この章は全体への導入という役割を与えられている。
我々の住む世界はたくさんの問題を抱えている。警告はなされるが、解決のはかどらない問題のあまりの多さにうんざりし、警告そのものを「聞き飽きた」といってしりぞけようとする風潮も見られる。
南北問題、環境問題、戦争の問題、・・・これらの根本的解決を求める者は、
非現実的と言われる。
根本問題をなるべく無視し、目の前の金儲けに専念する者が「常識的」「現実主義者」と言われる。
だがそこで言う「現実主義」とは、
タイタニック現実主義とでも呼ぶべきものではないか。
タイタニックに乗船している者たちにとっては、タイタニックが当面の全世界である。船は前進しなくてはならない。
同じく、経済学者の論理は、もし世界経済システム以外にこの世に何の「現実」もないとしたら、立派に合理的な論理である。経済は「発展」しなくてはならない。
だが実際には、船の外には
海があり、海には
氷山がある。それが本当の現実である。
軍事力というタイタニック/経済発展というタイタニック ―20世紀の「現実」を見れば、これらが破局に至るものだという認識こそ「常識」であろう。
⇒したがって著者は、21世紀のための「現実主義」あるいは「コモンセンス」こそを、読者に勧める。
(R.S. 「どれほど見た目の姿が変わっても、全て経済は自然からの収穫を前提にしている」という言説も想起せよ)
憲法をめぐる氏の著作は、『ラディカルな日本国憲法』(1987年、晶文社)、
『憲法と戦争』(2000年、同)など数多い。この第二章は、それらのダイジェスト的な感がある。
日本国憲法の平和主義の理念について、「非現実的」「非常識」と揶揄する声があるのは周知の通り。だが本当に日本国憲法は「非常識」か?
◆ 日本政府はいまだかつて、前文と第九条の平和主義を外交の局面で試したことはない。
本当の意味で平和外交をやったことがない。
◆ 中立であったことすらない。米国の敵はいつも日本の敵だった。
◆ 他国の、とりわけアジアの人々は、たぶん九条を信用していない。
日本政府自体が本当は信じていないことが、いやでも読み取れるからだ。
<交戦権/自衛権>
国連憲章ができて以来、国際法の中で、
国家に許されている交戦権は自衛権のみ
(*1)。
第九条はその交戦権=自衛権さえ、明白に放棄している。だからこそ「非現実的」だと言い出す人達もいるのだが、そう言う人達こそが、どれだけ軍事力に頼らない平和努力というものを
現実に積み上げてきたというのだろう?
交戦権は、国際法で規定されている「(兵士が)人を殺す権利」。人を殺すのが任務であり、殺さなければ殺される状況において、兵士に保障された最も基本的な「人権」である。
だがその状況を作ったのは誰なのか?兵士個人であるはずがない。そして兵士は兵士である前に、国民だったはずである。
・・・当たり前のことだが、九条は、
国民が自らの身を守る権利を否定している訳ではない。
以下はラミス氏の『ラディカルな日本国憲法』よりの抜粋
・・・第九条は、国民の自衛権を奪うとは一言もいっていない。自衛権も奪いうるというのは、この憲法の根本原理である国民主権をまったく誤解することになるだろう。この憲法は、国民の権力ではなく政府の権力を制限するために書かれている。これは国民に対する命令ではなく、国民による命令である。この憲法が国民の自衛権を奪うということは、憲法が国民より上位にある権力だということであり、そんなことはありえない。・・・(中略)第九条が否定するのは、国家の軍事力確立および使用権である。それは可能である。なぜなら国家は奪うことのできない権利を持たないからであり、それを持つのは国民のみだからである。 (下線、太字はR.S)
R.S. ここでラミス氏が前提にしているポイントは、国民が自衛するのは必ずしも敵国の攻撃に対してだけではない、ということ。戦争という状況そのものに抗うこともまた「自衛」である。というより、本当の庶民の感覚からすれば、お上の始める戦争に抗うことこそ、「国民の自衛」だったりする。第三世界あたりではほとんど常識である、こういった観点が多くの国民の頭から抜け落ちている現状こそ、「平和ボケ」の名にふさわしかったりもする。
<正当な暴力>
近代国家の本質は「正当な暴力」−警察権・処罰権・交戦権の
独占にある
・・・それゆえ国家がおこなえば、テロリストが殺した何倍もの数の人間を殺したとて、相対的にショッキングだと受け止められにくい。
そこからうかがえるのは、国民主権に基づいた、功利主義的な社会契約で運営されている国でさえ、「国家」はまだ脱神秘化されていないということ。
国家が社会の安全を保障するため、国民から暴力の権利を託される―と説いたのはホッブズ。彼の時代(17世紀)の欧州は、内乱の続く暴力的な時代だったという歴史背景がある。そのため、「国家」による保護・統制がある方が、相対的に市民社会の安全は高まる、という仮説も成り立ちえた。
だが暴力的と言うなら、20世紀ほど暴力によって、それも
国家の暴力によって殺された人間の数が多かった時代はない。ホッブズの仮説は完全に裏切られた。
しかも国家によって殺されているのは、外国人よりも圧倒的に
自国民の方である。
(20世紀に)国家が殺した数 約2億人
うち自国民 約1億3千万人
*また、2億人のうち大部分は
非戦闘員である。
戦時における戦闘員(兵士)の殺害 約3千万人
平時・戦時を問わず国家による非戦闘員の殺害 約1億6千万人
いわゆる現実主義者たちが、「軍事力がなければ安全保障ができない」と言う根拠はどこにあるのか?歴史の中に証拠がない。
暴力によって殺された日本人の数が一番多かったのは、日本が軍事的に最も強かった時代である。そこに気づくのが本当の現実主義だ。第九条はロマン主義ではなく、
1945年の日本の現実に根ざした、非常に現実的な提案だったのだ。
コスタリカ共和国も日本同様、憲法で軍事力の不所持を規定しているが、その成立事情は日本とは異なる。軍部を作るとすぐにクーデターが起きて、(アメリカ肝いりの)独裁政権ができ、自国民を抑圧するという、中南米の国々によくあったケース、その可能性を封じるためだったと言われる。
日本国憲法成立から半世紀、日本の交戦権の下で一人も殺されていない。これは大きな歴史的現実だ。
大人になったら(軍隊に入って)人を殺さなければならないかも、と思う人間が当たり前に存在するのが「世界の常識」。アメリカでは、毎年何十万人もの人が殺人訓練を受けている。殺せない人間から、殺せる人間への訓練。→それが社会にはね返ってくる。
そういった背景が前述の悲惨な統計結果をもたらした。そんな
非常識な常識に、なぜ日本人が合わせる必要があるのか?
<憲法をめぐる新たな現実>
PKO協力法では、武器の使用は刑法36・37条に従うとされた。これは平時における正当防衛・緊急避難の定義であり、軍隊に適用できるわけがない。→99年新ガイドラインでは、軍事行動ができるよう改定された。
自衛隊が軍事行動しなければならない羽目になって、36・37条が免除されるなら、その名目は交戦権以外にありえない。
後方支援は戦争行為である。従事する自衛隊の艦船は、どう見ても戦闘員であり、攻撃されても文句は言えない。そもそも公海上およびその上空に適用されるのは、日本の法律ではなく、国際法である。
周辺事態法第九条・・・政府が地方自治体あるいは民間組織を戦争活動に動員してもいいとする条項
○旧九条(=日本国憲法第九条)は、政府に対する国民の命令
○新九条(=周辺事態法第九条)は、政府から国民への命令
☆今後政府が旧九条に従わないと決めたとしても、国民がそれに従うかどうかは別の問題である。
・・・第九条を守る/世界に広めるというスローガンは、ここに来ていよいよ欺瞞になってきた・・・これからのこの国の平和運動は、守る/広めるどころか、
抵抗するというテーマこそ避けられない。
(R.S. 2004年現在、有事法案の可決制定など、ラミス氏が危惧する事態はさらに進行している)