『宮殿』 の物語を読み解く
Side B-1


 by レイランダー・セグンド  Apr.2005

la civilisation faible
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Moonchild がいる場所

 アナログ盤では 「Epitaph」 でA面が終わり、したがって 「Moonchild」 から物語の後半ということになる。
 A面は、1曲目 「Schizoid Man」 こそ、不特定の視点が入り乱れる物語全体への導入のような曲だが、その後は同一人物である一人の青年の視点を軸に据えた世界、という体裁になっていた。ところが、ここで忽然と、年端のいかない一人の少女が登場するのだ。
 歌の中で少女は、木々や花々に囲まれたメルヘンチックな世界で遊んでいるように描かれる。だがしかし、これはおかしい。「月」 にそんな世界があるはずがない。
 ならばなぜ、彼女は “moonchild” と呼ばれるのか。

 それまでの物語の流れ―及びベトナム戦争という背景―から、僕にはどうしても捨て切れない疑いがある。この少女は戦争孤児ではないのか、という疑いである。
 Schizoid Man で描かれる、ナパーム弾に蹂躙される村人達。その中に、彼女の両親・兄弟がいたとしたら。その光景を目の当たりにしてしまったとしたら。

 たとえばベトナムではないが、1982年レバノンで、包囲されたパレスチナ難民キャンプにいた一人の少年の話を思い出す。
 イスラエルの意を受けた民兵による大虐殺の最中、少年の聾唖者の姉が殺された。切り裂かれた腹部から、胎児が飛び出していた。姉は妊娠していたのだ。一部始終を見てしまった少年の髪は、老人のように真っ白になってしまった *1
 これは実話である。このような子供が moonchild ではないのだろうか?

 自閉した子供─それも先天的な障害によってというより、後天的なショックをきっかけに、引きこもることを余儀なくされた、精神に重大な傷を負った子供。
 紛争地域ではこんな話は珍しくはない。しかしPTSDという言葉も、最近でこそ自然災害の後などにニュースの話題にもなるが、結局のところ 「副次的被害」 という扱いでしかない。
 肉体に負った傷が主である場合でさえ、痛みの衝撃や、麻酔その他の薬剤がもたらす幻覚によって、現実と非現実が、現在と過去とがゴッチャになるような精神状態に投げ出され、結果として心に大きな影響が残ることがある。ましてや四肢の損傷などのため、それこそ身体障害者になってしまった場合──大人ですらパニックを起こすようなこれらの状況を、子供が引き受けなければならないとしたら、その心には何が引き起こされるだろう?
 何であれ、局外者の想像を絶する混乱と痛みが、精神の変調をきたした子供の中にはあるだろう。それもまた戦争の発明品である。

 「Moonchild」 の場合、現実に少女がいる場所は、焼き払われた村の残骸かもしれないのだ。そういえば時に報道などで、空爆によって穴だらけになった街や村を、「月面のようだ」 と表現することがある。
 彼女以外動くもののない、月面のような死と静寂の世界。そこで彼女は静かに狂っている。「山の上で太陽を待つ」 とは、ベトナム/ラオスの国境付近の山岳地帯にその村があるからだろうか。そして村が焼失した後も天体の運行はめぐる、そんな (狂死してゆく者には無意味な) 規則性に一人無意識に従う少女の姿を、残酷に暗示しているとしたら。
 それじゃあまりに救いがない、と思われるかもしれない。だが直後に続く間奏部は、僕のこういう妄想を後押しするように聴こえて仕方ない。およそロックの歴史の中で、これほど純粋にまた簡潔に、“悲痛” というものを表現したギター・ソロを、僕は知らない。

 あるいは逆に、メルヘンチックに描かれる風景が現実だとしたら、そこは精神病院か、それに類いした施設の中の風景、とは考えられないだろうか。災害や戦争によって被災した子供たちを収容・治療する、西欧の都市郊外にある施設の類である *2
 しかし moonchild はそこで心を開かない。外界からの呼びかけに全く応じず、木や花や虫を相手に、一人遊びに興じている。
 医師や看護士たちは、遠くから彼女を見守るしかない。そして施設内の 「噴水のふち」 などで彼女が眠ってしまったら、看護士は彼女をそっと抱きかかえ、病室のベッドにまで運ぶのだろう (ひょっとしたら 「乳白色のガウン」 とは、看護士の白衣が、少女の心に印象付けられ、何かの作用で変形されたものだろうか。まあ、そこまで考える必要はないかもしれないが・・・)。
 時として彼女は、過去の決定的な、運命的な瞬間を何かの拍子に思い出し、その 「こだま」 を追うように歩き出したり、走り出したり、ある行動を再現しようとすることもあるだろう。あるいは彼女が隠れんぼをする相手の 「夜明けのまぼろし」 とは、死んだ彼女の兄弟姉妹か、幼なじみの誰かの幻影なのかもしれない。



眠りの中で

 少女のいる場所が実際どちらであるにせよ、moonchild の moon とは、人間の住めない (人間を拒絶した)、閉ざされた心の世界であることはほぼ確かだと思う。

 曲の後半、長々と続くインプロヴィゼーションは、副題からも察せられるように、幻想の中に遊ぶ少女の一人遊びの様子を描いている。
 この部分を長過ぎて退屈だという人は多い。が、それはきっと正しい。実際、シンフィールド/クリムゾンとしては、この部分はそこそこ退屈に感じてもらいたかったのではないか?なぜなら、まさにそれによってしか、外界から隔絶した子供の内面というものを表現できないから。
 例えば自閉症患者が、とりつかれたように、一つの遊びを延々くり返しているのを傍で見ているのは、普通の人にとっては苦痛なくらい退屈なものだ。「Moonchild」 のインプロヴィゼーションは、それに比べればよほど変化に富んでいる。何か一つのものをじっと見つめ、物思いにはまり込んでいるような7th−9thのメランコリックな響きを皮切りに、好奇心や怯え (恐怖の影)、記憶との照合、逃避、滑稽、攻撃性など、様々にニュアンスが転じていく。そこからは子供らしい飽きっぽさ、いい意味での落ち着きのなさが見え隠れし、彼女の心の (損傷していない部分の) 活発さが伝わってくるようだ。

 しかし何といっても、このインプロヴィゼーションの最も劇的なところは、ギターの奏でる和音がそれまでの短調から長調にさりげなく転じる、エンディングの入り口だろう。
 遊び疲れ−あるいは空想し疲れた少女が、ゆっくりと眠りに誘われる。単調な鈴の音は、ハンモックの揺れを、子守唄を想起させる。歌っているのは母親だろうか。平和な日々の、暖かい思い出の中の者たちに囲まれ、心の底から安心しきって、少女は眠りの中に落ちていくのだ。

 ただ、ここで少女が健やかに眠って一件落着ということなら、このアルバムに 「Moonchild」 という曲が存在する意味がないのである。
 彼女は、自然の導くままに眠りに落ちることもできるが、永遠に眠り続けるわけではない。彼女は目覚めなければならない。夢も現も分からない精神状態で生きていながら、それでも彼女は自身が置かれているネガティヴな現実を確実に感じ取っている。だからこそ目覚める時に、夢からであれ何かポジティヴなものを拾い上げようとする。
 ポジティヴなもの――それは人間だ。なぜなら彼女は死者ではない (死者なら孤独でないだろう)。そして生きている人間に必要なのは、究極のところ生きている人間だからである。だから人間が住めない月世界で、彼女は来るべき人間を待っている。
 過去に閉じこもって生きるには、子供は生命力がありすぎる。その生命力が、現在と未来において彼女と共に生きる者を求めざるを得ない。それが sunchild なのだ。
 sunchild はその名の通り、moonchild と対を成す者、陰に対する陽、少女に対する少年か。だが肝心なことは、その者が、その容姿やエキゾチシズムで少女をうっとりさせる未来の王子様、という以上の存在 − moonchild を閉ざされた月世界から連れ出してくれる存在でなければならない、ということだ。
 だから彼女が眠りに落ちた途端、深紅王の宮殿とその城市が蜃気楼のように忽然と立ち現れ、最初の一行が歌いだされる。すなわち、

 月の牢獄の錆びついた鎖は 陽光を浴びて砕け散る

 陽光=sunchild の微笑みが、眠りの中で moonchild を解放する。タイトル曲 「クリムゾン・キングの宮殿」 は moonchild が見ている夢だ。
 しかもこれは、ただ個人の中で完結する夢なのではない。sunchild の微笑みの向こうにそれがあるという以上、彼と共に生きようとする本能に導かれて見るもう一つの世界─異界の夢なのだ。



Sunchildの転生

 その異界で、鎖が砕け散った牢獄の外に、moonchild 本人の姿はない。いるのは性別年齢不詳の 「私」。この 「私」 は誰だろう?
 前後の文脈からは、解放者である sunchild その人だと思って差し支えなさそうだ。しかし、moonchild を解放した途端 moonchild がいなくなるということは、sunchild の中に解放された moonchild が溶け込み、同一化し、一人の 「私」 になったとは考えられないだろうか。「私は歩み/地平線が変わる」 という絶妙な表現からも、人物の 「転生」 した姿、というムードを強く感じてしまう *3

 しかしその前に、sunchild はそもそもどこから少女のもとにやって来たのか?という問題がある。言い換えれば、「転生」 以前の sunchild は何者だったのか?
 アルバムにおけるヴォーカルの演出に注目してみる。A-1 「Scizoid Man」 は暴力的な歪ませた声、B-1 「Moonchild」 はイコライジングにより変成し、主観的情緒をカットしたような声。つまりどちらも 「生の声」 ではない。変形によって、この2曲の歌詞は 「客観的な情景描写」 であることを強調したいからだろう (もちろんジャーナリスティックな意味での 「客観的」 ではなく、あくまで “演出” という意味においてである)。
 対して他の3曲は、いずれも同一の歌い手による 「生の声」 で歌われている。物語ということを意識する以上、この3曲での主語 「 I 」 が同一人物であると受け取るのは自然なはずである (大体 「Scizoid Man」 と 「Moonchild」 には、「 I 」 という主語自体が出て来ないのだ!)。
 つまり 「 I 」 とは 「風に語りて」 で分裂し、「Epitaph」 では未来を悲観して泣いていたあの青年であり、その彼が最終曲で、少女の夢の中に唐突に現れたことになる。
 なぜだろう。2人はお互いに知らぬ者同士だ。なのに、・・・いやだからこそ、面識のない青年が少女の夢の中に現れるという飛躍にこそ、この物語の最大のポイントが隠されているに違いない。なぜならもちろん、あの青年こそが 「転生」 以前の sunchild だったことを、その飛躍が裏付けるからだ。

 moonchild の精神は、「sunchild の微笑み」 を足がかりにして、自らを解放したいという願望 (というより本能) に貫かれていた。
 ただの微笑ではない。彼女が求める微笑の持ち主は、彼女同様、心を破壊され、病んでしまった者、病むことの痛みを知る者でしかあり得ない。病んでなお、「愛への渇望、知識の探求、人類の苦悩への無限の同情 *4」 を持ち続ける者でしかあり得ない。その者が、たとえ地の果てにいようと、地球の反対側にいようと、共鳴の力 (M・エンデなら 「予言的本能」 と呼ぶかもしれない) によって彼/彼女は探り当てられるのだ。物理的空間を超越し、地続きの夢の中で、 「転生」 以前の 「私」 は moonchild に見出された。いや、見出されたというより、moonchild と共に生きるため、sunchild に転生させられたというべきかもしれない。
 しかし、彼は彼で 「転生」 する必要に迫られていたのだ。それは彼が 「明日への怖れ」 を乗り越えるための、必然でもあったからである。

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*1 http://www32.ocn.ne.jp/~ccp/in/transaction/faiza.html 参照。
*2  以前TVの 「ウルルン滞在記」 で、同種の施設が紹介されたことがある。ドイツの施設で、アフガニスタン・イラクやアフリカの子供をサポートするものだった。
*3  その流れから、月と太陽、相反する2つの原理の相克により生まれる自然のダイナミズム、というモチーフを見て取るのは妥当だろうか?後の『太陽と戦慄』の有名なジャケット (下左図)、あるいはクリムゾンの特徴の一つとも言える、音量・音圧の極端なまでの起伏の大きさなどを知る者には、なじみ易い考えかも知れない。
 また、西洋と東洋という 「2つの原理」 の緊張と融和、という観点も当然ありえる。クリムゾンの曲にはオリエンタルなムードを醸すものが少なくない。だが 「太陽と戦慄パートT」 のように、西洋音楽の構造の中にあからさまに緊張をあおるような形で 「東洋」 を対置させたりするのは、むしろ例外である。旋律そのものが西洋とも東洋とも言い難い、言わば 「中洋」 的なものになっていく70年代後期以降は特に、緊張と融和の間を自由に行き来するようなアプローチが板についている。しばしばR・フリップがインタヴューで使った 「折衷」 という言葉は、単にハードな曲とソフト・メロウな曲の折衷のことばかりでなく、この 「中洋」 的な融和の状態をも、結果として指している気がする。
 『宮殿』にはあからさまに 「東洋」 を指し示す音楽的要素は見当たらない。しかし、たとえば内ジャケットの絵 (下右図) を見ると、この謎の僧形が結んだ指の形は、明らかに仏教またはヒンドゥー教の行者のものだろう。この人物が深紅王であるにしろないにしろ、歌詞とヴィジュアルをトータルに仕切ったシンフィールドの中に、「西洋の認識に対する東洋の智恵」 的な狙い (ありがちだが^^) は少なくともあったわけである。
  
 ただ、P・シンフィールドの初期の詞ということで言えば、2つの原理が引き起こす摩擦・緊張よりも、むしろ 「隠れたる一つの原理による調和」 こそが主眼であるように思える。僕の論考では、東洋の少女である moonchild と西洋の青年である sunchild とが夢の中で引き合う情景を想定している。その場合どちらが東洋でも西洋でも、どちらが男性でも女性でも、本質的にはどうでもいい。太陽信仰は洋の東西を問わず存在するし、女性の生理が 「月経」 であるからといって、僕のイメージでは太陽はむしろ女性である。要は、かけ離れていると思えたものが実は近くにある、その背後には一つの原理だけがあるということこそが、シンフィールドにとっては重要だったのではないか、ということなのだ。
 その一つの原理に基づく私と “他者”、私と “自然” との共鳴−私の中の “他者”、私の中の “自然” の発見 (拙訳 「Peace - An End」 なども参照) などなど。そしてそれらは結局すべて私の中にある、だからどんなに華麗に奇抜にデコレイトしようと私のものである、というのがシンフィールドの詩作に通底している考え方のようである。
 「2つの原理の相克」 は、大雑把に言って第二期以降の (そしておそらくはR・フリップの) モチーフだと見るべきではないか。先に述べたオリエンタルな曲調というのも、シンフィールドというよりフリップの曲作りに古くから盛り込まれていた要素である。
 したがって本論考では、moonchild と sunchild の共鳴、共鳴を可能にする地続きの部分にとにかく着目する方が筋だと思う。
*4  バートランド・ラッセル(1872−1970)の言葉。N・チョムスキーのMITの自室には、この言葉が額に入れて飾られているんだとか。




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