『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』

C・ダグラス・ラミス   Lummis, C.Douglas    (平凡社、2000年初版)

la civilisation faible
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     第三章 自然が残っていれば、まだ発展できる?    
  「発展イデオロギー」も、やはりラミス氏が古くから取り組んでいるテーマの一つ。
  『ラディカル・デモクラシー』(1998年、岩波書店)の第二章「民主主義に反する開発・発展」などでも、
  詳しく論じられている。その章名からも判るとおり、氏はこれが「経済問題」ではなく政治の問題/民主主義の
  問題であるという視点から、読者に何かを気づかせようとする。

自然が残っている=まだ「開発する」余地がある=「遅れた国」、という観念が、表向きそれを否定する人達の中にすら、いまだにあるのではないか。
「経済発展」というイデオロギーは、あらゆる「主義者」が共有し、競い合ってきた。
人々が欲しがるものはほとんどが経済的なものであり、
したがって社会問題のほとんどが経済的なものであり、
したがって経済発展そのものがそれらの解決だ、と教えるイデオロギー。
それがイデオロギーであるという側面がなかなか見えてこないのは、それだけ イデオロギーとして成功した、思想としてのヘゲモニーを握っていた証である。

<発展イデオロギー>
  
☆発端は1949年、トルーマンの大統領就任演説
「未開発(もしくは低開発)の国々(underdeveloped countries)に対し、技術的・経済的援助をし、投資をして、発展させる

「国Aは国策として国Bを発展(develop)させる(開発する)、それが国Bの発展(development)である」

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本来自動詞であるdevelopを他動詞として使ったのは、トルーマンが最初ではない。レーニンもソヴィエト政権が経済を「発展させる」と他動詞的に使った。しかし、それはあくまで自国内の「発展」のこと。日本の明治政府も同様。
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世界の相対的に金持ちでない国を「発展させる」のが国策であるとしたのは、アメリカが初で、歴史上先例のないことだった。
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発展経済学なる学問分野も、アメリカ政府の政策により創立された。そこでは定義上、西洋の経済体制に組み込まれていない国はすべて「未開発」―表向き植民地を持つことが許されなくなり、「野蛮」という言葉が使えなくなったので―と呼ばれる。

 冷戦が始まり、ソ連圏の経済発展メソッドに対抗する必要があった、というのが表向きの動機のようだが、西側にはそれ以上の利益をもたらす教義だった。
大戦後、景気の後退を防ぐため、新たな投資先が必要→「未開発」の国に投資し「発展させる」。
それはかつてのbackward country=利益的に搾取不可能な「遅れた国」を、搾取可能にすること。

 かつての帝国主義・植民地主義も「グローバリゼーション」だったが、これは搾取であるということを、する方もされる方も意識していた。
 20世紀後半「経済発展」イデオロギーが定着・・・modernizationやdevelopmentという言葉によって、文化、文明、社会の中の可能性が解放され、開花するような明るいイメージに、人々は説得された(もともとdevelopは「中に包まれていたものが明らかになる」ようなニュアンスが語源にある)。発展イデオロギーは、世界のあらゆる国が、産業革命を起こして産業国になる可能性を示唆する・・・
・・・実際は植民地時代と大差ない。外から資本が入って、自然を壊し、伝統文化を壊し、搾取する。
→それを「発展」「近代化」と呼べば、その社会における自然な、決定された過程であるように思えてしまう。
 そもそも「発展途上国」「未開発国」という言葉は、「鉱石」と同じように、外から目的を植えつけている。(例:石の「目的」は金属を人間に提供することである=「遡及的目的論(レトロアクティヴ・テリオロジー)」)

<発展イデオロギーを脱神秘化する>
  
☆「先進国」―高層ビルも、「途上国」―その下のスラムも、ともに近代建築である。ともに、地球上の全ての人間・自然を産業システムの中に取り込む「発展」という過程が作った世界である。
都市の巨大なゴミ山で、リサイクル品を採集して生計を立てている人達も、「発展された」仕事をしているのだ。

第三世界あるいは「南」の国は、「発展されていない」のではなく、「発展されて」そうなっている。
 発展が足りないから貧乏なのではない。発展されたから貧乏の様態が以前と違う姿になったのである。
「貧困の近代化」(イヴァン・イリイチ)
「貧困の合理化・・・元々あった貧富の差を「経済発展」の名の下、利益が採れるような形に作り直した

☆「みんなが豊かになる」ことはできない
理由1 みんなが先進国並に経済発展すると、地球がもたない (R.S. 「環境容量の原則」を想起せよ)
理由2 そもそも<豊か‐rich‐金持>は関係を指す言葉
 richの元々の意味は「(国王の)権力」→数百年後、「経済力」を表す語に化けていた。…いずれにしろ、持っていないが欲しいと思っているたくさんの人間がいなければ、持っていることが「」にはならない。
 したがって、リッチになるには@自分が金を集めるか、A周りの人を貧乏にするか。社会の全ての人が同時に以前よりお金を持つようになっても、物価が上がるだけで(=インフレーション)誰も裕福にはならない。
 欧米や日本の「豊かさ」は、どこかに低賃金労働者がいる、お金が欲しい人間がたくさんいるという前提の上の、相対的な豊かさではないか。ならば、すべての国が経済発展の原則によって豊かな国に追いつくということは、永遠にあり得ない。
(R.S あり得るのは、その国の過去と比較しての「金回りの良さ」の増大。あるいは、勝者の決まっているゲームの中で己が役割を全うすることに対しての、関係各位からのご褒美くらいか)


〔続く第四章でも、ラミス氏は『「パイが大きくなればピースも大きくなる」の嘘』という形で言い直している。そこでは、なぜ「嘘」であるかについて、
理由1 パイを大きくし続けることはできない(地球の自然環境は大きくならない)
理由2 ピースの大きな部分は、小さい部分から奪っているから大きいのだ。(世界人口の20%が資源の80%を消費している/資源=パイの材料そのものが、多くはもともと貧しい国々のものだ)
と、解説する。〕

 貧困の分類 
@伝統的な貧困=自給自足の社会/外からは「貧困」と見えても、内側では貧困とは認識されない
A絶対貧困=衣食等の不足により、健康な生活ができない状態
Bリッチ/プアーという社会関係による貧困=上記「理由2」参照。そこから生じる無力さ…金持ちの言うことを聞くしかない、金持ちのために働くしかない、馬鹿にされても反抗できない…
C技術発展により新しいニーズが絶えずつくられる、また「根源的独占」が図られることから生じる貧困=それまで欲しいと思わなかったものを欲しいと思う/それがないと不便である、不利であると脅される
→この貧困の特徴は、経済発展・技術発展によって解決されるのでなく、それらによって絶えず再生産されることである。

 1920年代まで、ロスは世界有数の通勤電車のある街だった。自動車会社がそれら鉄道会社を買収し、電車の数を減らし、不便なものにし、赤字にし、廃止した(*1)
 50年代、アイゼンハワーはアメリカ全土の高速道路を作り直すという空前の公共工事をやった。それが今のアメリカ文化の一端である、ファストフードやドライヴイン・レストランを国中に生み出すことになった。
・・・車が便利だから自然に車社会になったのではない。政策として人為的に作られたのだ。

(R.S 絶対的に便利な道具、というものはあるのだろうか。それがないと不便な社会が作られていく中で生み出された、相対的な便利さを「絶対的な」ものだと思わせることを、経済の用語では「市場の開拓」と呼ぶのではないか。また、「不便」であることを親の仇のように敵視する思想、脊髄反射的に反発する感覚は何を意味するのか。「不便」を楽しむ余裕がない社会が、本当に「豊か」と言えるのだろうか)

<まとめ>
○20世紀の経済発展は、上記@「伝統的貧困」をBCに作り直す過程
 Bは人間を「労働者」にすること、Cは人間を「消費者」にすること、とも言える
 (R.S. そしてAについては結局解決されていない、どころか拡大する一方であるのが世界の現実だ)
○経済発展とは、貧富の差をなくすことではなく、貧困を利益が採れる形に作り直す(金持ちの側から見た)合理化である
○経済発展は南北問題の「原因」の一つであり、「原因」をもって問題を解決することはできない
○貧富の差は「経済」の問題ではなく、「正義」の問題である




     第四章 ゼロ成長を歓迎する    

 経済成長が止まった、あるいはマイナス成長(この言葉自体、強烈にイデオロギーに染まったオーウェル的造語だが)の時代を迎えて、我々が取り組むべきは、本当にまたもう一度、プラス成長を達成するために汗水流すことなのか?むしろ新たな文明観を養い・実践する好機と捉えるべきではないだろうか。
☆ゼロ成長のまま、どうやって豊かな社会を作るか
「発展イデオロギー」を乗り越えるため、ラミス氏は「対抗発展」を提唱する

対抗発展とは・・・豊かさの質を変える発展
「持続可能な発展」ですら、変えるべきは南の国という考えに立っている。
「対抗発展」が必要なのは、むしろ北の国・・・国際会議のテーマは、「北をどうするか」であるべきだ(誰が物知りであり、誰から学ぶべきなのか−教師⇔生徒という関係を逆さにすれば、ポケットに隠されていたものが落ちてくるだろう。
具体的には、
(1)減らす発展・・・エネルギー消費、経済活動に費やす時間、値段のついた物を減らす。意味のない仕事、世の中を悪くする仕事、金以外なんの価値も生み出さない仕事を減らす。
(2)経済以外の発展・・・娯楽・文化・行動を発展させる。
(1)(2)を言い換えるなら、交換価値の高いものを減らし、使用価値の高いものを増やすということ

●人の心の在り方という観点からは、競争社会を支える基本的感情は、落伍するという「恐怖」であることも見過ごせない。「恐怖」が強いのは、セーフティ・ネットが弱いからだが。
(R.S. 競争がなければ技術・文明は発展しないと最初に言い出したのは、我々にそれをふきこんだのは一体誰なのだ?人間の本性がそんなにも受動的なものだとしたら、行き着く先は過労死か自殺か、2通りの結末しかない。現代日本の、ある先端の部分で現出している2通りの死。
 競争は契機の一つにはなり得ても、動機のすべてであるはずがない)


対抗発展とは、快楽主義である
問:ある社会が一定の「豊かさ」を実現して、自らそれを減らすという、先例のない事業は可能か?
  • これまでの歴史で、人類がこれほどの環境危機に直面した先例自体がない
  • 経済成長は、本当の安全保障、豊かさ、快楽、幸福の量とは関係がない/逆に様々な社会問題を生み、それらはさらなる「成長」では解決できないものばかり
  • 機械や技術にばかり頼らずに快楽を感じる能力、楽しくする能力を発展させるならば、それは禁欲主義ではなく、本当の意味での快楽主義である

    対抗発展とは、単純な過去への逆戻りではない
  • 進歩の中身が変わる・・・進歩によって変わるのは「物」ではなく「人」
  • 機械を減らし、道具を増やす・・・道具は能力の代わりになるのではなく、能力を伸ばすように機能する(その能力の最たるものは、文化を創る能力である)
  • 豊かさの基準を、金から時間に切り替える・・・技術の進歩の約束は、労働時間を減らしてくれることだった→現実には増えている
    ・・・対抗発展においては、「時は金なり」ではなく「金は時間」−豊かさは余暇に置き換えることができる。

     私たちは転換期の直前にいる。これを意識している人は少なくないはずだ。
     一番遅れている、政府と官僚と企業の経営者 ―すなわち「現実主義者」たちが、このパラダイムの転換に気がつく最後の人間たちになるだろう(*2)

    >>> 後編



    *1  もう少し詳しい話が『チョムスキー・フォー・ビギナーズ』でも紹介されている。それによればこの会社というのは、GMとファイヤストーン(タイヤ会社)とカリフォルニア・スタンダード石油が合弁して作った「ナショナル・シティ・ライン」という偽装会社である。後にこの会社は告訴され、「共同謀議の罪」で有罪判決が下りたが、罰金わずか5千$だった。
    *2  希望が持てるニュースを2005年11月8日のNEWS23で知った。北海道の富良野にあったコクド所有のゴルフ場が、堤義明の逮捕後、劇作家の倉本聰氏のプロジェクト「富良野自然塾」に提供され、50年かけて森に戻されることになった。すでに事業は始まっていて、来年にはNPOとしても正式に発足するという。「開発ではなく回復を」と倉本氏は言う。同様のプロジェクトが日本各地で活性化するという展望は、実は経済収益の見地からも、決して非現実的ではないらしい。「対抗発展」のモデル・ケースとしても要注目だ。
    富良野自然塾公式ページ



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