。台本通りに、誘導尋問のようにという意味ではない。彼らの自然な態度が、「裸の王様」を前にした子供の正直さが、それを引き出したのだ。
 「中立」という意味でもない。二人が映画の中に引き出してきた言葉というのは、この国を弁護するものであれ批判するものであれ、「中立」という立場からは引き出しえない。ここでは「中立」とは、シオニズム体制の側以外の何物でもないのだから。

 体制の側にいるユダヤ人たちは、その体制への密着度が高い者ほど、「中立的でない」質問に苛立つ傾向がある(どこの国でも一緒だ)。181号の分割決議、あれをアラブが受け入れていれば良かったのに奴らは嫌がったんだ、だからこうなったんだ、自業自得だとうそぶく彼らに、監督たちが持ち出すのは、子供でも知っているユダヤの伝説「ソロモンの審判」である。
 一人の子供をめぐって、二人の女が「自分の子だ」と主張していた。どうしても、どちらが本物の母親であるかわからない。そこで賢者ソロモン王は、「子供を2つに切るしかあるまい」といって剣に手をかける。すると片方の女が、それならあの女に子供を渡してください、と言って引き下がった。勝ち誇るもう片方の女。しかしソロモン王は、引き下がった女こそ本物の母親だと断じた。本物の母親なら、我が子を真っ二つに裂かれるくらいなら自分が身を引いた方がいい、と思うに決まっている──
 体制側のユダヤ人はこれを持ち出されると逆上する。確かに、この話を1947年当時のアラブとイスラエルの関係に当てはめるのはちょっと乱暴だろう。だが二人の監督は、それを承知で質問している。彼らは「自分達が相手の立場だったら」ということを考えようともしない、面の皮の厚いタイプの相手を揺さぶるために、この寓話を用意していたのではないか。いわばイスラエルの建国神話と対置する形で、もうひとつの神話を──それが神話であるか史実であるかはともかく、確実にユダヤのものである──持ち出す、すると相手は他愛もないほど敏感に反応する。ここでも「裸の王様」が透けて見える。

 そんな中でも極めつけというか、一種独特な「裸の王様」として登場するは、西岸の都市ラーマッラーで検問を張っている若きイスラエル兵である。
 外出禁止令が敷かれ、街は人っ子一人いない。急病人を乗せた車も、検問で止められる(これが原因で死に至るパレスチナ人の病人や妊婦の例は後を絶たない)。
 自分が長期間家の中に閉じ込められたら?そうだなあ、好きな本を何冊か持ち込んで思う存分読みふけりたいなあ。──彼はカフカのファンである。いくらか離れた建物の窓から、彼によって閉じ込められたパレスチナ人の子供が、恐る恐る窓をのぞいてこちらを見ている。
 『掟の門』って知ってる?すごいよ。カフカは偉大だ。この今の状況もカフカっぽいと言えるかもねえ。などなど。
 シヴァンが問いかける。「悪の陳腐さについて」は?(*)
 兵士は何それ?と聞き返す。彼は「悪の陳腐さについて」の有名な本のことも、その本の作者の名も知らなかった。
 カフカを愛読するほど教養のあるユダヤ人の若者が、ユダヤ民族最高の知性の一人であった女性のことを知らない。その本に書かれた出来事が、彼が忠誠を誓っている国家の形成に重大な役割を果たしたことも知らない。これがイスラエルという国である。そして彼は、自分が苦しめている人間たちが、今遠くから自分を取り囲んで見守っていることも知らないのか・・・・。
 いや、そんなはずはない。よりによってこの兵士が持ち出したのが、『掟の門』なのである。

 『掟の門』は、ユダヤ人であったカフカが、プラハのシオニスト系雑誌「自己防御」(!)に寄稿した、ごく短い短編である(1915年)。
 掟の門はいつも開いている。ある男が入れてくれと言ってやってくる。だが門番はだめだと言う。それでも懇願すると、入ってもいいが、この先には俺よりもっと手強いやつらが待っているぞ、と脅す。勇気のない男はいろいろな贈り物で門番を懐柔しようとするが、門番は「それでお前の気が済むなら」と言って、ただ受け取るだけ。入れないままに長い歳月が流れ、ついに男の命は尽きる。男は死に際、「なぜ今まで誰もこの門のところに来なかったのだろう?」と門番に尋ねる。門番は答えた、「これはお前だけのための門だったからだ。もう閉めるぞ」。
 カフカが熱心なシオニストであったかどうかは別として、小説の中身は、ユダヤ民族の生き方というものに一石を投じたもの、という読み方もしようと思えばできる。いや、「自己防御」などという雑誌の読者であるユダヤ人たちには、まさにそれ以外の読み方があり得たとは思えない。彼らは、だから我々は我々の運命を自分で切り開いていくべきなのだ、どんな苦難がその先にあろうと、「掟の門」を強引に突破しなくてはならない!と、そんな風に読んだに違いないのだ。
 今、その切なる思いの果てに築かれた国の路上で、彼らの子孫である若者が、自らを「掟の門」の門番に擬している。いや、正しくは「門番」の立場と「男」の立場を(頭の中で)演じ分けながら、「不条理モード」に浸っている。
 ラーマッラーの住民に対しては、彼は冷厳な門番として立ちはだかる。小説における門番と同じく、彼の権力は神の代理人のごとく絶対的に見える。だが本当は、上官の命令どおりに動いているただの下っ端だ。ならばパレスチナ人は、彼を踏み越えて行ったって天罰は下らないだろう。彼もきっと「そうとも、やつらに根性があるならそうしてみればいい!」と言うだろう。しかし本当にパレスチナ人がそんな“根性”を発揮したら──たとえば彼の車両に向かって特攻をやらかしたら──彼はこの世から消え、別の門番が後釜に座るだけである。
 同時に彼は、自らの運命を切り開く権利を持った一人の人間である。彼は彼自身の門の前にいる。これは俺だけのための門だ。彼はわかっている。だが彼は、何をどうすることがこの門を押し入っていくことなのか、よくわからない。さしあたっては、軍務を立派に勤め、昇進することなのか。だが軍務とはイコール「門番」を務めることであって、そうすると上段のような話になって──堂々巡りになるので、それ以上は思考停止する。この思考停止が、彼の不条理モードの始まりなのだ。
 彼は無意識のうちに、門を押し入っていくということはそういうことではないと感じ取っているのではないか。本当は自分もパレスチナ人もただの人間同士に過ぎないということも、彼らが門を通ることを自分が阻んでいるのは、門番としての神聖な任務なんかではなく、ただ言われたことをやるしかない自分、掟の門の前でなす術もない自分のせいであることも。
 だからシヴァンが「悪の陳腐さについて─」と言った瞬間、それまでの上機嫌から一転、びくっとして、「書名?テーマ?誰の言葉?どういう文脈で?」などと畳み掛けるように聞き返す。普通の人のささいな行為の積み重ねが巨悪を生み・・・と説明するシヴァンの言葉を苛立たしくさえぎって、「ささいな行為って?どんな行為よ?」と怒ったように質問する。その口調の背後には、批判するのはともかく、俺を馬鹿にすることだけは許さない、なぜって、俺は馬鹿じゃないんだからな!・・・・という悲壮な苛立ちがある。
 彼のような知的な兵士が最も恐れていることは、自爆テロなんかではなく、自分が裸の王様であることを暴かれることに違いない。そして実際その自分の正体を薄々知っているらしいのも、他の年季のいった体制派とは違うところのようだ。
 掟の門の前で重圧を感じて立ちすくむことを、誰も非難できるわけではない。だが少なくとも、この映画で描かれるタアユウシュのメンバーたちのように、自ら分割ラインを越えてパレスチナ人との共生を目指すことによって、門の向こうに勇気をもって踏み進んだイスラエル人も現実にいるのだ。ラーマッラーの兵士は、いまだ分割ラインの上で迷っている存在なのかも知れない。しかし彼もまた、れっきとした「ルート181」の住人なのだ。


*  黒瀬勉さんによるシヴァンはなぜ「悪の陳腐さ」について質問したのかに詳しい。
 この場面を含めて『ルート181』については、パレスチナ情報センターに様々な角度からの詳細な解説「ルート181から読み解くパレスチナとイスラエル」が掲載されている。そちらをぜひ参照して、できれば実際に作品を観ていただきたいと切に願う。


>>> Back

HOME
inserted by FC2 system