『靖国問題』

高橋哲哉 著
(ちくま新書、2005年)

la civilisation faible
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 高い樹々に囲まれた日本の神社には、おごそかで静謐なアジール(聖域)の風情がある。また風情だけでなく、かつては実際に共同体のアジールとして機能もした。そうした空間として切り取って見ると、これは「弱い文明」の一部と見えなくもない。神社に限らず、古今東西の世俗的宗教施設には皆そういう側面があるが。
 だが、これまた古今東西のどんな宗教施設も、そこにきな臭い政治の意思が介在する時、人間的な文明の美点をむしろねじ曲げる装置として機能する。
 明治政府が生み出した靖国神社は、「政治に利用される」どころか、初めからそのような装置として考案された。一見やさしくたおやかな日本の風景と一体化し、それゆえに人を「癒し」、特定の宗派を超越した限りなく「無宗教」に近い見かけをまとっているだけに、その危険は深刻だ。「弱い文明」の仮面をかぶった、中身は対極である装置。「癒し」の仮面をかぶったカンニバリズム。

 つい先日も、こんなシーンに出くわした。
 テレビの「なんでも鑑定団」を見るともなしに見ていたら、あるお宝について、アンティーク玩具の専門家である某氏が解説していた。それは比較的現代の製品なのだが、戦前の優秀な職人達の仕事にルーツをさかのぼるものである。その若き職人達は特攻隊員として戦死した。玩具の博物館では、その仕事を今に伝える展示物とともに、そうした歴史背景も知ることができる。
 ここまではいい。そこで某氏は、解説をこんな風に結ぶのである。「特攻隊で死んでいったこうした人達がいたから、今の我々の平和があるんだということを忘れないようにしないといけませんね!」。
 日本人として生きてきて、もう何十回となく耳にしてきたセリフだけれど、僕は一度して納得したことがない。納得できる人間などいるはずがないと思う。自分に嘘をついているか、脳炎を患っているか、何かのSFアニメと実世界を混同してでもいない限り。
 別に戦争をモラルの問題として捉えてそう思うのではない。単に客観的因果関係としてありえない、というだけである。

 たとえば戦勝国、しかも自国がひどく蹂躙され、平和とは程遠い状態を強いられた国民──先の大戦で言うならポーランド人、中国人、ロシア〜ウクライナ人などは、自国兵士(レジスタンスを含む)の犠牲的戦いによって、侵略者を追い払った。そこで「こうした人たちのおかげで平和が手に入った」という認識を持つのは、わりあい自然だろう。もちろんその場合ですら、だから戦争で片をつけるのはいいことだ、軍事力の保持はいつでも正当化されるのだと言い張れる根拠にはならない。ただ、少なくとも自国兵士の犠牲の上に平和を勝ち取ったという、一定時間内での因果関係が成り立つことは誰も否定できない。
 だが日本の場合、レジスタンスをつぶす侵略者の方だったのである。敗戦までの最後の1,2年はやられっぱなしに近かったとはいえ、「外地」にいた兵士たちは本質的に侵略者のままである。
 その頃から動員が本格的になった特攻隊も、けなげでロマンチックなものとしてに語られがちだが、彼らが守ろうとした「国」は対外的には侵略国家であり、それを守るということは侵略体制を守ることに他ならない。国内においてはそれは抑圧体制であり、ごく短期的にはともかく、長期的には自国民を守ることにすらつながらなかった。特攻隊だろうと何隊だろうと、「国」を守ろうとすることでむしろ民衆の犠牲を拡大する道筋を広げてしまったのである。
 どんな美辞麗句で飾ろうとも、それは平和を阻止する行為でしかない。平和を阻止する行為が「今の我々の平和をもたらした」なんてことはありえない。日本が敗れたからこそ、平和を阻止する行為をあきらめたからこそ、「今の我々の平和」はあるのである。こんなこと、「のである」などとあらたまって力説するのもバカバカしい。

 最近の日本では、こんな程度のわかりきった話が通用しづらいほど、集団催眠が復活進行しているようだ。「特攻隊員らのおかげで今の平和がある」式の言説が違和感なく受け入れられてしまう一方で、そう言えるための最低条件を、日本の近代以降の戦争がすべて「正しい戦争」だったとする歴史の書き換えによってクリアしようとする動きが権力中枢にある。その象徴的な例が、言うまでもなく閣僚の靖国参拝である。
 靖国神社は癌である。神社がというより、こういうシステムを必要とする日本人の心性が、病巣そのものだ。単なる政治家の悪趣味の問題ではない。外国から何をとやかく言われる、という問題でもない。我々自身が勝手にこじらせた病気なのである。
 病巣は速やかに摘出されるべきだ。しかし病気の進行度は深く、また時代を経るごとに、新たな状況の現出するごとに、ややこしくこんがらがってしまった。
 高橋哲哉氏の本書『靖国問題』は、このこんがらがった糸を、一本一本丁寧にほどいてより分けてくれる、とてもありがたい本である。

 第一章「感情の問題」では、靖国神社が戦没者の「追悼」施設ではなく「顕彰」施設であるという、最も基本的な事実を確認する。
 顕彰とは、功績を称え、後に続くよう促すことである。表紙引用文にもあるように、「靖国信仰は当時の日本人の生と死の全体に最終的な意味づけを提供した」。まさに「国家教」とも言うべき原理によって、戦死の悲しみを「大歓喜」に変える「感情の錬金術」が可能になり、同時に、「戦争のおぞましいもの、悲惨なもの、腐ったものすべてが拭い去られ、土着的な「懐かしさ」をともなった独特の「崇高」(サブライム)のイメージが作り出され」た。
 ただし、軍人以外の膨大な民間の戦没者は対象外なので、この錬金術の恩恵を受けることができない。ましてや日本の敵として殺されていったさらに膨大な数の死者たちについては、その遺族感情ともども、一瞥の価値もない、という扱いなのである。

 この異常なシステムから脱却するためには、まず「顕彰」を拒み「追悼」にとどまる意思が必要だが、それだけでは十分ではない。第二章「歴史認識の問題」では、日本が被害を与えた他者からの批判に耐えられなければ、「追悼」にすら十分な正当性がないことを説き明かす。
 特に「A級戦犯合祀問題」をめぐる高橋氏の指摘は重要だ。
 まず、この問題を含め「靖国問題」全体が、あたかも中国や韓国の抗議によって「問題化」したような観点は、全く事実に基づいていないこと(これらの国が公的に批判を開始するずっと前から、日本国内で政治問題化していた)。僕の見たところでも、右翼メディアは中国・韓国が靖国問題を国内向けプロパガンダに利用しているとあげつらうが、他国の落ち度をそんな具合に利用するのは、どこの国でもやることである(ほめられたことではないが)。それを言うなら、日本政府と御用メディアは、まさに靖国が「中・韓のせいで問題にされてしまった」というプロパガンダを張り、相当程度に浸透させてしまった。事実に基づかないぶん、こっちのプロパガンダの方がよほど悪質ではないか(プロパガンダというより、もはやデマゴギーである)。
 氏が指摘するとおり、中・韓政府は、「靖国神社」自体を問題にしたことも、「A級戦犯」を祀っていること自体を問題にしたことも、実はない。彼らが問題にしているのは、そのような場所に日本の首相が公然と参拝するという「現在の政治行為」なのだ。これはむしろ問題を限定化して政治決着を図りやすくする、外交の常套手法であって、一般の中国人・韓国人の感情からは納得しづらいもののはずである。ともあれ、それが両国政府の選んだ「落としどころ」ということなのだ。
 だが日本人としては、「現在の政治行為」の意味を考えないことはもちろん、靖国問題をA級戦犯を祀る・祀らないの問題として矮小化することも許されない。  靖国は、明治以降の日本植民地主義のためのすべての戦争・占領・弾圧の参加者を「英霊」として顕彰している。たかだか20人程度の戦犯の問題ではない。段階的措置としての「分祀」はありえても、それで問題の解決というわけにはいかない。それが我々に必要とされる歴史認識なのだ。

 第三章「宗教の問題」に」おいては、靖国のイデオロギーが日本を席巻していく上で、「神社は宗教ではない」というカモフラージュがいかに効果を挙げたかを検証する。  仏教徒もキリスト教徒も、靖国信仰に殉じた。なぜならそれは宗教ではなく、日本人の“道”“責務”だから、という理屈である。これなら「信教の自由」を侵すことも、「政教分離」の原則に抵触することもない。この戦前の統治者たちの狡知は、現代の靖国論や新たに模索されている「無宗教の国立戦没者追悼施設」の発想にも見え隠れする。
 さらに第四章「文化の問題」では、靖国を日本人の死生観に根ざす文化・伝統だと論じる向きに対して、高橋氏はその虚構性、欺瞞を過不足なく見事に論破している。 日本の歴史を、伝統を、美学を知っていると自負する愛国者のみなさんは、せめてこの章だけでも読んだらいいと思う。そして氏への反論の材料をがんばって集めればいい。一生かかっても無理だろう。我々に見ようと思えば見えるものは、靖国が「日本文化」を部分的に反映したものであるとしても、それ以上に国家の政治的意思を反映するものであるという証拠の方なのだ。

 そして第五章「国立追悼施設の問題」。第三章でも触れた新たな追悼施設をめぐっては、反戦・平和主義の立場からも、これを推進する動きがある。
 だが高橋氏は、「順序が逆である」と決定的なクギを刺す。反戦・平和のいしずえとなる追悼施設を国家として建設するためには、「日本国家はすでに戦争責任認識と非戦・平和主義とを確立していなければならない」。そうでなければ、新たな施設も早晩「靖国化」するだけである。千鳥ヶ淵戦没者墓苑の現状も、如実にそれを示している。沖縄の「平和の礎」ですら、日米安保の文脈の中で変質化の危機にさらされている。

 問題は施設ではなく、施設を利用する政治だ、と高橋氏は言い切る。
 そして政治が奇怪なレトリックを駆使して行うことの正体を見極めるには、まず「靖国」の正体を見破っていることが必要だ。この本がその助けになってくれる。
 靖国を、政治が逃げ込むアジールにしてはならない。政治に聖域はあってはならない。聖域なき構造改革を適用すべきは、まさに靖国神社だ。このようなシステムや、それに群がる人間たちに大きな顔をさせているようでは、民主主義国とは言えない。
 イクバール・アフマドは、ドイツ人はホロコーストを認めたことによって「大きな国民」になった、と言った。日本人が「大きな国民」になれる日は来るだろうか。
 






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