『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』

C・ダグラス・ラミス   Lummis, C.Douglas    (平凡社、2000年初版)

la civilisation faible
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【著者ラミス氏について】
 C・ダグラス・ラミス氏はアメリカ生まれ、日本在住の政治学者である。著作目録は こちら
 一般には、数年前ミリオンセラーになって話題を呼んだ 『世界がもし100人の村だったら』 の対訳者として、その名を記憶している人も多いかもしれない。ちなみに、この本のもとになった話(新聞コラムに端を発し、ある学校教師がEメールで広めた)については、最初ラミス氏は「豊かな側にいる者の自己満足」であるとして、翻訳を断ったという。それが、そういった自己満足的な読み方を許さない形に書き直され(書き足され)、世に出るに至った経緯についてはこちら 。ラミス氏らしいエピソードだと思う。
 いずれにしろ『世界がもし…』を読んで感銘を受けた人で、まだラミス氏の他の著作は読んでいないという人もいるだろう。かく言う僕も比較的最近まで、彼の存在を強く意識していたわけではないことを白状しておく。はるか昔に佐高信の対談集に登場したのをうっすら憶えているが、内容までは思い出せない…、という程度だった。
 そんな僕が、あらためてダグラス・ラミスの名を頭に刻むきっかけになったのが、ここで紹介する 『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』 である。あまりに感動したためと、ずっと氏の著作を知らずにいた自分への腹立ちとで、思わず学生時代の試験勉強さながら、ノートに即席のレジュメを一気に作ってしまったほどだ(それが今回の元ネタになった)。

 氏のプロフィールについて、その経歴の中で目につくのは、やはり日本との付き合いの古さ、しかもそれが軍隊勤務経験にさかのぼるという点である。
 氏はアメリカ海兵隊に所属していた。卒業後に入隊するという条件で、大学の奨学金をもらうためだったそうな。その入隊生活の3年目は沖縄に駐留していた。それが1960年。すなわち本土復帰前の沖縄を、直に見て知っている。
 その後あらためて(軍人としてではなく)来日し、主に津田塾大学で教授を務める。関西及び関東に暮らした後、2000年からは沖縄に居を移し、現在に至る。つまり、単に在日歴が長い「ガイジンさん」であるばかりでなく、沖縄の米軍基地という、ある意味現代日本の矛盾を凝縮したような空間について、内側からも外側からも知っている人だというあたりが、とても興味深い。

【内容紹介 - レジュメ】
 そんなラミス氏の著作群の中でも、本書はとりわけ読み易く、コンパクトにまとまっている。かといってその読み易さは、いわゆる学者先生が素人向けにやさしく書いてくれました的な、白々しさとは無縁である。
 僕は常々、書店に並んでいる、国際問題とか政治学とかの、専門家と称する人が書いた入門書の類を読んで、満足に理解できたためしがない。「素人でもよくわかる」だの「子供でもわかる」「サルでもわかる」といったキャッチフレーズと、カメラ目線の著者の写真が帯についた本の多くは、肝心なことには避けて触れなかったり、触れても掘り下げ方が中途半端なために、かえってわかりにくくなっているものだ。また単に文体など、表面的な「やわらかさ」でお茶を濁しているだけの、子供だましの本も多い。
 「わかった気になる」ことと、「わかる」ということの間には大きな隔たりがある。最近だからそうなのか、世の中「わかった気にさせる」文化にエネルギーが注がれているのが、やけに目に付くのだが…。
 それらと対照的なのが、比較的売れ筋の本の中でも、N・チョムスキーの最近のものや、ラミス氏のこの本だと思う。読み易く書かれたことでクオリティが落ちるわけでもない。どころか、むしろインパクトが増しているくらいだ。それこそ本物の思想の証ではないか。
 といって、それは「ラミス思想」なんていう大げさな、堅苦しいものではない。確かに本書は、氏がそれまでの著作の中でくり返し論じてきたものの集大成、といった趣はある。だがそれまでと同じく、現代文明の在り方に危惧の念を抱く人なら、誰もがああ!と膝を打つような話を、要点を突き詰め、体系立てて提示してくれている、という点こそが肝なのだ。

 この本は以下の章に分かれる。

  第一章 タイタニック現実主義
  第二章 「非常識」な憲法?
  第三章 自然が残っていれば、まだ発展できる?
  第四章 ゼロ成長を歓迎する
  第五章 無力感を感じるなら、民主主義ではない
  第六章 変えるものとしての現実

 注意。もうすでに本書を読んでいる方、これからちょうど読もうとしている方は、ここから先の文章は読む必要がないかもしれない。これはかなり個人的なまとめ方をしたもので、決して「誰にでもわかり易く」したものなんかではない。むしろラミス氏の本書をそのまま読んでもらったほうが、よっぽどわかり易いかと思う。
 それでもあえて、書評という形をとらず、かさばるレジュメの形で紹介することにこだわるのは、その内容がそのまま当サイトの理念的な柱になり得るくらい、重要なものだと考えるから。そして、重要なことは何度でも何度でも、誰の口からでも語る価値があると信じているからだ。
 そういう前提の上で、章ごとに具体的な内容を見ていきたい。





    第一章 タイタニック現実主義    
  この章は全体への導入という役割を与えられている。


 我々の住む世界はたくさんの問題を抱えている。警告はなされるが、解決のはかどらない問題のあまりの多さにうんざりし、警告そのものを「聞き飽きた」といってしりぞけようとする風潮も見られる。
 南北問題、環境問題、戦争の問題、・・・これらの根本的解決を求める者は、非現実的と言われる。
 根本問題をなるべく無視し、目の前の金儲けに専念する者が「常識的」「現実主義者」と言われる。
 だがそこで言う「現実主義」とは、タイタニック現実主義とでも呼ぶべきものではないか。
 タイタニックに乗船している者たちにとっては、タイタニックが当面の全世界である。船は前進しなくてはならない。
 同じく、経済学者の論理は、もし世界経済システム以外にこの世に何の「現実」もないとしたら、立派に合理的な論理である。経済は「発展」しなくてはならない。
 だが実際には、船の外にはがあり、海には氷山がある。それが本当の現実である。
 軍事力というタイタニック/経済発展というタイタニック ―20世紀の「現実」を見れば、これらが破局に至るものだという認識こそ「常識」であろう。
⇒したがって著者は、21世紀のための「現実主義」あるいは「コモンセンス」こそを、読者に勧める。

  (R.S. 「どれほど見た目の姿が変わっても、全て経済は自然からの収穫を前提にしている」という言説も想起せよ)




     第二章 「非常識」な憲法?    
  憲法をめぐる氏の著作は、『ラディカルな日本国憲法』(1987年、晶文社)、
  『憲法と戦争』(2000年、同)など数多い。この第二章は、それらのダイジェスト的な感がある。



 日本国憲法の平和主義の理念について、「非現実的」「非常識」と揶揄する声があるのは周知の通り。だが本当に日本国憲法は「非常識」か?
◆ 日本政府はいまだかつて、前文と第九条の平和主義を外交の局面で試したことはない。
  本当の意味で平和外交をやったことがない。
◆ 中立であったことすらない。米国の敵はいつも日本の敵だった。
◆ 他国の、とりわけアジアの人々は、たぶん九条を信用していない。
  日本政府自体が本当は信じていないことが、いやでも読み取れるからだ。

<交戦権/自衛権>
 国連憲章ができて以来、国際法の中で、国家に許されている交戦権は自衛権のみ(*1)第九条はその交戦権=自衛権さえ、明白に放棄している。だからこそ「非現実的」だと言い出す人達もいるのだが、そう言う人達こそが、どれだけ軍事力に頼らない平和努力というものを現実に積み上げてきたというのだろう?
 交戦権は、国際法で規定されている「(兵士が)人を殺す権利」。人を殺すのが任務であり、殺さなければ殺される状況において、兵士に保障された最も基本的な「人権」である。
 だがその状況を作ったのは誰なのか?兵士個人であるはずがない。そして兵士は兵士である前に、国民だったはずである。
・・・当たり前のことだが、九条は、国民が自らの身を守る権利を否定している訳ではない。

 以下はラミス氏の『ラディカルな日本国憲法』よりの抜粋
・・・第九条は、国民の自衛権を奪うとは一言もいっていない。自衛権も奪いうるというのは、この憲法の根本原理である国民主権をまったく誤解することになるだろう。この憲法は、国民の権力ではなく政府の権力を制限するために書かれている。これは国民に対する命令ではなく、国民による命令である。この憲法が国民の自衛権を奪うということは、憲法が国民より上位にある権力だということであり、そんなことはありえない。・・・(中略)第九条が否定するのは、国家の軍事力確立および使用権である。それは可能である。なぜなら国家は奪うことのできない権利を持たないからであり、それを持つのは国民のみだからである。 (下線、太字はR.S)

R.S. ここでラミス氏が前提にしているポイントは、国民が自衛するのは必ずしも敵国の攻撃に対してだけではない、ということ。戦争という状況そのものに抗うこともまた「自衛」である。というより、本当の庶民の感覚からすれば、お上の始める戦争に抗うことこそ、「国民の自衛」だったりする。第三世界あたりではほとんど常識である、こういった観点が多くの国民の頭から抜け落ちている現状こそ、「平和ボケ」の名にふさわしかったりもする。

<正当な暴力>
 近代国家の本質は「正当な暴力」−警察権・処罰権・交戦権の独占にある
・・・それゆえ国家がおこなえば、テロリストが殺した何倍もの数の人間を殺したとて、相対的にショッキングだと受け止められにくい。

 そこからうかがえるのは、国民主権に基づいた、功利主義的な社会契約で運営されている国でさえ、「国家」はまだ脱神秘化されていないということ。
 国家が社会の安全を保障するため、国民から暴力の権利を託される―と説いたのはホッブズ。彼の時代(17世紀)の欧州は、内乱の続く暴力的な時代だったという歴史背景がある。そのため、「国家」による保護・統制がある方が、相対的に市民社会の安全は高まる、という仮説も成り立ちえた。
 だが暴力的と言うなら、20世紀ほど暴力によって、それも国家の暴力によって殺された人間の数が多かった時代はない。ホッブズの仮説は完全に裏切られた。
 しかも国家によって殺されているのは、外国人よりも圧倒的に自国民の方である。

資料1
 (20世紀に)国家が殺した数 約2億人
         うち自国民 約1億3千万人
   *また、2億人のうち大部分は非戦闘員である。

資料2
 ランメル教授(ハワイ大学)による分類(*2)
 戦時における戦闘員(兵士)の殺害      約3千万人
 平時・戦時を問わず国家による非戦闘員の殺害 約1億6千万人

 いわゆる現実主義者たちが、「軍事力がなければ安全保障ができない」と言う根拠はどこにあるのか?歴史の中に証拠がない。
 暴力によって殺された日本人の数が一番多かったのは、日本が軍事的に最も強かった時代である。そこに気づくのが本当の現実主義だ。第九条はロマン主義ではなく、1945年の日本の現実に根ざした、非常に現実的な提案だったのだ。

コスタリカ共和国も日本同様、憲法で軍事力の不所持を規定しているが、その成立事情は日本とは異なる。軍部を作るとすぐにクーデターが起きて、(アメリカ肝いりの)独裁政権ができ、自国民を抑圧するという、中南米の国々によくあったケース、その可能性を封じるためだったと言われる。

 日本国憲法成立から半世紀、日本の交戦権の下で一人も殺されていない。これは大きな歴史的現実だ。
 大人になったら(軍隊に入って)人を殺さなければならないかも、と思う人間が当たり前に存在するのが「世界の常識」。アメリカでは、毎年何十万人もの人が殺人訓練を受けている。殺せない人間から、殺せる人間への訓練。→それが社会にはね返ってくる。
 そういった背景が前述の悲惨な統計結果をもたらした。そんな非常識な常識に、なぜ日本人が合わせる必要があるのか?

<憲法をめぐる新たな現実>
 PKO協力法では、武器の使用は刑法36・37条に従うとされた。これは平時における正当防衛・緊急避難の定義であり、軍隊に適用できるわけがない。→99年新ガイドラインでは、軍事行動ができるよう改定された。
 自衛隊が軍事行動しなければならない羽目になって、36・37条が免除されるなら、その名目は交戦権以外にありえない。
 後方支援は戦争行為である。従事する自衛隊の艦船は、どう見ても戦闘員であり、攻撃されても文句は言えない。そもそも公海上およびその上空に適用されるのは、日本の法律ではなく、国際法である。

周辺事態法第九条・・・政府が地方自治体あるいは民間組織を戦争活動に動員してもいいとする条項
○旧九条(=日本国憲法第九条)は、政府に対する国民の命令
○新九条(=周辺事態法第九条)は、政府から国民への命令
☆今後政府が旧九条に従わないと決めたとしても、国民がそれに従うかどうかは別の問題である。
・・・第九条を守る/世界に広めるというスローガンは、ここに来ていよいよ欺瞞になってきた・・・これからのこの国の平和運動は、守る/広めるどころか、抵抗するというテーマこそ避けられない。
(R.S. 2004年現在、有事法案の可決制定など、ラミス氏が危惧する事態はさらに進行している)

>>> 中編



*1  したがって、たとえば最近の米英によるアフガン・イラク侵攻はれっきとした国際法違反である。
*2  資料1にしろ2にしろ、あくまで大づかみな比較の材料としてラミス氏は取り上げているのであって、厳密な数字や統計の手法について論じたいわけではない。
 ランメルについては、その分類のイデオロギー背景をめぐって、ラミス氏自身が疑問を呈しているところがある。つまり西側の「自由主義諸国」を擁護せんがための分類法を採用している疑いである。他の論者からも、たとえば『歴史の中の南京大虐殺』(ジョシュア・A・フォーゲル編)という本によれば、ランメルは「ほとんど二次資料と言ってもいいような英語文献を使用して、20世紀における中国人犠牲者の大部分は自国政府の手によって命を落としたと結論づけている」と指摘されている。




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