random note 1
The Pop Group/Mark Stewart
未完の序曲

2006.Mar. レイランダー・セグンド




原住民の踊り


 “アンファン・テリブル〜恐るべきこどもたち”。ザ・ポップ・グループほど、そんなキャッチフレーズにぴったりのバンドはなかった。というのも、実年令の若さ(全員10代だった)ということだけでなく、彼らほどロックの“幼児性”を前面に出したバンドはなかったと思うからだ。
 彼らの1stアルバムは、よく「既成のフォーマットを破壊した」などと評される。だが、彼らは特に破壊を目論んだわけではない、という気がする。フォーマットを自分達の遊び場に、気の向くままに玩具を振り回し、投げ合っているうちにそれを壊し、自分達まで怪我をしてしまう、ブレーキの効かない乱暴な幼児、“アナーキーの化身”のようなものだったのではないか。

 彼らのサウンド(とりわけ1st)を聴くと、僕は自分が中学生の頃はじめて組んだバンドのことを思い出してしまう。エレキ・ギターやドラムスのような楽器は、未熟な僕らにとっては音楽を演奏する道具というより、爆音と悲鳴の儀式のための道具だった。ギターは何かにこすりつけるためにあり、アンプは蹴飛ばすためにあり、マイクはハウリングを起こさせるためにあり、スタンドは振り回すためにあり、ドラムは「原住民の踊り」のためにあった。
 おそらく全国津々浦々、テクニックのテの字もない未成年者同士がバンドを始めると、ほとんど同じ現象が起きたのではないかと推測する。最初はポピュラーなバンドのポピュラーな曲のコピーを演るはずが、うまく演奏できない。すると、とにかく音を出す快感だけには酔いしれたいので、始まるのは「原住民の踊り」なのだ。ドラマーがタムを中心にボンゴボンゴやる。それに乗せてベースはエセ・チョッパーを交えたワン・コード、ギターはエセ・早弾きを交えたノイズ、ヴォーカルはエセ「原住民語」と日本語・英語のチャンポンで叫ぶ(確かにここ1500年くらいに限ってみれば、我々は立派に日本原住民だが)。
 それが、個人個人の技術が向上し、コピーの曲を演りこなせるようになってくると、「原住民の踊り」は卒業となる。まさか学園祭でそれを演るわけにもいかない。
 言うなれば「既成のフォーマット」獲得以前の形態が、ロック版「原住民の踊り」だ。そして、ザ・ポップ・グループというバンドは、この「原住民の踊り」をそのまま続行し、自分達の情念をそこに託してしまったバンドだ、という気がする。
 だからこそ僕は聴くたびに、懐かしさと戦慄を同時に味わう。その懐かしさとは、学生時代を思い出しての、というだけではもちろんない。人間としての、根源的な怒り、荒々しさに対する懐かしさとでも言うべきもの。むしろそちらの方が核心に違いない。



1stジャケット


 ロックは数多くの刺激に満ちた、魅惑的なレコード・ジャケットを送り出してきた。そんな中、インパクトという点で僕に最も衝撃を与えたジャケットが2つある。一枚がキング・クリムゾンの1st『クリムゾン・キングの宮殿』(別項参照・・・するまでもないくらい有名)であり、もう一枚がザ・ポップ・グループの1st『y』である。
 この2つのジャケットは、好対照なところがある。『宮殿』の方は日常の中に突如現れたアートの衝撃であるのに対し、『y』のジャケットは、アートの文脈においてすら「なんだこれは(©岡本太郎)」と言葉を失わせる。僕はこの『y』のジャケットを見るたび、フフフと笑いがこみ上げ、同時になぜだか血が騒ぐ。
 そして両者は、レコードの内容自体がある意味対照的だ。片や西洋の音楽的伝統・技巧の粋を、ロックという新しいフィールドの上に構築してみせたもの。片やその伝統・技巧をアナーキーに粉砕し、「脱構築」してみせたもの─あるいは西洋的「構築」以前のむき出しの情念。完成されることを拒否し続ける情念。「We are time!」という合図によって開始された「現在」は、今も「現在」であり続ける。
 そしてだからこそ、先の「原住民の踊り」は、これ以上ないほど、レコード・ジャケットに似つかわしい。



雑食性


 それにしても・・・・ビートルズから7年後にクリムゾンが現れ、クリムゾンからわずか6年でパンクが、そしてその3〜4年後にザ・ポップ・グループが登場した。人類史上、こんなに短期間にこんなに密度の濃い変容を遂げた文化があっただろうか。それがイギリスという一つの国の中で起こった。
 「西洋的音楽史観」の問題など、この際どうでもいい。僕が言いたいのは密度のことである。これほどの密度があるということが、ロックという音楽が内包できるものの多様さを証明している。
 言い換えるなら「雑食性」。ザ・ポップ・グループのもう一つのキーワードがそれであり、またそれは彼らの出身都市ブリストルのキーワードでもあったのだろう。
 ブリストルはイギリスの中でも最も有色人種の移民・出稼ぎ労働者などが多く住む街だったらしい(少なくとも当時は─今は他の大都市でも似たり寄ったりだろうか?)。ロックはただでさえ雑食文化の賜物だが、彼らの場合は特に、国内の「異邦人」たちとの接触を通じて、ファンクやレゲエなど、ブラック・ミュージックをメインに聴いて育った白人の子供たちだったという点が象徴的である。
 俺たちはパンクじゃなかった。パンクはすでに「起こってしまった」ことで、俺たちはいわゆるパンク・バンドよりも1,2年若かった。俺はずっと黒人音楽が好きで、しょっちゅうファンク・クラブに出入りしていた…だからファンクがやりたかったんだ。俺らはすごくファンキーだぜ、って自分たちでは思ってたんだけど、演奏はそりゃひどいもんで…だから見た人たちから“アヴァンギャルド”だって思われちゃったんだよ。
(マーク・スチュアート)*
 先鋭的な社会状況が先鋭的な音楽を生み出すのは当然として、なおかつロックにおいては、雑食性と先鋭性がコインの裏表であることの究極の象徴が、ザ・ポップ・グループだったと言えるかもしれない。

* 出典 http://www.uncarved.org/music/maffia/maffia.html

この項続く―

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