『戒厳令』

"ETAT DE SIEGE"   film by COSTA-GAVRAS (1973)

la civilisation faible
HOME


 part.1    “本当の人間” とただの “人間”


 『戒厳令』 は 『Z』 (68年)、『告白』 (70年) に続く、ギリシア人監督 C・コスタ=ガヴラス (*1) の“政治三部作”と呼ばれるもののトリを務める作品である。
 しかし監督本人もこの呼び方を使っているのだろうか。三作とも、イヴ・モンタンが主演を務めているので、“モンタン三部作“と言ってもいいかも知れない。なにしろ僕が知る限り、同監督の作品で政治を題材にしていない作品があるのかどうか、そっちの方があやしいと思う・・・・。

 ともかく、この映画との馴れ初めから話したい。
 ある日、教育テレビの「名作劇場」(だったか)で、偶然コスタ=ガヴラス監督の 『Z』 を観て、いたく感動した僕は、数日とおかずレンタルビデオ店に赴き、 『Z』 と、一緒に並んでいた 『戒厳令』 を借りたのだった。
 その時観た率直な印象としては、まずエンターテイメントとしては 『Z』 の方がメリハリが効いてて面白かった、それに比べるとこっちは地味だなあ、という思い。それと、『Z』 では善玉役だったモンタンがここでは悪役で、へえー、この人芸風広かったんだなあ、という今さらながらの感想など。
 それらとは別次元の話として、作品よりもその背景、特に トゥパマロス (*2) なる政治結社に対してかきたてられた興味、ということがあった。それまで自分が知っていた、いわゆる「左翼ゲリラ」のイメージとは一線を画するような風情が、(映画ならではの美化された演出という面は差し引いても)彼らからは感じられた。そしてそれが、本サイト Introduction で触れたとおり、「弱い文明」という台詞に決定的に集約されているように感じたわけである。
 実際に歴史的事実として、トゥパマロスの指導者の誰それがこの言葉を言ったとか、出版物に書いたとか、その辺の話を僕は知らない。コスタ=ガヴラス、あるいは脚本を書いた人が考えた台詞であるに過ぎないのかもしれない。
 どうあれ、僕の中では「弱い文明」こそ、映画の中で僕が最も印象に残った言葉であると同時に、トゥパマロスというグループの核心を成す言葉に違いない、と勝手に結び付けられた。そして逆に言うと、映画の印象はひとまずそこどまりだった。

 それから21世紀に突入し、ハイジャック機がツインタワーに突入し、アフガン、イラクへとアメリカの戦争が拡大していくのを目の当たりにしつつある頃、僕はもう一度 『戒厳令』 を借りてきた。どうにも気になって仕方なかったのだ。
 観直してみると、案の定、よくわかるのである。単純に二度目だから話がわかりやすい、というだけではない。今、現実に起きていることと、あまりにも似た構図がそこかしこに見つかるので、いやでもわかってしまうのである。
 それは端的に言って、アメリカの戦争というのが、アメリカの豊かさを維持するための「アメリカ問題」のグローバルな押しつけであるという構図。そして押しつけられるのはもっぱら 第三世界 (*3) であり、彼らはむきだしの暴力に見舞われないためには、アメリカの下男になるしかないという、今更ながらの“帝国主義”の構図である。

 こんなシーンがある。
 イヴ・モンタン演ずる 誘拐されたアメリカ人 (*4) (フィリップ・M・サントーレ) について取材するため、彼の所属機関である 米国国際開発局(USAID) (*5) の出向事務所を訪れた新聞記者たち。局の担当者が応対し、この機関がいかに善意をもって気前よくこの国(ウルグアイ)の「開発」を「援助」しているか、解説する。それに対し、ベテランの老新聞記者(映画の準主役で、サブ・ナレーターも兼ねる)が、こう切り返す。
「私は逆だと思う。・・・/援助を必要とするのはむしろ米国で、他の国ではない。これが私の観察だ」
「ビールを飲んでも、アスピリンを飲んでも、歯を磨いていても、アルミ鍋で料理をつくっていても、冷蔵庫を使っていても暖房を使っていても、我が国の市民は毎日米国の経済発展に貢献している。この貢献が完全な意義を持つのは、それが軍事面に及ぶ時ですよ」

 これは60年代の、あるいは70年代の話だろうか?この貧しい国の老ジャーナリストは、マルクス主義の影響で物の見方が歪んでいるのだろうか?豊かな国への嫉妬から、“左翼的な”当てこすりを言って、悦に入っているのだろうか?
 そう思う人は、たとえば イラクで“戦後”進行していること (*6) の、あるいは抵抗するイラク人の思いの内実を、いったいどう考えているのだろうか(イラクに限らず、例には事欠かないが)。

 また、事件をめぐって紛糾する議会のシーンも興味深い。ある右派の議員が 「そのアメリカ人はそもそも何者なんだ? 我が国の警察の内部で何をしていた?」 と、不快感もあらわに内閣に問い質す。
 それを受けて左派議員の一人が、そう興奮することはない、なにしろ我が国は独立国とは言い難いのだから、というニュアンスの横槍を入れる。すかさず先の議員は、君から独立の説教など聞きたくないね、と皮肉を言う。彼にしてみれば、左派=共産圏の息がかかった連中が「独立」を語ること自体、偽善的だと言いたいのであろう。
 だが左派議員も言い返す。
「いかにも!君が独立を論ずる気なら、調査をしたまえ。寛大で無私なアメリカ人の群れを。専門家・技術者・講師・顧問・・・・彼らは毎日のように押しかけて来る。国際通貨基金、US情報サービス、米国国際開発銀行、米国衛生機構、米国自由労働研究所、農産物開発援助、・・・・(議場、怒号で騒然)」
 別の右派議員がちゃかす。
「君の仲間のロシア人の話はどうした?」 下品な笑いに包まれる議場。左派議員はくじけない。
「イデオロギーより、ジオグラフィー(地理)の問題だ!
ソ連は遠い国だ。ヤンキーは近い。警視庁にもいる。警・視・庁にですぞ!(再び騒然)」

 これもまた冷戦下の、古臭い右派と左派の same old dance だろうか?確かに、ソ連という国はもはや存在しない。だが、ここで焦点になっているのは、資本主義と共産主義、どちらが優秀か、などという問題ではない。
 いったいこの国は、本当に独立国なのか?本当にさまざまの民意を反映する民主主義国と言えるのか?という問題である。その点で見るなら、2004年現在の日本の置かれた状況と比べても、何が違うというのか?がっくりするほど同じ構図ではないだろうか?



 しかし、「弱い文明」という観点からは、より注目すべきは “本当の人間” とただの “人間” という構図の方かもしれない。いや正確には、そのような構図が存在すると本気で信じている人間の精神構造、というべきか。
 誘拐されたアメリカ人サントーレは、まさにそういう精神構造の持ち主として描かれている。トゥパマロスの尋問者の追及を受け、彼が同盟国の警察を指導・強化するためにワシントンから派遣された、秘密警察のインストラクター、すなわち「警察のプロ」であることが次第に明らかになる(実際の史実の記録によると、CIAのスパイだった−註参照)。
 そこで開き直ったサントーレは、政治体制がどうあれ、警察というものは必要だということ、自分は一種の選ばれた人間として、この職業に誇りを感じている、ことなどを言葉の端々にちらつかせる。尋問役の男がそれに応じて言う。

トゥパマロスの男
 「この国では飢えのために警官になる者だって多い」
サントーレ
 「警官になる者はいい。だが泥棒になる者がいる」
トゥパマロスの男
 「飢えてる者に選べるかい?」
サントーレ
 「うむ。“本当の人間”なら、─必ず選ぶ。
 君は?」

 彼はどのようにして、こういう思想を形成するに至ったのだろう?
 何のことはない、特権階級として生まれ育ち、その旨味を十分味わいながらエリートの階段を上りつめ、その既得権益を享受し続けるために、また正当化するために “本当の人間” などという概念を持ち出しているだけではないのか?
 あるいは彼は彼なりに、苦渋に満ちた経験を重ね、世界の成り立ちや行く末をさんざん思い悩んだ末に、現行秩序を重んじる保守思想こそが結局は正しいのだ、という信念にたどり着いたのだろうか?
 精一杯好意的に解釈して後者だとしても、その保守思想を具現化するために、彼が行うような拷問・暗殺・ファシストの養成・・・etcといった手段を採用してまで、「保守」する価値のあるものが、この世にあるのだろうか?レーニンの言うごとく、「目的は手段を聖化する」のだろうか。むしろただの “人間” にしてみれば、そのような手段で踏み潰されていくものの中にこそ、何よりも保守する価値のあるものが横たわっているのに。

 その点でいくと、サントーレと同時に誘拐された気弱なブラジル領事の方が、まだしも人間臭く、こずるいところも含めて可愛い。
 自身、本国ではキリスト教右翼団体に属していながら、その教義についての理解の仕方はいたって牧歌的なもの(「隣人を愛しなさい!」「物質文明に溺れてはいけません!」とか)で、トゥパマロスのメンバーをして「その点は我々も同じ考えです」と言わしめさえする。だからと言ってそのことが彼を、独裁政権の一員を担っていることの罪から、なんら免除するわけではないという自明のことを告げられただけで、ビビってしまうのだ。
 彼は戸惑いながら、同室のサントーレに訴える。 「私は・・・悪いことなど何もしていない。仕事と家庭だけの人間だ。私のどこが悪い?」
 右であれ左であれ真ん中であれ、およそ巨大な全体主義的組織というものは、大部分がこのブラジル領事ような人間で構成され、運営されている。彼はただの “人間” の尊厳を踏みにじる側にいながら、自身がただの “人間” なのだ。だからこそ、「仕事」や「家庭」といった絶対不可侵の安全地帯に逃げ込めば、それ以上の追求は避けられると信じている。歴史の怖さというのは、こういう普通の人間のよくある精神構造が、戦争や大量殺戮の歯止めにならないばかりか、むしろ平常心で後押しする力に化けてしまうことだ。たとえばナチの収容所で、人間からロウソクやランプの笠を作る「仕事」に励んだ職員にも、よき家庭があったのだ。

 ともあれ、サントーレは違う。彼は確信犯であり、その犯罪が正当化される根拠を、自身が “本当の人間” であることに置いている。彼にしてみれば、ブラジル領事など“小物”もいいところ、アホな奴、としか思っていないのであろう。
 そしてトゥパマロスの尋問者は、そんなサントーレの傲慢を、しっかり見抜いている。「“本当の人間” なら、−必ず選ぶ。 君なら?」と聞かれ、彼は、その覆面からのぞく両眼の上に、隠し切れない軽蔑の念をたたえながら、答える。

トゥパマロスの男
 選ばない。
 “本当の人間” なんて信じない。人間、だけを信じる。
 平等への権利と、公正で幸福な社会を作る可能性と必要性を」
サントーレ
 「それは私だって信じる」
トゥパマロスの男
 「嘘だ。あんたは信じてない。不平等と特権を守り、所有権を信じてる。
 あんたのは少数による多数からの搾取だ」
サントーレ
 「(苦笑しつつ)搾取とは大げさだ。
 なぜ(搾取)だ?私の利益は何だね?」
トゥパマロスの男
 自分は主人であって下男ではないという幻想だろ

 僕もそう思う。“本当の人間” など、必要ない。

>>> PART 2



*1 C・コスタ=ガヴラスに関する月並みなバイオグラフフィー等はこちら
*2 正式名称は国民解放運動 (MLN)。
オフィシャル・サイトはこちら。
http://www.chasque.net/mlnweb/
スペイン語ベースなのでよくわからない・・・
ちなみに日本でMLNについて集中的に解説しているサイト、
もしくは書籍などをご存知の方、ご一報くだされば有難いです。
俗称 「トゥパマロス」 については PART2 の文章をお読みください。
*3 ただし、移民国家としての宿命は抜きとしても、合州国内の第三世界の存在も無視できない。近年では 「アメリカの One Third (3分の1) が Third World (第三世界) である」 と言われるほど、拡大しているらしい。この国内の第三世界にも、不条理なしわ寄せは常に押し付けられていて、さまざまな社会問題の悪循環を生んでいることは多くの人が知るとおり。
*4,5 ダン・ミトリオン誘拐殺人事件(1970年)。 および、映画でも描かれた USAID (米国国際開発局) の裏面についてはこちらを参照。
*6 そのほんの一例として、ナオミ・クラインのこの記事、
http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/places/klein.html
および、上記を含む益岡賢氏の翻訳記事(イラク関連の)を調べてみることをお勧めします。
http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/places/iraqtop.html











HOME
inserted by FC2 system