『フォー・ビギナーズ97 − チョムスキー』

文 : デイヴィッド・コグズウェル  イラスト : ポール・ゴードン  訳 : 佐藤雅彦
(現代書館、2004年)

la civilisation faible
HOME


 この“フォー・ビギナーズ”シリーズには、昔からお世話になっている。歴史上の人物・事件、はたまた「思想」そのものを、イラストを交えて解説しているシリーズだ。それも単に概要把握のための一般向け入門書というより、各々の著者がその書きっぷりにおいて、このテーマに関しては他人に譲れない!という情熱的なスタンスに立って書いているところが、いさぎよかったりする。
 大きく分けて、米・英・独などで刊行されたものの日本語翻訳版と、現代書館独自の企画による日本オリジナルとがある。前者では、このシリーズによって初めて存在を知った『ライヒ』、後者では梅原正紀氏の『日本の仏教』などが、今でも僕のお気に入りだ。特に後者は、感動的なまでに素朴かつ下品な(失礼)貝原浩さんのイラストが、何とも言えずラヴリーである。当サイトのイントロで使った「潜在的失業者」も、実は梅原氏からの借用で・・・いかん、いきなり脱線しそうだ。

 さて、その“フォー・ビギナーズ”に、今年(2004年)に入ってノーム・チョムスキーが加わっているのを、本屋さんで見つけ、早速買ってみた。
 しかし、今まで同種の本が出ていなかったらしいのも、あらためて思うと不思議だ。本書の場合、アメリカ本国で刊行されたのは1996年とのこと。翻訳出版の運びになるまでに、意外に時間が経っている。僕が知らないだけで、それに類した企画は、硬い現代思想系の雑誌の特集号など、日本でもちらほらあったのかもしれない。だがとにかく、「入門書」と銘打った形で登場したのは、これが初めて (*1) だろう。
 それもこれも、2001.9.11以降の世界情勢を受けて、チョムスキーを知りたいと思う人達がここ日本で確実に増えた──つまり、「入門書」を出せば確実に売れる環境が整ったということが、背景にある。そんな背景が出現したこと自体は、悲しむべきかも知れない。ただ、チョムスキーという人の国際情勢に対する視点は、実はベトナム戦争の頃から基本的に何も変わっていない。変わったのは、いよいよまやかしの哲学や権威や自己満足に頼れなくなった我々「民主的」「工業先進国」の市民の方だ。その「民主」再生を賭けた市民の意識が、一種の解毒剤として、同時に根本的な栄養源として、チョムスキーを必要としている。
 それでも意外というのは、そもそもこの“フォー・ビギナーズ”は、あまり流行り廃りに関係なくテーマが選ばれ、出版されてきた(むしろ忘れられている、隠れている有益なネタを発掘するセンスが素晴らしい)ところがある。それが、今この時期にチョムスキーというのは、タイミングが普通すぎて、「らしくない」という感じを抱いてしまったわけだ。
 逆に、昨今のブームに対するカウンターの意気込みをもって作られたのだとしたら、それはそれで納得できる質を備えていると思う。だが一筋縄ではいかない問題もある。そのあたりのことは後で触れる。

 本書の素晴らしい点の一つは、これを読むことで、チョムスキーの半生・仕事についていろいろわかるだけでなく、彼が対峙するところのアメリカのマス・メディア事情、そこから見えるアメリカという国家の構造、そしてアメリカを含む現代世界の構造までもが、無理なく見通せることだ。
 当然、それには著者デイヴィッド・コグズウェル (*2) 自身が、さらに訳者佐藤雅彦氏が、文筆家としての感受性、社会批評家として鋭い見識を備えていることが大きい。僕は当初、「チョムスキーの入門書なんてチョムスキー自身の本でいいじゃん。少なくとも(本職の)言語学の本以外は、十分わかり易いんだし」なんて考えていたところがあった。しかし本書では、この二人の熱心なChomsky Readerがタッグを組んでくれたからこそ、チョムスキーの著作そのものを読むのと変わらない「目からウロコ」の衝撃や、希望の所在を、彼の「思想の全体像」を意識しつつ、つかみ直すことができる。チョムスキー+コグズウェル+佐藤氏の、さらにもちろん+イラストレイター氏の、「四人五脚」の仕事と考えていいのかも知れない。良い意味で、それぞれが自分の味を出しているように感じられるから。

 それに加えて、本書の大きな特徴、というかメリットは、“超”高名な言語学者としての彼と、政治・社会の批判者としての彼とが、その奥底においてどうつながるのか?という点を積極的に説き起こしている点だ。これは、僕を含めた大多数の門外漢にも、チョムスキーの言語学の真髄に触れる機会を与えてくれる、というありがたさがある。
 個人的な話だが、例えば友人・知人にチョムスキーなる人物の政治・社会的発言を紹介・解説したいと思った時に、それと言語学者としての側面とを、関連づけて説明することが、これまではできなかった。必要を感じなかった、というのも事実だが・・・チョムスキー自身、「別にそれは関係ない−数学者だったとしても、私の政治的立場は変わらない」みたいなことをあちこちで言っている。なので僕もそれを引き合いに出して、ひとまず事足りていたようなところがある。
 だが当然のことながら、人間とはそんなに「あれはあれ、それはそれ」などと単純に割り切れる存在ではない。一人の人間の中の思考の糸は、必ずその人の思考全体につながっているはずだ。まあ、深く考え出せばキリがない、とも言えるのだけど。

 大雑把に言えば、チョムスキーの言語学とは、「あらゆる多様性の源である、人類普遍の文法」を指向する。コグズウェルがまとめているように、
1.人が言葉を使うのはごくありふれたことだが、これこそどんな人にも、とてつもない創造性が備わっている証だ.
ということをふまえた上で、
2.言語学でも政治批評でも、物事の背後にある明確かつ単純な真理をずばり見極め、「王様はハダカだ!」と真実を世に示す.
というのが、いわばチョムスキー・スタイルだ。
 彼の発言が、どんなに苛烈な告発においても、相手を攻撃し嘲弄しやり込めることに血道をあげ、自足するような浅ましさと別次元のものであるのは、このためだ。いつでも彼の発言は、「我々はもっとまともな世界を築ける−もっと素晴らしいことのために、力を発揮できるはずだ」という方向の上でなされている。それが世界中の人々の共感を集める理由なのだ。そんな風に人間の潜在的可能性をとことん信頼できる、その背景にあるのが彼の言語学における成果なのだ、と。

 ただ、それでもなお僕のような素人は、それはあくまでも背景の一つというに過ぎず、それを知らなければ彼のメッセージを正しく読み取れないとか、読む価値がないというわけでは全然ないだろう、とも思う。
 コグズウェルがまさしく書いているとおり、「チョムスキーが語りかける言葉は、ほんとは難しくなんかない」のである。「世の人々の良識を、非凡の才能で優れた言葉にまとめ上げたにすぎないのだから」。
 すぎない、と言っても、実際それこそがどんなに賞賛してもし尽せないほど偉大なことだと思うのだが──それはともかく、だからこそ一般的な世の人々の良識に照らせば、なぜチョムスキーが果敢にも、我らが時代の巨大な体制との対決を厭わないか、その理由も単純なのだ。言語学の成果を持ち出すまでもない。

朝起きて、鏡に映った自分をすがすがしい気持ちで見れるからだよ

 なんてチョムスキーらしい言葉だろう。60年代、誰よりも早くベトナム反戦運動に乗り出した彼が、「なぜそんな真似を?」とマスコミに問われて答えたセリフだそうである。この発言自体が、受け止める人によって鏡のような働きをする。当惑した人もいただろうし、思わずサムアップした人もいただろう。当のインタヴューアーは、その時どんな表情をしたのだろう?狂人を見るような目つき・・・?想像しただけでおかしさがこみ上げてくる。コグズウェルによれば、あの『タイム』誌は、チョムスキーを「弁解をしない極左」というカテゴリーに入れたそうである。これもかなりウケるネーミングだが・・・。
 だが一方では、「弁解をしない極右」だって、同じ構図が当てはまってしまうのも事実だ。社民党の本部前辺りで、きちがいじみた大音量で誹謗中傷を絶叫している街宣車の人達も、翌朝ひりひりするのどをさすりながら、鏡に映った自分をすがすがしく眺めるのかも知れない。いや、きっとそうに違いない。
 両者の違いを見つけるのは、確かに我々の仕事だ。“人間”をどこまでもポジティヴに捉えるという前提から生まれる言葉と、他者を踏みつけることで自分側の優越を説く言葉との違いくらい見分けられなければ、それこそチョムスキーを読むのも10年早い、ということになってしまうだろう。

 ただ、それらとは別に、「あとがき」で訳者の佐藤雅彦氏が提起している観点には、僕は違和感を覚える。
 佐藤氏は、9.11以降の日本におけるチョムスキー・ブームには大きな問題がある、と言う。「彼を“流行りの文化人”として受容したり、その発言や行動を何かの教祖様やポップスターに接するようなやりかたで“消費”しているだけでは、やがてありきたりな“文化商品”と同じように飽きられて、忘却の彼方に追いやられる」。氏はその例として、かつてのイヴァン・イリイチを挙げている。
 僕はイリイチのことは詳しく知らないけれど、このような懸念の仕方には?が浮かぶ。
 受け手の質の問題というか、受け手が対象から何を引き出したがっているかの問題ならば、どう読もうがどう“消費”しようが、人の勝手である。それで「忘却の彼方」に追いやってしまうとしたら、その人がそれだけのことしか必要としていなかっただけの話である。
 だが本質的に優れた思想や見識というものは、一時的にメディアなどで“消費”されたり、場合によっては“悪用”されてさえ、必ず本来の機能を取り戻す復元力を、さらには新たな見識を生み育てる「土壌力」を有するものだと、僕は信じている。
 現に本書冒頭で紹介されているように、当のアメリカでチョムスキーは、意外にも「現存する思想家の中で最もひんぱんに発言が引用されている人物」なのだ。これが意味するところは、どんなにメディアが軽視し、無視し、曲解しようと努めても、抗うことのできない説得力が彼の言葉にはあるということではないか。そう考えるのは無邪気すぎるだろうか?
 そして、アメリカではそうだが日本ではそうでない、と考える理由も、僕には思い浮かばない。イリイチにしても、その仕事が様々な観点から現代の我々にも依然示唆するものが大きいとしたら、再評価の機運は必ず高まる時が来るだろうし、高まるべく働きかけるのが知識人の務めではないか(“フォー・ビギナーズ”のラインナップに加えてほしい!)。

 なんて、偉そうに素人の僕は書いてしまうけれど、「あとがき」で述べられている危惧というのは、それ自体、何か専門家から見た大衆への侮蔑を含んでいるような気がしたのは事実だ。本書全体のトーンからは、そんな侮蔑のニュアンスは全く伝わらないだけに、「あとがき」のスタンスだけが残念だし、矛盾を感じるのだ。
 だって、そもそも大衆がそんなに信用されないものだとしたら、氏が言うように(また本書がそういう構成になっているように)、チョムスキーの「言語学者としての“ものの見方・考え方”がラディカルな社会批判や反体制運動にどのようにつながっているか」をいくら解説したところで、“消費”されることを防ぐ手段にはなりようがない。ましてやその「思考の進め方を政治や社会の現状に当てはめれば、あなたもきっとチョムスキーのように透徹した眼力を養っていける」なんて、ありえねー!話になってしまう。
 でも、それはありえる話なのだ。現にこの本を書いたコグズウェルが、まずその一人である。世界中に、チョムスキーに学んでそうした眼力を手に入れた人々は数知れないだろう。僕だって、手に入れたいと願っている(別に教師はチョムスキー一人である必要もないが)。
 もちろん、氏は専門家としての立場から現状を「危惧」しているというより、いい意味で、このチョムスキーへの関心を、「チョムスキーからの学び」として、この国にしっかり根付かせたいと心を砕いているのだ。その想いが、現状に「問題がある」と氏に言わせている。それは素人の僕でも重々承知している。
 その意味では、巻末に収録されたコグズウェルによるインタヴューの中で、チョムスキー自身が誰よりも的確に表現してくれている。

「「英雄」を求めちゃダメなんですよ。我々が求めるべきは「お手本になる人間」じゃなくて、「お手本になる考え方」だと思いますよ。」

 これに尽きるでしょう、やっぱり。これさえ合点がいく人ならば、何を読んでもそうおかしな読み方はしないし、大事なことは自身の血肉としていける。「大事」にもいろいろあって、本当に必要な血肉をかぎわけるために、多少の経験は要るにしても。
 簡単なことだけど、目からウロコ。いや、簡単なことだから目からウロコなのか、あるいはズシリと重いのか。いずれにしても、それがチョムスキーの真骨頂。



*1 現代書館の担当編集者によると、『チョムスキー小辞典』なる本が過去にあったそうだが、日本で出版されていたのか、また内容的に本書と共通するところが多いものかどうかは不明。
その現代書館のHP
http://www.gendaishokan.co.jp/
*2 コグズウェルのHP「Head Blast」
http://www.davidcogswell.com/





>>> Back

HOME
inserted by FC2 system