『ハウルの動く城』

宮崎駿監督 スタジオジブリ作品(2004)

la civilisation faible
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 『ハウル』をめぐる断章 V 
“ちから”という呪い
©2004二馬力・TGNDDDT

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 「戦争」は、宮崎アニメでは目新しいテーマでも何でもない。古くはTVシリーズ「未来少年コナン」あたりからでも、愚かな文明が愚かな自己破壊的戦争に行き着くというモチーフはくり返し描かれた。そして、別段それは宮崎駿特有のメッセージというわけでもない。『ハウル』に戦争が描かれること、というより戦争が出てくる『ハウル』という文学作品を原作に選んだことも、昨今の世界情勢などを引き合いに出すほどのことはない、氏にとっては普通に普通の成り行きだったのでは、と思う。
 とは言いながら、その描き方ということになると、『ハウルの動く城』は、これまでの宮崎作品と比べ、やはり一線を画すものがある。生々しさ―リアリティという次元の問題ではなく、絶望の深さという点で、正直、ここまで来たか、と唸ってしまうものがあるのだ。

 特徴的なことがいくつかある。
 一つに、愛国的なプロパガンダに易々と乗せられる街の人々の狂騒ぶり。それがまったく当たり前の風景の一つでしかないというくらいに、淡々と描かれている。
 これまでの宮崎作品なら、こういう人々の顔も、それぞれ丹念に愛情をこめて描かれていたように記憶する。だがここでは、誰もが影が薄い。
 ソフィーの母親など、本来は結構アクの強いキャラクターであるはずだが、(戦時ムードを盛り立てる)大砲をあしらった派手な飾り帽子の下では、まるで「人の重さ」というものが感じられない、単なる軽薄なオバサンだ。荒地の魔女が繰り出す「エセ人間」の追跡者たちの方が、よほど生々しく、愛嬌さえ感じてしまう――あたかも人間が人間としての立体感や重さを失っているのに、本人達にはその自覚がないという現実に、対置する存在としてあの奇妙に生々しい「エセ人間」が登場するかのように。それはもちろん、魔女の魔法のせいではなく、宮崎アニメのマジックのせいなのだが、それが意味するところは何気に深いのではないだろうか。つまり、100%意図してそのように見せているのだとしたら。

 もう一つ、戦争が行われているのは明白でありながら、その戦闘の最中に、敵も味方もしかと区別がつかない。これも完全に意図してのことのはずだ。
 それはたぶん、この戦争がマダム・サリマンや相手国の同類の者による、「魔力の代理戦争」という面があることとも、関係はあるだろう。戦っている人間たちには、お互い敵の本当の姿はおろか、味方の本当の姿も見えない。観ている我々にもわからない。見えているつもりになっているだけだ。
 たとえばハウルが妨害行為を仕掛ける爆撃機は、一応敵国のもののはずだが、その機体からうにょうにょと現れる妖獣の類は、サリマンの手の者であっても不思議はない。一方地上で、ハウルたちの居所をかぎ回り、押し入ろうとする秘密警察のような連中はどっちの手の者か。空爆を受けて燃え上がる街の外縁を、隊列を組んで移動する地虫のような軍隊はどっちなのか。まさにハウルが言うごとく、「どっちでも同じことさ。――人殺しどもめ!」なのである。
 また、そのくり返される空襲の場面を筆頭に印象的なのは、死者や負傷者の姿が一切出てこないことだ。これは『もののけ姫』あたりとは相当に違うアプローチということになる。建物は振動し、窓枠は吹っ飛び、街は焼けただれ、火の粉が舞っている。だがそれによって傷つく者、死ぬ者の姿が見えない。流血がどこにもない。それはまさしく、我々がTVの画面を通して「見ているつもりになっている戦争」そのままではないか。
 にもかかわらず、見えない阿鼻叫喚の存在することは、たとえば空爆を受けて赤々と練炭のように燃える街のカット一つを見るだけで、十分伝わってくる。十分でないとしたら、それは受け取り手の問題だろう。
 ある人は東京大空襲を、ある人は(より風景の似ている)ドレスデンの空襲などを思い浮かべるかもしれない。だが同時に、小さな子どもを除けば、今という時代にこの絵を見て、イラクのことを思い浮かべない人がいるとは思えない。
 といっても、「イラク戦争」を伝えるニュース映像の中に、これとよく似た絵があったわけではない。東京だろうとドレスデンだろうと同じことだ。特定の空襲の映像をモデルにして、それをリアルなアニメーションに再現すれば衝撃的なイメージが現出するだろうか。それがどんなにリアルでショッキングでも、手の込んだ絵空事という以上のものだろうか。

 魔力によって、宮殿に爆弾は落ちない。その代わり周辺の町に落ちる。「魔力とはそういうものなんですよ」とハウルは言う。これは魔力を有する者・ハウルの加害者としての痛みの表明ではなかったか?
 では我々はどうなのか。
 我々が住んでいるのは宮殿か、それとも周囲の町か?
 確かなことは、宮殿に住む者は、哀れみは感じても痛みは感じないということだ。
 痛みから生まれたイメージのみが、確実に何かを伝えうる。表現者の痛みをベースにしなければ、どれほど画面を破壊と血しぶきで満たそうと、絵空事は絵空事である(僕に言わせれば、「ガンダム」から「攻殻機動隊」に至る一連のSF戦隊物〜“シリアスな近未来アニメ”の類が、これにあたる。これについては、あらためて書こう)。
 『ハウル』の空襲の絵は、そんな絵空事とは対極にある。人間の世界を地獄に突き落とすには、かっきりこれだけの量で済むというものが、過不足なく描かれている。それゆえカルシファーがつぶやく「鉄と生き物の焼けるにおいだ・・・」も、過不足ない自然な表現として、ストンと胸に落ちるのだ。

2  
 さて、そんな状況の中、ハウルは(自身の魔力を最大限に発揮できる?)黒い妖鳥の姿になって出撃する。戦うため、というより、戦いを妨害するために。できる限り、双方の攻撃を無力化するために。
 つまり毒をもって毒を制するというか、魔力をもって魔力を制するというやり方だ。実際、これしか彼にはやりようがない。彼にしかできないことを、できる限り彼はやっている。だが彼は、自分の力では到底戦争を止めることができないこともわかっている。マダム・サリマンの力は彼よりはるかに強大だ。何より彼の師匠なのだから、彼のやることは大概お見通しである。
 それでも彼は飛び立つ。それが彼にかけられた呪いだからだ。
 彼には力がある。普通の人間にはない力=魔力。それが彼の呪いである。
 彼はその力を、人々を守るために行使する。だがそれも限度がある。というより、ほとんど焼け石に水である。なぜなら、魔力を使っているからである。彼の魔力は新たな敵の魔力を呼ぶ。
 彼はせめて、ソフィーと城の仲間たちを助けようとする。実際それが精一杯というところまで追い詰められる。
 彼は死を覚悟していた。自分が死んだ後、ソフィーたちが平和に暮らせればいいと思っていた。そのために、魔力による最終決戦も辞さない覚悟で。結局彼もまた、力に頼ったヒロイズムを志向している自分に気がつかない。弱虫である、だけど加害者の一翼である呪われた自分を自覚しているからこそ、ヒロイズムでそれを乗り越えなければならないと思ってしまうのだ。

 だがソフィーの願いは正反対だった。ハウルが化け物でも弱虫でも、とにかく共にいてほしい。いや、いなくてはならない。
 「人々を守りたい」というハウルの美しい志を、ソフィーは知っている。知っているからこそ、死なせたくない。美しい志ゆえに死なせたくない。彼を英雄や殉教者にさせたくないのだ。
 それは彼女のエゴだろうか?天下国家のことよりも、個人の幸福を願う馬鹿な女のエゴだろうか?
 それを知るためには、彼女のその後の行動と、彼女がそこで見たものを確かめる必要がある。
 一つだけ確かなことは、ハウルがソフィーたちを守る最後の魔力すら失った後――すなわち呪いが解けた時、サリマンは戦争目的を失った、ということ。平和主義者である隣国の王子の呪いが解けたから、というのは表向きの、政治的なエクスキューズでしかないだろう。

 マダム・サリマンというのは、非常に変な人だと思う。物語の最初から最後まで、徹頭徹尾平静で、血も涙もなく、自分の支配下の国のあらゆることをコントロールできるにも関わらず、それがハウルたちの反乱によって不完全な結末を迎えても、別段驚きも悔しがりもしない。「この愚かな戦争を終わらせましょう」などと、他人事のようにうそぶく。あたしは別に戦争なんてどうでもよかった、あんたたちが勝手に踊っていたんでしょ、と言わんばかりに。観ていた人は「そりゃあねえだろう!」と言いたくなる。
 このおばさんは、…本当は何者だったんだろう?
 なんだか、人間でも魔女でもない、ただ人間社会の真ん中に居座っている、そして我々みんながとらわれている、抽象的な「呪いの原理」そのものだったような気がする。

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