『ハウルの動く城』

宮崎駿監督 スタジオジブリ作品(2004)

la civilisation faible
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 『ハウル』をめぐる断章 U 
逆シンデレラ・ストーリー
©2004二馬力・TGNDDDT

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 宮崎アニメで主人公が少女であるのは毎度のことだ。だがこの作品の少女(変な表現だが、ややトウが立った少女、という感じの)ソフィーは、前作の千尋と同じく、特異な身の上も特異な性格的特徴もない、特異な能力も持たない普通に地味な少女だ。気づいている人は多いはずだが、これは宮崎作品においては、「千と千尋」から始まった、比較的新しい設定である。
 そんな普通の少女に、普通でない出来事が降りかかる。決して彼女が招き寄せたということではなく、本当にたまたまそうなってしまっただけ。これも千尋とソフィーで共通する状況だ。
 千尋の場合、たまたま両親と新居に向かう途中、異界に迷い込んでしまう。ソフィーの場合はたまたまハウルの協力者(または恋人)と誤解され、「荒地の魔女」によって老婆の姿に変えられてしまう。どちらも本人たちには何の責任もないし、何の必然もない。
 不条理にも呪いをかけられたという点では、『もののけ姫』の少年アシタカもそうだ。だがアシタカを襲う不条理には、一個の人間として罪深き人間全体の業を背負わされたという、「宿命」のにおいが漂っている。彼の生まれ育った少数部族の世界観が、その「宿命」を彼に受け入れさせる上で一役買ってもいる。一方、千尋やソフィーからは、そんな深刻さは感じられない。
 また「呪い」ということで言えば、アシタカは呪いと引き換えに、常人にはない特殊な能力を身につけることになったが、ソフィーは老婆になっても新たな能力を付与されることはない。肉体的にはむしろ不自由さが増すのである。生理学的に当たり前だが。

 だが、千尋にしてもソフィーにしても、面白いのはここからだ。
 普通でない事態に迷い込んだことで、いつまでもネガティヴに落ち込んだりしない。そんな余裕すらないという面ももちろんあるが、それ以前だってネガティヴな日常だったのだから、こうなったらなったで仕方ないと、(せつなさを抱え込みながらも)開き直っている。そうして子供の千尋は、生まれて初めて「必死になって」働くという経験から、かつて知らなかったポジティヴな手応えを自分の中に感じる。ソフィーの方は、もともと地味でモテない女だった自分にさほど未練もないからか、老婆になっても悲観せず、むしろ年寄りならではの落ち着きや大胆さ、知恵の働きなどを、ほとんど楽しんでさえいる。
 いずれの場合も、たまたま思ってもみない状況に直面して、否が応にもそれに順応しなければならなくなって、普通の少女の中に眠っていた知恵や度胸が発揮される、あるいは生きがいが目覚める、という構図が共通している。


2  
 ただ、ソフィーと千尋では違うところももちろんある。
 千尋は本当に実年齢からして少女だが、ソフィーが「少女」であるというのは一種の比喩のようなものである。彼女はすでに大人の世界を知っている、社会の一員として働いている大人の女性だ。
 だからこそ『ハウル』では、大人の女性のシンデレラ・ストーリーが物語の背骨になりえる。
 かま爺は「愛じゃよ、愛」と言ったが、千尋のハクに対する想いは、いわゆる“恋愛”ではない。それは子供のヒーロー/ヒロインに対する憧れの気持ちと同じだ。一方で、傷ついたハクを助けようとする彼女の無私の行為は、恋愛を飛び越えて普遍的な「愛」である。性を持たない子供だからこそ、一足飛びに「愛」にたどり着くことができる。
 だがソフィーは、その中間にいる。すなわち“恋愛”に足を絡めとられて、飛び越えることができず、もがいている我々の大部分と同じ場所に。
 ただ幸運な(?)ことに、彼女は老婆になってしまったことで、普通の恋愛が成り立たない境遇に突き落とされてしまう。そのために、表面上、恋愛に拘泥する心理から彼女は解放されたのである。彼女は堂々とハウルに会いに行き、城に居座って生活を共にする。同じことを、元の少女の姿のままでやれたとは思えない。まさにそれが彼女の抱えていた問題の一つだったはずだが、老婆になることでその自分の限界を飛び越えたのである。

 といっても――これは表面上の出来事なのだ。
 老婆になっても、ソフィーの心からハウルへの苦しい気持ちは結局消えない。荒地の魔女はそれを見透かすし、ハウルもまた、それを見透かしている。魔法使いである両者には、老婆の見かけの向こうにいる少女ソフィーが見えているのだ。魔法使いに恋をするというのは、まったくやっかいなものである。
 映画の中では、老婆になったはずのソフィーが突然元の少女の姿になっている場面がある。これは編集のミスではない(当たり前だ)。あるいは、ソフィーの夢の中のシーンでそうなっているからといって、いわゆる「夢オチ」だとか、そんな単純な話でもない。なぜならこのソフィーの「少女の姿」というのは、ハウルの彼女への視線と重なっているからだ。
 たとえば「秘密の花園」のシーン。会話の途中でソフィーの姿が少女⇔老婆と行ったり来たりするのは、ハウルの申し出に対するソフィーの心の動揺が、ハウルによって眺められているからではないのか。また、物語が終局に向かっていく中で、ハウルを死地に行かせまいとして奮闘するソフィーが、いつのまにかどんどん若返っている―髪の色は老婆のままで―ことに気がつかないわけにはいかないだろう。
 すると――ある疑問が浮かぶ。ソフィーにかけられていた「呪い」とはそもそも何だったのか?
 それは本当に荒地の魔女によってかけられたものなのか。それとも「呪い」はもう解けていたのに、ソフィーが自分の都合から、かかったままでいるふりをしていたのではないか?あるいは、彼女自身、それに気づかず、無意識に「呪い」の自己暗示にかかっていたのではなかったのか。傷つきやすい自分を防衛するための、一種の殻のようなものだったのでは?
 もちろん、これらは邪推である。僕は物語を自分の都合のいいように読み取りたくて、うだうだ言ってるだけかもしれない。ただ、ソフィーにかけられた「呪い」というものが、何かの呪文でパッと解ける、そんな類のものではなかった、ということだけは、今一度確認してもいいと思うのである。

©2004二馬力・TGNDDDT
 生きるということは「呪い」を受けることかもしれない。「呪い」を解こうともがくことが、人生そのものかもしれない。もしそうならば、火の悪魔カルシファーがソフィーとの初対面にして「こんがらがった呪いだね…その呪いは解けないよ」と言ったのは、なんと的を得た、意味深なことだったろう。なぜだかは知らないが、カルシファーはそれが「こんがらがった」ものであることを、一発で見抜いたのだ(この場面に限らず、カルシファーというのは子どもっぽい脳天気な性格でいて、突然はっとするような鋭いことを言うキャラクターだ。さすが悪魔のはしくれ)。
 我々はみんな「こんがらがった呪い」にかかっている。
 しかし自分の力では解けない「こんがらがった呪い」が、完全には解けないまでも、受け入れられる何かに姿を変えることがある。そこに、人が自分以外の人間を求めなくてはならない理由がある。

 「僕は十分逃げてきた。やっと守るべきものができたんだ。――君だ」
 女性なら誰でも言われてみたいセリフ、というやつかもしれない(しかも声はキムタクだし)。もしここが物語のエンディングなら、これにてソフィーのシンデレラ・ストーリーは完結、ということになる。
 だが、このセリフの場面とその前後をよくよく思い返してみると・・・街を焼き焦がす空襲の最中、例によって漆黒の空に舞い上がろうとするハウル。「戦ってはだめ!逃げるのよ」とすがりつくソフィーに振り向いて、彼は上のセリフを言ったのだ。カッコイイ王子様、そのまんまに。
 ところが当のソフィーは、王子様の言いつけにおとなしく従って、「守られるべき存在」になど甘んじてはいない。彼女はハウルの後を追うことを城の皆に宣言し、カルシファーに城を移動させるようけしかける。その動機は、独り言のようにさりげなく、しかし確信をこめてもらされる―「あの人は弱虫がいいの」。
 だったら、――と僕は思う。見出され、祝福されていたのは、むしろハウルの方だったのではないか。シンデレラは、ハウルの方だったのではないか。ソフィーの献身とアグレッシヴな行動が、「眠れる森の美男」にかけられた呪いを解く、一種の逆シンデレラ・ストーリーこそがこの映画の眼目ではないだろうか。

 弱虫―臆病者であることは、ハウル自身が告白している。だから「あの人は弱虫がいい」の後には、言外に続く「だって本当に弱虫なんだから」がある。
 「弱虫でもかまわない」とはソフィーは言わない。「弱虫の方がいい」と言っているのだ。
 それはいわゆる「彼が彼らしくていい」、などというのとは違う。キザでジコチュウで、髪の染料が落ちたくらいで「美しくなければ生きてたってしかたな〜い!」などと取り乱して、一人メルトダウンしている「彼らしさ」をいいと思うほど、さすがのソフィーもお人好しではないだろう。
 それでも彼女はハウルを選んだ。それはなぜだろう。
 ソフィーがハウルに出会ったこと自体は偶然。しかし、ただ一つの偶然から始まって、彼を追い続け、行動を共にし、彼の知られざる少年時代にまで行き着いた時、ソフィーの、いや二人の愛は「宿命」にまで昇華した。ソフィーの行動のすべては、この宿命を勝ち取るためのものだった。ある意味、物語の冒頭で妹レティに「お姉ちゃん、自分の人生は自分で決めなきゃだめよ」と言われた、そのとおりにしたということか。
 それはわかる。だがそれでもなお、そんな主人公の自己実現の話だけだとは到底思えない僕がいる。
 シンデレラ・ストーリーでありながら、大の男を泣かせる何かがあるとしたら、それは男が、ソフィーというシンデレラの心持ちに、女性の立場に立ったつもりで自分を重ね合わせるからではない。それでウルウルできる人がいても別に悪くはないが、普通はそうではない。
 男は、ソフィーがハウルという男を選んでくれた、そのことにウルウルするのである。それも、男が自分を重ね合わせるのは普通主役の男だから、などという単純な意味においてではない。ソフィーがハウルという男を選ぶことの中にしか、この世界が救われる道はない!という意味においてなのである。
 大げさでもなんでも、それがこの映画の基本的な構造―“世界の約束”に違いない。

>>> 断章V

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