『ヒロシマナガサキ』

監督・製作・編集 スティーヴン・オカザキ(2007)

la civilisation faible
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☆この文章は2007年に一度書いたきり、お蔵入りにしてしまった。最近の日本社会のもろもろの状況に鑑みて、掲載の必要性を感じ、加筆修正の上ここに掲載するものである。(レイランダー、2011.10.29)


 岩波ホールにて、日系アメリカ人のドキュメンタリー監督、スティーヴン・オカザキの話題作『ヒロシマナガサキ』を観てきた。20年以上に渡って取材した、500人もの被爆者の中から選んだという14人の被爆者の証言を軸に、原爆投下に関わった4人のアメリカ人の証言と、長く非公開にされてきた貴重な記録映像などを加えて構成した作品である。
 原題は「White Light/Black Rain」。パンク・バンドに参加していたという監督の経歴からすると、かのヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「White Light/White Heat」から思いついたタイトルだろうことは間違いない。個人的に秀逸なタイトルだと思うし、映画中ほんの一部分でだけ登場する、シンプルな生バンドの演奏による挿入音楽もマッチしていたと思う。

 噂どおり、傑出した作品だった。平均的な日本人(子供─若者を除く)なら、広島・長崎をテーマにした映像作品は、映画にしろテレビのドキュメンタリー番組にしろ、数多く観てきている。僕もそういう一人だ。しかしそんな日本人の僕が観てさえ、この作品からは、まるで初めて原爆というものの実相を知ったような衝撃を受けた。

 それは狭義の「知識」の話とは違う。初めて実感として、これまで辿り着けなかった、被爆者の魂にまで触れたという思いがしたのだ。今も生きている被爆者の魂が奥底で叫んでいる言葉に耳をすますと、「今日も生き延びた」という叫びと、「死んだ方がましだ」という叫びの両方が聞こえる。その両者の間を行ったり来たりしているのが、被爆者という存在なのではないか、と。
 原爆の実相、とはその被爆者の魂の声が象徴しているとおり、他の戦災や自然災害と比べて、極点を越えた惨害であることだと思う。それは生き残った者が、生き残ったことを喜べない、むしろ自分も死ねばよかったと、死者を羨むほどの地獄の体験なのだ。
 もちろん、他の戦災でも事故や災害でも、あるいは平時の犯罪であっても、肉親や愛する人を失った者は、「自分も死んだ方がいい」と思わずにはいられない心境に陥る。だが原爆の場合はその「死に引き込む力」があまりにも無差別で直接的である。なおかつ、心身の後遺症という形をとって生涯つきまとい続ける。その引力のしつこさ、具体性が、極点を超えているという気がしたのだ。


 だがそれほど優れたドキュメンタリーであるこの作品でさえ、不十分だ、と僕は感じる。僕が日本人だからこそ、それを声を大にして言わざるを得ない、そういう不十分さ。

 この映画を観た僕の友人が指摘した、ひとつの本質的な問題点について、まず考えてみたい。それは映画中で、日本の被爆者に対して、B29の乗組員らを原爆投下の「実行者」として対置させている、ように見える問題だ。
 乗組員の証言は興味深い。彼らの中には、地上で起きたことに打ちのめされてしまった者もいれば、戦争中だったんだから仕方ない、と表面上はあくまで開き直っている者(そっちが断然多いが)もいる。そうしたリアクション自体は予想の範囲だが、両者とも結局は「悪いのは戦争だ」という論法によりかかっていながら、どこか普通ではない(いられない)心の震え方が伝わってくる点で、共通している。確かに、そこには原爆投下という「禁断の行為」に関わってしまった人間、人類史のある一線を越えてしまった人間の「震え」があることを確認できる。
 だが、彼らは本当の「実行者」だろうか。本当の「実行者」は、当時のアメリカ政府と政策立案者たちではないのか。当然あるべきその連中への追求がない。被爆者と米兵、あるいは日本の民衆とアメリカの民衆、という対置構図によって、その追求への道筋がぼかされてしまっているではないか──それが友人の指摘である。

 基本的にこの指摘は正しいと思う。ただ、この映画は「プロテスト」ではなく「トラジティ」に主眼を置いたものという観点からすれば、対置された両者の関係が何であるかは問題ではない、という見方もできる。実際僕には、被爆者の体験の重みが、米兵乗組員たちのそれを空前絶後なまでに上回っていて(当たり前だが)、対置構造などというもの自体、ほとんど意識に上らかった。それが正直なところだったりする。


 原爆を落とした側であるアメリカ人がこれを「トラジティ」で済ませていいのかという問題があってさえ、一方で、広島・長崎を題材にした日本の映画やTVドラマの類が、これを上回るトラジティを抉り出し・表出した例は、実はかなり少ない。僕は一つしか知らない。それは小学生の頃に友達の家で読んだ、マンガの『はだしのゲン』だ。
 僕にとって『はだしのゲン』の衝撃とは、悲惨な被爆の描写にのみ、あったのではない。むしろ原爆投下に至る日々の市民の暮らしの中に、戦争の狂気が充満していた、しかし市民は(一部の進歩的な人、朝鮮人など虐げられた人を除いて)それにまったく無頓着だった、そこに突然とんでもない「贈り物」がやって来た──そういう物語の奥行きの中にこそ、本当に受け止めるべき衝撃があったと思う。少なくとも子どもの頃から大人になって以降まで、僕の中に深く刻まれた『はだしのゲン』の衝撃とは、そうしたものである。
 そういう文脈で、悲劇の本質ということに照らして、『ヒロシマナガサキ』はアメリカ人の作品でありながら、ヘタな日本の映画・ドラマなどより、よほど『ゲン』に肉薄したものだと、僕には感じられた(ちなみに映画には『ゲン』の作者・中沢啓治も証言者の一人で出演している)。しかし、肉薄はしているけれど、上回ってはいない。

 それは「トラジティ」の中身、そのドメスティックな限界に問題があるのだ。
 誰かを恨むため、怒りの矛先を向けるためにこの映画があるのでない、ことはわかる。だが「トラジティ」がひとりでに生起するものでない以上、それが立ち現れる人間世界の原因というものがある。それは一面においてはアメリカ(原爆の加害者)の為したことであるけれど、同時に一面においてはわが日本(アジア侵略の加害者)が引き寄せたことだった。そこまで描けなければ、どんな優れた「反戦」作品も、とどのつまりは「戦争だから仕方ない」という思考停止の言い回しに回収されてしまう。残念ながら、それが世の習いだ。

 たとえば、僕がこの映画を岩波ホールで観たのは2007年8月15日である。が、2007年8月15日という日がどんな日であるのか、この日、館内にいた観客のどれだけが認識していただろう?ちょうど70年前のこの日、長崎を飛び立った日本海軍の新鋭爆撃機により、中国の首都・南京が空襲にさらされ、数百人の死傷者を出したのである。
 この渡洋爆撃こそは、ドイツ軍によるゲルニカ爆撃、イタリア軍によるエチオピア爆撃をさらに本格的に周到に進化させ、人類の戦争史において「都市戦略爆撃」の火ぶたを切った出来事だった(※)。その日を手始めに、日本はまだ「事変の段階である」として宣戦布告すらしないまま、中国・長江沿いの都市を次々と空爆していった。東京大空襲や広島・長崎に至る、都市無差別爆撃の歴史を切り開いたパイオニアは、日本軍だったのである。
 こうした爆撃や、上陸した陸軍の両方に蹂躙された中国人たち一人一人に、広島・長崎の被爆者に勝るとも劣らない「トラジティ」があった。対置というなら、そのように「トラジティ」同士を対置することでしか、日本人を襲ったこの「トラジティ」の意味を真につかむことなどできないのではないか。そして日本人がその意味を真につかむことができなければ、世界の人達にこの「トラジティ」の深刻さを、真に共有してもらうことも不可能ではないのか。僕はひたすらそう思う。

 映画中、僕から見て最も悲痛な証言をした被爆者は、長崎の原爆で母を「焼失」し、次いで間もなく幼い妹を自殺によって失ったという女性だった(館内のすすり泣きの声も、この人のシーンの時が一番多かった)。
 この老いた女性は、いまだに妹の名前を「呼べない」。呼ぼうとすると、心がそれを押しとどめる。無理にその名を声に出したら、彼女は砕けてしまうだろう!──それほどの悲しみというものが、この世には存在する。
 だが、ここでもあえて僕は言いたい。そんな経験をしたのが、日本の、「被爆者」と呼ばれる人達ばかりではないことを。日本軍によって肉親を奪われた外国の人にだって、そのような経験があった。いや、まさに日本の被爆者達の気持ちに、魂の奥底で一番共感できるのは、本当はこれらの外国人たちなのかも知れないのである
 加害者としての日本という視点が足りないことが、そうした現在に続くもう一つの悲劇をもたらしているのではないか。「悲劇」を通して分かり合えるはずの人々が、悲劇の一方的な描写によって分断されるという悲劇を。

 長江沿岸の都市無差別空爆が、東京大空襲へ、そして広島・長崎へとブーメランのように帰ってきたことを、いまだ多くの日本人が知らない。21世紀の今、もはや日本人はそのことを知らずに、広島・長崎への一方的な鎮魂に浸ることはできない。それはくり返すが、僕がまさに日本人だからこそ、声を大にして言わざるを得ないのだ。
 映画『ヒロシマナガサキ』は、そこにほとんど踏み込めずに終わった。優れたドキュメンタリーであるが、不十分だ、と言わざるを得ないのは、つまり、被爆の実相を描き切っていないから不十分なのではなく、そこに至る、日本と東アジアの歴史の実相をふまえていないからだ。原爆は、日本とアメリカの間だけの出来事ではないのだ。
 もちろん、そこまで踏み込むことをアメリカ人の映画監督にのみ任せるのはおかしな話だろう。誰より、日本人がみずからやらねばいけないことなのだから。


『戦略爆撃の思想』(前田哲男著、朝日新聞社)ほかを参照。

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